白銀の花、沈黙を破る声 2
「その花を……どこで見つけた?」
声が漏れた瞬間、胸の奥が熱を持つ。
まるで何かが、名を呼ばれるのを待っていたかのように。
陽光の中で、小瓶を抱える少女が振り返る。
両の手の中に咲いた花は、銀色に光を返していた。
見間違えるはずがない。
それは、伝承の中でしか存在しないはずの——サファイリウム・アルバ。
「……これは、ただの……」
ネルダの声が途切れた。
彼女の視線が泳ぎ、背に隠すように花を包む。
咄嗟に言葉を継いだのは、理性ではなく直感だった。
「ここでは話せない。来い」
戸惑う彼女の手を取って、足を向ける。
目的地は温室——王立植物園の奥、一般の使用人が入ることのない研究区画。
半ば引かれるように歩く彼女の足取りが軽いのを感じながら、
胸の奥で、何かが小さく脈打っていた。
白い花。
探し求めていた幻の花弁。
あの花を見た瞬間、胸の内側が灼けるように熱を持った。
まるで何百年も前、同じ光の下でその手を取った記憶が、胸の奥から呼び覚まされるようだった。
白銀の花の中に、懐かしい鼓動がある。
まるで誰かと誓いを交わしたような——。
いや、そんなはずはない。
思考を振り払うように、扉を押し開けた。
*
温室の中は、昼の名残を抱いたまま蒸気のような温もりを帯びていた。
陽光がガラスの天井を透かして降り注ぎ、青いサファイリウムが微かに揺れるたび、床に光の粒がこぼれる。
そのすべてを見て、ネルダの瞳がわずかに見開かれた。
「……きれい……」
声は囁きのように、けれど確かな響きをもっていた。
その一言に、なぜか胸が掴まれる。
たった今この温室が初めて息をしたように感じた。
自分が毎日眺めてきた花のひとつひとつが、
彼女の目を通すだけで意味を取り戻していくようだった。
「ここは、姉上の……いや、王族の研究区域だ。許可なく入れる場所ではないが……今だけは構わない」
「……怒っていないのですか?」
彼女が手を胸に添えたまま問う。
花を隠すように、でも守るように。
その仕草が、なぜか祈りに見えた。
「怒るべきなのかもしれない。けれど……」
――その花を持つ君を見て、胸が高鳴ったんだ。
続く言葉を、紡ぐことはできない。
ユリウスはサファイリウムの棚に手を置き、
ゆっくりとネルダのほうへ向き直った。
「この花を、知っているか?」
「いえ……知りません。魔導書に書いてあった詩篇を試して……それだけで」
魔導書。
詩篇。
失われた古代語——。
脳裏にひらめいた言葉の断片が、
どれも熱を帯びて胸を刺す。
「……古語を口にしたのか?」
「はい。でも……ほんの少しだけ。“蒼の律”のひとつを破ることになると、わかっていたのに」
「……蒼の律、か」
その言葉に、幼いころに読んだ建国神話の一節がふとよみがえる。
『蒼の血に連なる者、七つの律を超えてはならぬ。』
蒼の律――世界を分かたぬために、魔女が残した七つの禁。
子どもの頃はただの寓話だと思っていた。
だが、目の前の花がそれを否定している。
彼女が禁を破って花を咲かせた。
それは偶然ではない。
ユリウスは一歩、彼女に近づいた。
「その声で、この花が目を覚ましたのだな」
ネルダが戸惑いの色を見せる。
だがその瞳の奥に、確かな光が宿っていた。
その輝きを見ていると、胸の奥が懐かしさで痛んだ。
銀と蒼。
互いを映す鏡のように、二人の視線が結ばれる。
「……この花は、伝承の中だけの存在だと思っていた。けれど、君が咲かせたのなら——失われた魔法は、まだどこかに生きているのかもしれない」
沈黙。
温室の中に、風が通り抜ける。
光を受けた花々が一斉に揺れた。
その音がまるで、遠い過去の記憶を呼び覚ます鐘の音のように響く。
「なぜ私たちは、魔法を失ったのでしょうか」
ネルダがそっと囁く。
「俺も、ずっと気になっていた。なぜ、“蒼の魔女”の名とともに、魔法そのものが禁忌とされてきたのか」
「村でも同じです。知識としては学ぶけれど、“蒼の魔女”のことは誰も語りたがらなかった」
そこで、二人同時に口をつぐむ。
語らずとも、同じ光景を思い出しているとわかった。
「……君と出会った夜、蒼と白の光を見たんだ」
その夜のことを語るのは、これが初めてのことだった。
「あの日から俺は、この花を探し求めていた」
言葉と眼差しが一致しない。
視線は花ではなくネルダに注がれたまま、逸らすことができないというのに。
ネルダはその眼差しから逃げることなく、そっと微笑んだ。
「ようやく、お礼が言えます。……私を見つけてくれて、ありがとうございます」
ネルダはそう言って、魔法で作り出した白い花を差し出した。
蒼の瞳と白銀の瞳が絡み合い、花のようにほころぶ。
気持ちを受け取ろうと、ユリウスが静かに花に触れた時だった。
虹の色を含んだ光の粒子がひとひらの花弁から生まれ、輝きを増しながら花を包み込むようにきらきらと膨らんでいく。
やがてそれは花を抱きしめるだけでは飽き足らず、洪水のように溢れて宙へとあがり、空を駆ける星のように降り注いだ。
「……!」
二人して、何も言えなかった。言えば、零れてしまうから。
涸れることのない光の泉。
ユリウスとネルダは、幻の花が起こした奇跡にすっかり心を奪われてしまっていた。
「私は……知りたいです。なぜ花を咲かすことができたのか」
白銀の瞳は、幻の光を映してひときわ輝いて見えた。
「なぜ、わたしたちが……魔法を失ったのか」
その言葉に、ユリウスはしばらく沈黙した。
彼女の瞳に映る決意の光が、かつて誰かと交わした誓いの残響のように感じられた。
「君の研究……俺にも、手伝わせてくれないか」
ネルダが驚いたように瞬きをする。
だがすぐに柔らかな笑みを浮かべ、手のひらをそっと差し出した。
「正確には、“君たち”の研究です。
……ようこそ。サファイリア魔法研究会へ」
その手に触れた瞬間、ユリウスはほんのわずか強く握った。気づかれない程度に。
空気がひとしずく震える。
ふたりの手のひらのあいだに、淡い光が灯る。
それは約束の記憶――
忘却の果てで、再び世界が動き出した。




