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白銀の花、沈黙を破る声 1

夜は、廃墟のすみずみにまで沁み込んでいる。


崩れた梁の影、石壁の割れ目、冷えた床。

そこに小さな灯りを一つだけ置いて、ネルダは魔導書の頁を撫でる。


「……もう一度」


メアリーレインがこの場所ーー彼女が名付けた「魔法研究所」に訪れなくなって、数週間。

ネルダは人目を盗み、魔法の研究を進めていた。


恋のおまじないだと思われる”想いを咲き合わせる詩篇”は、いかなる方法を試しても目を覚ましてはくれない。


息を潜め、古い記号を目で追い、指先で詩行の区切りを確かめる。

声にはしない。

蒼の魔女の隠れ里では、古代語の勉強こそすれど、それを口にすることは固く禁じられていたからだ。


ーー声は世界を揺らす。沈黙を忘れるな。


曽祖母がよく言っていた”蒼の律”のひとつである声律(せいりつ)が、胸の奥で静かに鈍る。


どうにかして彼女の願いを叶えてあげたい。

蒼の律をすべて守っても、魔導書に記された手順をすべて正確に守っても、夜の静けさが破られることは一度もなかった。


「もしかしたら、蒼の律って……」


灯が揺れた。

隙間風がすべてを撫でまわすように吹き込み、ぱらり、と頁がひとりでに歩くかのようにめくれる。

あわてて押さえた指先の下で、別の章があらわになった。


ーー(  )を咲かせる詩篇。


肝心の部分は、破れた紙の向こうに失われている。

けれど、細い古代文字がかろうじて残っていた。


根を鎮め、風を呼び、水を温め(ぬくめ)、眠りを開く。


想いを咲き合わせる詩篇と似ている、と思う。ならばーー方法も、きっとそう遠くはない。


息を整え、心を澄ませ、掌を合わせる。

じんわりと熱が広がるのを待ち、沈黙の内側だけで繰り返してきた言葉を、再び音にせず唱える。


今夜だけは。

今夜だけ特別に、喉を通してみようか。


沈黙を破り、古き言葉たちを”今”に連れ出したら、一体何が起きるのか。

灯が揺れるたびに迷ってはやめる。


「……古代語は、口にしない」


囁きは、夜風にすぐ溶けて消えた。

それでも諦めきれず、ネルダは目だけで詠唱を辿る。

詩行の最後、世界の綴じ目みたいな箇所まで辿り着くけれど、やはり何も起きない。


静けさが戻る。

遠くで夜警の靴音、羽虫の小さな影。


今頃メアリーレインは何をしているのだろうか。

想い人とやらと、一言でも言葉を交わせただろうか。

屈託のない笑顔は、今日も曇らずそこにあるだろうか。


「咲かせたいな……」


胸の前で指を組む。

蒼の律が、また一つ胸の内側を掠める。

声律ーー声は世界を揺らす。

破れば、きっと叱られる。破れば、きっと傷つける。


……一体、誰に?


誰かを想って声を出すことが罪ならば、それを犯しても構わない。


喉の奥に眠らせてきた音が、ゆっくりと形になってゆく。


「ーール・ファ・リウム」


古い音節は、灯の炎をわずかに震わせ、空気の縁を明るくする。

沈黙が、薄氷みたいに鳴った。

静かに目を閉じ、続ける。


「根を鎮め、風を呼び、水を温め……眠りを、開け」


瞬きをひとつ。

何も起きないーーはず、だった。


床下で、微かな音がした。

砂の下に隠れていたか細い繊維が、ぴん、と弾けるように持ち上げる。

冷たい空気がやわらぎ、破れた屋根の穴からこぼれた月光が、そこだけ濃くなった。


「……え?」


瓦礫と瓦礫のあいだ、ほどけた糸のようなものが空気を撫でる。

糸は芽になり、芽は蕾になる。

確かな拍動はネルダに心臓に似た速さで、閉じた花びらが呼吸を覚え、ひらひらと薄片のようにほどけていった。


白。

だけど、ただの白ではない。


指で触れれば冷たいはずなのに、見ているだけで掌が温かくなるような、銀の白。

花弁の縁に、虹が潜む。

灯が揺れるたび、虹は水面みたいにきらめき、消えては生まれる。


「咲いた……」


手のひらの、一輪の花。

細い茎が頼りなく震え、その先端の冠のような花弁が、ネルダの顔を覗き込む。


名は、知らない。頁は破れていた。

けれど、どこかで聞いた気がする。


いつの日か、再び白き花が咲くときーー


ネルダはそっと息を呑み、どこかに清潔な布があったはずだと探す。

ようやく見つけた生地の切れ端で、花を傷つけないように優しく包んだ。


叶うかはわからないけれど、もし、彼女と会えたなら。

どんな顔をするのかと思い描いて胸が沸く。


礼拝堂の四角い壁穴から、夜風が優しく吹き込んだ。

灯りがまた小さく震え、魔導書の別の頁がふるえる。

詩篇の脇に、古い走り書きがあった。


ーー声は鍵。鍵は祈り。

祈りは、誰かのために。


「誰かの、ために……」


灯りを消し、闇に目を馴染ませる。

朽ち果て、扉としての役割を朧げに覚えているだけの木製の扉を押し開けると、

夜の冷たさがそっと寄り添ってきた。


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