ヘレンの慙愧
洗礼の翌日、カルロはヘレンに呼び出され、ヘレン専用の書斎へと顔を出していた。
椅子に座り本をのページをめくりながらカルロへと話しかける。
「……で、どうだった?」
先日のイランへの稽古の話だ。
「はい。やはりと言うべきか、いつも通りと言うべきか……
––––頭によぎったのは昨晩のイラン。
……相変わらず、狂気的でしたよ」
やはりな、と苦笑を浮かべる。
「……あのまま、進めさせて良いのですか?」
「かまわん。ゼイブルの息子だ、頭のネジが二、三本飛んでいても不思議じゃない」
「ゼイブル公爵……大戦の英雄……ですか……」
「ふっ、今もあいつは変わらんのだろうな」
ヘレンとゼイブル。
その二人の人物からカルロの頭に一つの歴史が浮かび上がる。
『ハグネス戦争』
15年前、憤怒の悪魔に取り憑かれ皇帝が王国へと侵略を始め、それに王国が対抗すべく勃発したのがハグネス戦争。悪魔の存在を忌み嫌う聖法国を連盟という形で率い、王国・聖法国の連合軍と帝国が争う形になった。
その戦争にヘレンはわずか13歳という若さで駆り出される。当時18歳だったゼイブルと共に偉大な成果をあげ英雄と祭り上げられた。
思い出したくもないあの頃の映像がヘレンの脳内に甦る––––
煙に乗って鉄と肉の焼ける匂いが鼻腔に立ち込め、顔を顰めさせた。
油の混じった空気が頬と唇をぬめらせる。
肌にまとわり付く感覚は不快だったはずなのに、いつしかそれが気にならなくなってしまっていた。
『うぉおおおおおぁぁあああぁッ!!』
一度身を投じれば耳に響くのは悲鳴と興奮の怒号。それらがないまぜに不協和音を生み、悍ましい合唱を奏でていた。
憤怒の悪魔の支配は帝国全土に行き渡っており、相手の兵士達は誰も彼もが怒り猛っていた。
「ハァ……ハァ……ッ…鬱陶しいッ!」
血走った目がこちらを捉え、生を掴もうと足掻くように敵の兵士が立ち向かってくる。
それらを穿ち、墜とし、絶やした。目の端で歪んだ形相で何か声を発しながら命が次々と散っていく。
仲間の死など御構い無しに敵は歩を進める。
躊躇うことなど一切なく命を賭けるのが正義と言わんばかりに襲い掛かる。
命を狩る度、先程までこべりついていた名も知らぬ敵の声も、表情も、次々新たなものへと塗り替えられていく。
一日の終わりには、散らした命の、何一つ、誰一人として鮮明に思い出す事ができなかった。只々、様々な命を手にかけたという実感だけが残る。
自軍の陣地へ戻ると、いつも胃液が逆流する様に気持ち悪さが込み上げる。命を奪う罪悪感と、勝利と、生存の興奮がぐるぐると混ざり合わさり、気持ちの悪い高揚感に苛まれ吐き気を催した。
「…ッウッ、ぉぇ…ゲハァッ……」
「………」
そんなヘレンの姿を、ゼイブルはいつも無表情で眺めていた。
虐殺が英雄行為と肯定され、殺せば殺すほど狂ったように、力強い雄叫びのような称賛の声が内臓を響かせた。
流石『英雄』様だ、と。
『神童』はやはり違うな、と。
仲間の兵士が求め、崇める『ヘレン』という偶像。
鏡に映る濁った瞳。
その全てを拭い去るかの様に顔を水の中に沈める。
「こんな小娘相手に何が英雄だ……馬鹿馬鹿しい。そうは思わないか?オルギアス家の坊ちゃん様よ」
「……貴様は戦績を上げている。それも凄まじく。なら……それに見合った評価が与えられるのは……当然のことだ」
「はっ、これはこれは、かの公爵家の坊ちゃんに褒められるとは、恐悦至極。誉の至りですなぁ」
自嘲気味に笑いながら、面白くもない軽口をこの仏頂面相手に叩く。そうしている間はまだ気が楽だった。
少なくとも、崇めら様な態度を取られるよりかは、幾分かマシに思えた。
自分と同じかそれ以上の働きをこなすゼイブルとのやり取りだけが、本来の自分へと引き戻してくれた。
そんな手を血に染める毎日の中で、終わりは突然やってきた––––
思い出したくもない身の毛のよだつ光景。
人の形をした暴威が突如戦場に降り立ち
破壊を振り撒き
全てを理不尽に
人と地形ごと無茶苦茶にしていった。
地面が熱で溶け、波打ち、巨魁なマグマとなって人を呑み込む。
「なんだッ、……これは…ッ!」
––––それが指をかざせばその先々まで障害が消失し地平線ごと抉り取る。
––––それが小さく呟けば身体の支配権を奪われ生命を強制的に停止させる。
––––それが見つめれば人が赤黒い肉塊へと変貌する。
世界の理を歪め、思うままに操り、思うままに壊して行く。
天から地へ、有から無へ、生から死へ
敵も味方も生者も死者も、関係なく須くが反転し、歪み、変貌してゆく。
その壮絶な光景に、両軍に混乱が起きるのは必然だった。
そんなこと気にも留めずそれは虐殺を続ける。
理からから外れた景色、それを遠くから眺めているヘレン。
ふと––––
それと視線が重なる。
『ぶちゅ』と虫を潰したような音が骨内から鼓膜へ届く。
「……え?」
視界の半分が消失し違和感を覚え、恐る恐る右目に手を当てる。
指に絡みつく少し火の通った卵白の様なそれは、水滴を地面に滴らせ、ベチョ、と指から滑り落ちた。
––そこでようやく、右の眼球が破壊されていることに気付く。
「ぁ、あ……」
その瞬間、
自分の矮小さを
弱さを
無力を
恐怖を畏怖を戦慄を脅威を劣等を悲愴を諦念を懊悩を悔恨を自責を無様を低迷を挫折を屈辱を恥辱を不知を不能を理不尽を惨禍を惨害を残酷を隔絶を絶対を……
……………絶望を知った。
「あ、アァアアァアァアアァッァァアッ、ァアァアアァアァッッ」
ひたすらに逃げた。
死を恐れ、辱も何もかもかなぐり捨てて情けなく悲鳴を上げながらひたすら生きるために駆けた。
右目の痛みが気にならないほどに恐怖に呑まれていた。
何もできず、ただ惨めに逃げることしかできなかった。
迅雷と呼ばれ、戦場を雷山の如く駆け回った。
それが今や、魔力、魔術、魔技、ヘレンが備えた戦う為の全ての技能を逃走の手段へ収束させる。
立ち向かうことすら
自分と比べることすら
理解することすら……
…馬鹿らしくなる。
「はっ、はっ、ヒッ、ングゥ、フゥ……フッ、グゥ……ッ」
…駆ける
顔中から流れる液体を拭うことすら忘れ必死に走ることに没頭する。あの化け物から少しでも離れるために。
…走る
遥か天空の先まで伸び、どこに頂上があるのかすら見当がつかない。見上げるだけで立ち眩むような、打ちひしがれるほどの彼我の差。
終わりの見えない絶壁。
…地を蹴り上げ
何が英雄、何が神童––
……突っ走った。
三国もの国が起こした壮大な戦争は、たった一人……たった一人の天災によって強引に幕が下ろされた。
『エドラ・ルヴ・アーフィリア』
世界から関わることを禁じられた最古で最後のエンシェントエルフ。
触れる事も
見る事も
名を呼ぶことすら許されない禁忌人
その筆頭であり、あまりにも隔絶したそれは
–––神の領域に足を踏み入れているとされていた–––
近付いた者に齎されるのは、ただひたすらに破滅。
その言葉通りに、戦争はその地形ごと無茶苦茶にされ、エドラが帝国を灰燼へと還して終結した。
ヘレンはなんとか生き残った。情けなく、恥知らずに、生き延びた。
あれから何日経っても、忘れることはできなかった。
できるはずなかった。
あの光景が脳裏に焼きつき、目の傷が鈍痛のように脳へと響く。
その心に負った傷は大きく、深く根付くこととなった。
あれからと言うものヘレンは悔恨と恐怖でひどく荒れ狂い、自暴自棄にも思えるほどに力を求め続けた。自分を痛めつけながら魔獣の討伐や、悪魔の情報を追い求め奔走していた。
無茶を繰り返す。
痛みで悔恨を打ち消すように奔走した。
そんなヘレンを見かねて、一人の女性が彼女の前に現れる
『やめろぉッ!離せっ!わ、私はっ!私がやらなきゃ、やらなきゃダメなんだァッ!』
『良い加減にして。子供のように手を煩わさないで。良いから来くるのよ』
ヘレンの姉、エレノールが喚き叫ぶヘレンを無理矢理自分の家へと連れ帰った。
**
眩しい光景が広がっていた。
「ほーら、ヘレンおばちゃんでちゅよ〜かっこいいでちゅね〜」
我が子へ優しく声をかけるエレノール。
抱かれて嬉しそうににへぇ、と笑む赤子。
「あ、姉上、その子は」
ヘレンは驚きを隠せなかった、姉に子が生まれたなど、聞き及んでいなかった。
「何驚いた顔してんのよ。何回も手紙送ってるのに、無視してたあなたが悪いんでしょ。」
おーよちよち、と手慣れた手つきであやす。
「赤ちゃん相手に怯えてないで、挨拶なさい!赤ちゃん相手でも挨拶は大切よ。こういう時の記憶って覚えたりする子もいるし、子供は周りの大人を見て成長するんだから。ちゃんとしなさいよ」
ほら!と抱いたまま我が子をグイッとヘレンの顔へ近づける
「んばぁ、んぅ…」
こちらを見つめる無邪気な瞳に吸い込まれそうになる。汚れを知らない……綺麗な瞳。
「……ダメだ、私に…こんな私に姉上の子と関わる資格などない……!私はかえ––––
ヘレンが振り返ろうとした瞬間、柔らかく小さな指がヘレンの頬へ触れる
「えぶぅ、ぇへへっ、」
ペタペタとヘレンの顔を確かめる様に触れる。
キャッキャと笑う声が耳をくすぐった。
「あらあら、嬉しいのね。よかったわね〜」
我が子に対し慈愛の表情を見せる姉。
楽しそうに笑う赤子。
ヘレンは無意識に赤子に指を伸ばしていた。
すると小さな手で力強く握られる。
小さな小さな‥‥本当に小さな手のひら。
ぷっくりとした柔らかそうな頬。太陽のような笑顔。その全てに目を奪われる。
–––気が付けば残された瞳から自然と涙が溢れた。
**
我が子が眠る揺籠をゆっくり、優しく、一定のリズムで揺らしながら、横目でヘレンへと目を向ける。
「この子、ウルカっていうの。甘えん坊だからたくさんかまってあげて?」
「い、いや……私にはやるべき事が……」
「黙なさい。いいから私の言うことに従いなさい。あなたまともに寝れてないんでしょう。昔からいっつもそう!極端なのよあなたは!大体やる事ってなに?自分自信を痛めつける事が私からの頼み事より大切なのかしら。随分偉くなったようで。ご立派な趣味をお持ちじゃないの」
エレノールのこの強引さも昔から変わらないところだった。
小さい頃、エレノールはおもちゃや菓子を強奪し妹を泣かせた。
母親に、お姉ちゃんなんだからちょっとは我慢しなさい!という言葉に『ヘレンはエルのなんだからヘレンのものもエルのなの!』とわがままを強引に押し通しては叱られていた。
その分、ヘレンが誰かにいじめられれば相手が誰であろうと、自分がどれだけボロボロになろうと倍返しでやり返した。『あんたもクヨクヨ泣いてないでやり返しなさい!ご飯食べてる時にあいての口の中に砂でもぶち込んでやりなさい!エルのものなんだから、情けない顔してちゃだめ!』と理不尽に怒られた。
そんなエレノールがヘレンは大好きだった。
後ろにくっつきいつも後を追いかけていた。
––…
「ということで、あなた暫くあなたはウチで育児の手伝いしなさい。」
「姉上!だから私はッ–––
「はい決まり!もう決まり!じゃあ決まりー!決定!決定!けって〜い!妹であるあなたに拒否権はございませ〜ん。残念でした〜」
べろべろば〜、とふざけた顔で妹を煽る姉。その姿は母親とは思えないほど幼稚で、ふざけた態度に少しばかりの怒気が込み上げる。
だが–––
「それにこの子もあなたのこと気に入っちゃったみたいだからさ」
ね?おねがい。と言いながら今度は我が子に向けて優しい表情を見せる姉。慈母のようなその姿を見たら、何故か力が抜け怒る気も歯向かう気も失せてしまう。
昔から姉には勝てない。
その理由は強引さだけが理由ではないのだろう。
**
エレノールとウルカと過ごす日々は深い傷を負ったヘレンの心を少しずつ癒していった。
エレノールの夫はどうやら外国で仕事をしており、現在は繁忙期らしく手が離せなかった。
このことに対しエレノールは『ヘレンちゃんが来てくれてちょうどよかったわ〜』と言っていた。
強引に招き入れたはずでは……?とは追求できなかった。
日を追うごとにウルカへの愛情は大きくなるばかりだった。
ヨタヨタと覚束ない足で歩く姿。
まだ物心もついていないのに歳の離れた自分を『おねぃちゃん』と呼ぶぽわぽわした幼い声。
全てが愛おしい。
たまに帰宅するエレノールの夫。『ごめんねうちの子が。妻も僕も助かってる。本当にありがとう』と、謝罪と感謝を述べていた。
そんな彼に対し、(私の方がウルカのことをわかっているが?)という謎のマウントが言動の節々に滲み出る有様だった。
子煩悩な性質なのか、母性が強いのか、健気な子供の成長に感動しては、大袈裟に号泣した。
お遊び程度に魔術を放つと、それはもうキラキラとした瞳でこちらを見つめる。
「おねぇしゃま、しゅごーーーい!!」
ウルカにもおしえておしえて!!と抱きついてくるのが嬉しくてついつい言うことを聞いてしまう。
(この推しの強さは姉上譲りだな)
そう考えるとやはり親子は似るものだ、と自然と笑みが溢れた。
良くない甘やかし方をして二人まとめてエレノールに叱られた事もあった。
頬にブチュブチュとしつこく口付けをしすぎて本気でウルカに拒否をされ、この家に来た当初の様に傷心した日もあった。
その時に『これが反抗期か……恐ろしい……』とお門違いなことを考えたりもした。
誕生日には、ウルカの好きなものを思い当たる全てを買い込みプレゼントした。エレノールに返品してこいと突き返された時は絶望した。
ウルカが憧れの目をこちらに向けるたびに、本当の『英雄』になれる気がした。
キラキラと輝く大きな瞳に見つめられ、その中に映された自分と目が合う。
瞳の中の、キラキラ輝く光と共に映る自分の顔
鏡の中の、汚く濁り、暗闇で鬱屈した自分の顔
自分がなりたい姿は––––
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