死にかけてる場合じゃない。
『ヒィッヒ、ヒィッヒ、ホォァアッハァッ』
『『『『『グゥぉアアァァアァアアァアァァァアアァァッ』』』』』
中型魔獣に連れられたそこでは、その魔獣を中心に十数体の大型魔獣が囲うようにそれぞれ雄叫びを天へとあげていた。
ここから逃げなければ、だが、息を吸い込むたびに脳が痺れ、意識が微睡む。
魔力の操作が覚束ない。
魔術や魔技が正常に働かない。
「ぅっ……うぉぇぇっ」
眠気と性欲と食欲と吐き気と怖気が一斉に押し寄せる。気持ちの悪さに思わず嘔吐く。息を荒げながら、逃げようとするが……
『ヒィッアッ』
「……カッ……ハァッ」
腹に中型魔獣の体格に似合わない歪に大きな指が腹に減り込む。
『ヒィッャァアアアア』
あの魔獣を認識できない、その状況はより悪化している。ただでさえ幻影の類を使ってくる相手。
詛戒の森の瘴気でさらに視界は悪く、しかも相手は瘴気を魔力のように扱っている。遮る鈍重な木々の葉が日の光を通さない。薄暗く、視界も悪い。
『ヒィッヒィッヒャァァアァッ』
興奮したようにイラン片足を持ったまま振り回し木や地面に叩きつける。その魔獣は濃度の高い瘴気をさらに圧縮し自分へと投与する。
脳を蕩けさせ、快楽が魔獣の全身へと巡る。
「…ッグゥ、ァッ、クッ、がハァッ」
こいつはきっと、いたぶる為に、弱い奴を選定していた。食うため、生きるためではなく、愉悦のために痛ぶる。
快楽のために殺しをしている。
だとしたら、ネプト取り戻せて、良かった…
ネプトを取り戻せた安堵で、気丈に振る舞っていた心が、綻びる。
口に入れられた瘴気が抜け切らず、感情と感覚がグチャグチャになっている。痛いと気持ちいいがないまぜになり、痛みを克服したイランに、感じたことのない苦痛を与えていた。
この猿の様な魔獣達。
この魔獣はタロンの資料集にも載っていなかった。
つまり普段は深度の深い場所で生息している可能性がある。と言うことはこの魔獣達の根城の様なここも、そういうことになる。
この状況を覆すことが困難だと知る。
そしてだんだんと、生き延びることが絶望的であることを理解していく。
急に絶体絶命な状況に現実味が帯び、あの頃の恐怖が再来する。
(お、俺はこのままし、死ぬのか……?)
「……だ、」
涙が溢れる。
あの悪夢で何度も味わった、体が終わって行く感覚。
「……いやっ、だっ」
体を引きずり、精一杯足掻く。
意識が遠のき、魂が抜け落ちて行く。
「…嫌だっ……!」
大型魔獣に踏み敷かれ、動きを制される。遠くで中型魔獣が愉しそうに笑っている。
死なない為にここまで努力したのに。まだまだこれからなのに。クレアにも、エフィにも、他の使用人達にも、まだ償いができていないのに。
ルノとも、約束した……
『ちゃ、ちゃんと無事に帰ってきて……ね?ま、待ってるからね。ちょ、ちょっとした、け、怪我なら、私が、綺麗に直してあげるから…そしたら、ま、また…街に連れてって……くれる?』
『ほ、ほ、ほ、本当にっ?う、嘘じゃ…ないよ、ね?へ、へへへ、やった、やった、やや、や、約束……だよ?守って、ね?ちゃ、ちゃんと……ちゃんと……
「あ、」
……帰ってきてね。』
「死にたく、無いなぁ…」
「ふぅーん、死にたくないんだぁ」
「…ッ?!」
人の形をしたそれは、突如目の前に現れた。
しゃがみ込むように膝を抱え、こちらを不思議そうに眺めている。
白く、永い永い銀色の髪は、身体中を覆い隠している。
蛍のような薄い光。
淡緑色に発光しているその髪は水の中にいるように
時間が遅く流れているかのように
重力の影響を受けていないかのように
宙を揺蕩っている。
その隙間からこの世のものとは思えないような綺麗な肌をのぞかせている。
その存在は周囲の瘴気を遠ざけ、目の前にいるイランを癒やす。
美しく神々しいその姿に、光り輝く天使を思わせた。
神秘的で、いっとき死の恐怖すら、忘れさせた。
『ヒィッヒ?ホァホゥ?』
その存在に、中型魔獣が気づく。
「ていうか、なんで人間がこんなとこいるの?これ、弱っちい人間には、毒なんじゃないの?……お前人間だよね?」
瘴気を指差し確認するように質問する。近くにいるイランは瘴気から守られ、体は正常を取り戻し、呼吸が楽になる。
「スゥー、ハァッ、スゥー、ハァッ…ハッ、ハッ、」
言葉を発したいが、身体が空気を取り込もうとし、呼吸をやめれない
『ヒィぃァアッ』
中型魔獣がこちらを指差し叫ぶ。その号令と共にイランを踏みつけている大型魔獣がそれに向かって拳を振るう……が、
ピタッ、と動きを止めた。
『フォぁ?』
時が止まったかのように静止する。
次の瞬間それは消え去る。
イランが過重から解放される。
その光景を魔獣達は呆然と眺めていた。
この時点で魔獣達は逃げるべきだった。いや、そもそも普段であれば、中型魔獣がまた鋭い危機察知能力が働き、一目見た瞬間から全力で逃げ去っているはずだった。
だが、そいつは今、自分が作った瘴気の麻薬で判断力を鈍らせていた。
彼らは長である中型魔獣の命令には背けない。
その結果……無謀にもそれに
挑んでしまった。
攻撃してしまった。
敵対してしまった。
触れようとしてしまった。
関わってしまった。
「あのさ?質問してるよね?さっきから。二回も質問したよね?わざわざ内容も変えたし。なんで答えないの?おかしくない?会話できる?まさかこの数年で人間の知能って下がっちゃってんの?」
「…んっ、くっ…ハァ、ハァ、」
「…はぁ?質問に答えろつってるよね?全の話聞いてる?」
はぁ〜、とため息をつく。
「わざわざ今の時代の人語に合わせてやってんのに、これだから人間ってきっしょいんだよなぁ〜」
『ヒィッァー
「猿うっさい」
声を上げる間もなく、そこにいた全ての大型魔獣の首が消失し、大きな血飛沫をあげながら、統制を失った巨躯が次々と地面へ倒れ地面を響かせてゆく。
流石にその現状に異常を察知し、命の危険を感じる。
『ヒィィャァッ』
すぐさま逃げようとするが無様に尻餅をつくだけだった。
普段体を持ち上げ、移動するための四足が消失しており、無様に地面を転がる。
足と腕が切り離されている。
血は出ていない、感覚もある。
ただ、その空間の座標ごと切り取られたかのように、四肢が空中でゆっくりくるくると回転している。
そして次は首が離れた。
声も出なくなり、何も抵抗できなくなる。
それが宙に浮かぶ頭を掴み、中腰の態勢を維持したまま地面にバウンドさせる。手のひらで叩いては、地面に叩きつけバウンドさせる、それを繰り返す。
「いぇーい!へいへい、ぱすぱーす!ごー、っしゅー!いぇー!ないっしゅー!」
この世界では聞き及びのない不思議な言葉を発しながらその頭を両手で掴み、腕を伸ばし押し上げるように放り投げる。
その先には特に何もなかった。
「知ってる?これ、《ばすけ》って言うんだって。全の友達…じゃなくて恋人?夫婦っていうんだっけ?とにかく、一緒に過ごしてたそいつに教えてもらったんだ。」
地面から立ち上がれず、何も答えれないイランを相手に独り言のように続ける。
「千年前?くらいにさぁ〜出会ったんだ〜。異世界から来たらしいよ〜?懐かしいなぁ。あの頃は魔王を名乗るアホを一緒にボコして、そいつの頭を使って、さっきの《ばすけっとぼーる》とか《さっかー》ってやつを教えてもらったんだ。遊び方は簡単!なんかの頭をちぎって用意して蹴ったり投げたりするだけ!以上!できるだけ丸いとやりやすい!」
その姿はまるで、幼子が純粋で拙くも淡い、恋心を抱く意中の相手との思い出を話すような、そんな姿だった。
「………楽しかったなぁ、いっぱい遊んで、愛し合って、子供も、一人出来て、………」
急に楽しそうな、懐かしそうな、愛しむような表情を消し、黙りこむ。
「……はぁ、嫌なこと思い出しちゃったや、帰ろ」
その呟きと共にバラバラになっていた魔獣の身体部品全てが破裂し、血の雨を降らせた。
振り返り、イランからそれが去って行く。それと同時に瘴気がまたイランを襲う。
また命が遠のいてゆく。
「…ま、待って、くれ」
なんとか振り絞り言葉を紡ぐ。
「……なに?今から帰るんだけど」
「……ハァッ…ハァッ」
「…….待たされんのむかつくんだけど、全を待たせていいのは、ひと……二人だけなんだけど」
「た、助けてほしい…ッ、いや、助けて…下さい……お願いし、します。」
額を土にこすりつけ誠心誠意お願いする。
生き延びるためにはこれしかない。
これがなんなのかわからない。もしかしたら自分にも牙を向くかもしれない。だがこのまま死ぬよりかは遥かにマシだった。
天使だろうと悪魔だろうと化け物だろうと関係ない。
「……やっぱ死にたくないんじゃ〜ん。最初に聞いたのに無視するからさぁ。まぁ、なんか気分良くなってきたし〜?そうだ!あれやろっ!」
よいしょ、と言いながら、人間の世界に生息するものよりも遥かに大きい木を素手で引っこ抜く。バキバキバキッ、と根が圧縮するように、つぶれながら集まっていく。その木の下部は円錐へと形を変えた。
それを地面に突き刺すように置く。
「じゃんじゃ、じゃじゃ〜ん。棒倒し〜。全が手を離して、これがお前の方に倒れたらっ…?助けてあげる〜っ。それ以外ならっ…?助けませ〜んっ。その時は諦めてくださ〜い」
イランの命になど興味がない。
ただ暇つぶしの遊びのおもちゃとして扱われている。
得体が知れない存在。それからすれば児戯の一環。
瘴気を打ち払い
見たこともない現象を起こし
訳のわからない言葉を発する
魔獣なんてものよりもよっぽど奇天烈で摩訶不思議なそれ。
だがイランにはそんなことどうでも良かった。生き残る可能性が少しでも上がるなら、何が何でもモノにしてみせる。
「ほんじゃ、手、離すよ〜、?、ほいっ!何が出るなかな〜♪何が出るかな〜♪」
パンパンと楽しそうに拍手しながらリズミカルに歌う不可思議な少女。そのリズムに合わせる様に、均衡を失った木が少しずつ傾き始める。
どんどん、大きな音を立てながら傾き、倒れ−–––
その瞬間、イランは残りの魔力を渾身の集中力で振り絞り《黒鉄》を生成、それを弾き飛ばしその木の根本へと打ち付ける。イランの方向から放たれた弾に衝撃を受け、そのまま木はイランの方へと倒れた。
イランは、何もせずただ祈り、自分の命運を見たこともない神に任せるほど、諦めの良い人間でもなかった。チャンスがあるならそれを逃さない。必ず掴み取る。
一連の行動を見て、銀髪で体を包んだその少女らしき人物は驚くような顔をしたまま口を開け呆然としている。
「こ、こっちに、倒れた、だろ…だから……俺を……俺を助けろォッ!」
「…ん、ぬぅふっ、んぬはははははははは、なはははははっ、ははっ、あははっ、なはははははははははははは」
おもしろ〜い、とお腹を押さえながら笑い涙を人差しで拭う。
「ひぃ…ひぃ…あー面白かった。いいもの見れたぁ。人間にしては面白いじゃん。ふぅ、んじゃ、約束したし、助けてあげますか。」
その言葉に、イランは安堵する。
「ちんたら、ほい」
指をくるくる、と振りかざすと
「…………は?」
イランの左腕が吹き飛び、消失した。
––––その日から、イランは思い知らされる。
そこにいるのは天使などではないと。
悪魔でもない。
化け物ですらないと。
目の前に突然降り立ったそれは、恐怖そのものだった。
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