記憶を継ぐ花 1
――腕の中の温もりが、まだ消えない。
白銀の光、淡い息。
触れたはずの指先が、遠くで脈打っている気がした。
ユリウスは目を開けた。
見慣れた天蓋の下、深夜の静けさ。
だが胸の奥では、まだ“あの映像”が焼き付いて離れない。
あれは、いったい誰の記憶だ。
花の共鳴に映った抱擁。
あの瞳の色、髪の揺れ、すべてがネルダに重なって見えた。
けれど、そんなはずはない。理屈では説明できない。
なぜこんなにも彼女が気になる?
それが自分の想いなのか、それともーー花に刻まれた、誰かの想いなのか。
答えは出ないまま、夜が明けていった。
*
重なり合った木々の間から、透きとおった光の帯が幾筋も差し込んでいる。
サファイリア城の裏手、広大な敷地内の一角を埋め尽くしている森は、慣れていない者ならば軽く迷うほどに深かった。
つまり、ネルダはすでに迷い始めていた。
「敷地内で迷子か……」
口に出すと、情けなさがより際立つ。
今日は休みを貰っているとはいえ、日が落ちる前には帰らないとまずいだろう。
皆が寝静まった頃にそっと抜け出すことには慣れている。けれど、目をつけられるような振る舞いは避けたかった。
深いけれど、所詮は敷地内。果てがわかっている森だ。まあなんとかなるだろうと気を取り直して奥へと進む。
星幻草は、土が乾くことを嫌い、陽光と月光のどちらも欲しがる。
ユリウスが昔見かけたという場所を聞くに、やはりその条件が揃う場所だったようだ。
鬱蒼としげる森のなかほど、空がぽっかりと開けた水辺のそば。
見たのは十年ほど前とのことだが、星幻草の習性から、まだそこにあるという確信があった。
魔導書や灯、軽食をいれた荷物を抱えなおしながら、二つの魔法について考える。
恋も花も、あの本の主題のとおり“初歩的“な魔法に分類される。
それは人や生き物に対する影響が少ないからだ。
その気がない相手を無理に惚れさせるわけでも、生態系を荒らす植物を地に根付かせるわけでもない。
……幻の花を地に根付かせようと、少し手を加えたうえで声律を破ったのは少々、いや割とまずかったかもしれない。
だからだろうか。
あの魔法を試した夜から、ネルダの左手は軽く痺れていた。
手のひらを握ったり開いたりしてみる。
大きな支障はなさそうだ。
初歩的な魔法とはいえ、律を破り、あまつさえ手心を加えると、なんらかの罰が下るのかもしれない。
……罰。
気が遠くなるほど昔に失われたはずの魔法は、ネルダに流れる血とともに存在し続けていた。
魔法の発動条件だったはずの“蒼の律“はその実、魔法を発動させないための鍵だった。
蒼の魔女の里は、隠された場所にあり、領土内でも存在を知るものは限られていた。
単なる神話、おとぎ話にしては、やたらと隠すことに気合が入りすぎている。
なぜこれほどまでに魔法を封じ込めようとしてきたのだろう。
たとえ初歩的な魔法だとしても、その理由を知ることなく、安易に試していいのだろうか。
思考の渦に沈みすぎていたことに気がついたのは、岩場で足を滑らせた瞬間だった。
ーー落ちる!
岩場の下は、落ち葉が折り重なっているとはいえ高低差がある。
怪我はしないだろうが、衝撃はそこそこあるだろう。
早々に覚悟をきめた、その時。
落下するはずの体は宙を浮き、背後から腕を強く引かれてそのまま腐葉土に倒れ込む。
痛みも衝撃もない。それは、誰かがネルダのぶんまで受けてくれたからだった。
「……ユリウスさま」
慌てて身を起こすと、蒼の瞳を見下ろす随分と不敬な体勢になってしまった。
色とりどりの葉にまみれたユリウスは、驚いたようにネルダを見上げていた。
次の瞬間素早く起き上がると、身だしなみを整え、短い吐息とともに形の良い唇を開く。
「注意散漫を治す魔法はないのか」
ネルダも立ち上がり、小枝や葉をはらいながら礼をする。
「……探してみます」
呆れた顔のユリウスを見、記憶を消す魔法もあればいいのに、と思うネルダだった。
*
ーーその数刻ほど前のこと。
ひとりで森に入るネルダをたまたま見かけたユリウスは、一度はそのまま通り過ぎた。
だがふと胸に嫌な予感がよぎり、逡巡の末にあとを追うことにした。
今思えば、その判断は正解だった。
心の動きがあまり表情に出ないせいかしっかり者に見えるネルダだったが、どう見ても大した土地勘もなく当てずっぽうに森の中を歩いていたことを知り、はじめから同行すればよかったと後悔する。
無論、そんなことは本人には伝えはしないのだけれど。
「星幻草の習性を信じているのか?」
記憶を引き継ぎ、同じ場所で芽吹き続けるという植物。
肩越しに振り返りながら問いかける。
どうせ迷うのだから黙って後ろをついてこいと言われ、大人しくユリウスの背を見ながら歩いていたネルダは、軽く息を弾ませつつ答える。
「はい。引き抜かれても、枯れても、また同じ場所で咲きたいと本人が願えば、再びそこで芽吹く」
根こそぎ抜き去っても、同じ数だけ芽吹き、同じ葉や花の特徴を持った星幻草になると言われている。
「……単に除去しきれなかった種から芽が出るというだけの話だと思っていたが」
歩調を緩めつつ、知識と照らし合わせる。
星幻草について深く追及したことはなかったが、温室の植物でもそういうことはよくある。
特別珍しいことではないように感じた。
ネルダはそうかもしれません、と軽く笑う。
「とても生命力の強い種なのかもしれません。でもーー」
そこで言葉が切れる。
また息が上がってしまったかと様子を伺うと、柔らかい色を宿した瞳とぶつかった。
「記憶を引き継いで生まれるなんて、素敵じゃないですか」
ユリウスは軽く息をのむ。
揺らいだ感情が、容易く顔にも出るような男だと思われたくなかった。
進む方向に視線を戻しながら、つとめて冷静に思考を言葉で紡ぐ。
「……今の自分の嗜好や言動が、引き継がれたものだとしたらどう思う。星幻草のように、枯れる前の自分の一部に……影響を受けているのだとしたら」
その問いの裏にあるものにまで、ネルダは気づかない。
なるほど、と呟き考える。
「生まれ変わる前の自分が早起きするのが嫌いだったから、今の自分も早起きが死ぬほど嫌い……たとえば、そういうことですね」
「早起きが苦手なのか」
「たとえばの話です」
苦手なのだな、という言葉は胸の内だけにとどめ、頷きを返事の代わりとする。
「私として生まれる前の私も、陽干し果が好きだったとしたら……」
ソルドリィとも呼ばれる、果実を干して作るサファイリアの伝統的な保存食。
貴族の茶会でも庶民の食卓でも重宝されている保存果だ。
「……どうしようもないくらい大好きなんだ、と思います」
迷いのない答えが、ユリウスの心に反響する。
思わず足を止める。
振り返ると、答えと同じ真っすぐな眼差しが向けられていた。
「一度命が尽きて生まれ変わっても、好きなものは好きで嫌いなものは嫌いだなんて、よほどのことです」
いくつもの色が混じった銀灰色の瞳に、遠い記憶が重なる。
「だからきっと、未来永劫好きなんでしょう。それはすごく……幸せなことだと思います」
早起きが未来永劫嫌いなのは幸せなことなのかどうかはわからないけれど、と付け加えながら、ネルダは控えめに微笑んだ。
柔らかな風が木立をすり抜け額の金糸を揺らす。
この微笑みを愛したことがある、とユリウスは思った。
そして未来永劫、好きでいることができたら幸せなことだとも。




