イチャついてる場合じゃない
本日の鍛錬を終えたイラン。
就寝前の身支度を済ませ、割り振られた部屋へ戻る。
タロンの施設にはそれなりの費用がかけられており、一人一部屋の自室が与えられている。
コンコン、とノックの音が鳴る。
「ど、ど、どどどどうも、ここ、こんばんは」
「こんばんは」
尋ねてきたのはルノだ。
挨拶を交わしながら、いつもの様に椅子彼女の後ろに差し出す。一つしかないので自分はベットの上に腰掛ける。
「あ、ありがと……」
と小さくお礼をする。
最近は大きな怪我も少なくなり、途中で倒れることも無くなってきた。そうなると自然とルノに世話になる頻度も少なくなってくる。そのことに対し少し寂しさを覚えたのか、最近は鍛錬の後によく話に来る様になった。
その会話は特に内容のあるものではなく、他愛のない話ばかりだった。
だが不思議と悪くない。
あの頃は自分より下だと定めた人間とは同等の立場として接する事はなかった。。
所詮搾取される側の人間だと
自分の踏み台なのだと
玩具のように好きに扱っていいものだと––––
そう思っていた。
あの悪夢を見た後は逆の意味で使用人たちと普通に話すのが難しくなっていた。こんな自分に未だに優しく接してくれるクレアを見てると特に罪悪感が心を覆った。
自分の生涯をかけて償うべきだと––––
そう思った。
だが何故かルノとは比較的くつろいで話すことができる。軽口を叩きながら楽しくお喋りに興じれる。
いつの間にか言葉遣いも砕け、友達のように言葉を交わしている。正直この時間が自分にとって幸福になりつつあった。
「そ、そうだ!あ、あ、あのあの!じ、じじじつは、あの…渡したい、ものが………あり、まして……」
突然、ルノがバタバタと自分が携帯している布で出来たシンプルな小物入れの中に手を伸ばす。
「渡したいもの?」
「う、うん……!あの、えと、これ…!」
「これ、は……クッキー…?」
取り出したのは可愛らしい透明の小さな袋。
控えめな薄いピンクで彩られた、これまた可愛らしいリボンで封をされている。
中のクッキーは少し欠けていたり、歪な形をしていたりするが、ハートや星など何を形作っているのかはわかる。商品にされている様な綺麗な形とは言えないが、それが逆に手作り感を際立たせる。
照れくさいのか、顔を赤くしながらゆっくりイランにそれを手渡す。
「えっと、その…うん……!あの、一応、下手くそだけど……手作り……!、手作り、デス………きゅ、急にごめんね…よ、よ、よよよかったら、た、食べて、ほしい、かも…。た、食べて…ね?」
もじもじしながらこちらを伺う様に見上げる。
自然と上目遣いとなる。
髪の隙間から覗くその黒い瞳が、光を反射しキラキラと輝いてる様に見えた。
「あ、あぁ。ありがとう」
呆然としながらも、優しく、丁寧に、両手で、受け取る。
「じゃ、じゃあ……もう遅いし、今日、は……この辺で、か、帰る、ね……?ごめんね、急に。じゃ、じゃあね!また、明日ね……!」
じゃあね、またね、と何度も言いながら扉を閉め切るまでこちらに向けている顔が扉で隔たれた。
その扉をしばらく見つめ、視線を落とす。
両手でしっかりと包む様に手に持っているクッキーを見つめる。
タロンでの食事は当番制。
用意されているのは調味料や粉物、そして調理器具のみ。自分たちで獲物を狩り、自分たちで処理をし、自分たちで作り、自分たちで食す。野菜や調味料は経費を使用し、自分たちで買い出しに行く。調理器具も設備が整ってるとは言えない。最低限である。
そんな環境で菓子を作り、自分へプレゼントしてくれている。
イランはそんな健気なルノの行動に驚き、喜び、そしてなにより––––
(か、可愛すぎないか…ッ?!)
––––悶絶していた。
浮き立つように心がふわふわしている。心臓がうるさく跳ねる。
ヘレンの電撃よりも強い衝撃に脳が痺れっぱなしだ。
感じたこともない幸福感。
口角が自分の意思とは関係なく釣り上がる。ニヤつく顔の筋肉を制御できない。きっと今自分はだらしない顔をしている。
それでも止められない。
なんだこの感情は。
厳しい鍛錬をこなし、使用人を痛ぶる。そんな毎日を繰り返していたイランにとって初めての感覚。
健全で暖かく人間らしい感情。
それが恋かどうかはわからない……が、
初めて、同年代からのまともな好意。
脳が甘さに浸されていく。
心地よい感覚に溺れそうになる。
呆然としていると、ハッ、となんとか気を強く保つ。
このままではダメになる、と振り切る様に頭をブンブンとふり別の思考へ切り替える。
なんとか無理やり鍛錬のことを考えることにしたイランだった。
**
ようやく落ち着きを取り戻し、冷静に鍛錬のことを考えるもう少し何とか日々の鍛錬を続けられないか?
いっそのことあの森に入って見るか?と考え込む。
『あの森』とはタロン付近にある魔物が住まう魔境。
森のふもとは樹海が広がっており陽の光をほぼ通さず日が登っていようが関係なく暗闇をもたらす。当然、その森に生息する生き物は須く暗闇に適応しており、こちらに涎を垂らしながら牙を向けてくる。
魔獣たちの危険度が高いだけでなく、籠った瘴気に充てられ虫や植物ですら脅威になっている。
その瘴気自体も有害だ。視覚で認知できるほどのの濃密な呪いは霧のように紫の靄として充満している。
まさに伏魔殿。誰も立ち入ろうとしない魔境。
そこは『詛戒の森』と呼ばれている。
あらゆる災厄が詰め込まれた魔領と認定されている場所の一つ。
その魔界から溢れ出した魔物の討伐。それがタロンの教育機関とは別のもう一つの側面であった。
そんな人外魔境とされる場所だが、いや、危険とされればされているほど、難易度が高ければ高いほど興味を持ってしまう少年、それが今のイランである。
死ぬこと自体には強い恐怖を抱く。
それは間違いない。
だからこそ良い塩梅に自分を死地に追い込める環境を求めているのだ。
見たことない、故に少し楽観視しすぎているかもしれない、だが確かめずにはいられない。死に急ぐようなその考えも、入隊して間もないにも関わらず物足りなくなってきてしまってるのが原因だった。
その理由はやはり生存が確定していること。段々と死の脅威を感じれなくなってきたこと。例え自分でどれだけ追い込もうとしてもそれは結局自分で調整しているに過ぎない。そしてヘレンは自分よりも先にストップをかけてくる。周りの隊員との実力差はもちろんある。まだまだ彼らには敵わないだろう。
だがそういうことではないのだ。
もっともっと、自分を追い込んでほしい。死の瀬戸際を味わいたい。
少しでもバランスを崩せば命を落としてしまうギリギリの足場の上で、指一本で逆立ちするような……そんな逼迫した危機を味わいたい。
タロンに来て、何度も死の淵を彷徨い、その味を知ってしまった。彼の求める難易度がどんどん上がってしまう。まるで中毒者が同じ薬では、同じ量では満足できなくなってしまうかの様に。先ほどの甘い時間をかき消す程の強烈な死への誘いが脳を侵食してい––––
コンコン、と危険な思想から引き戻すかの様に本日二回目のノックが響いた。
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