二体目のエリィ
昔、車の玩具を乱暴に振り回す幼い私に、構造上不可能なのにまるで涙を流せそうな悲しい顔を向けてアンドロイドの[エリィ]はこう言った。
『形あるものは、壊れてしまったら元には戻りません』
『だから大切にしてあげてください』
今、その彼女が目の前でアスファルトと駆動するタイヤに挟まれて粉々になった。
一瞬のことだった。
今朝、珍しく天気も良いし一緒に買い出しへ付き合わせて欲しい、と言うと彼女は出不精気味の私が外出の意思を見せたことを大変喜んでくれた。
広い歩道を歩いてモールに向かった。自然に車道側へ立とうとする彼女を見て、意地になった私は不自然な動きで車道側に立った。
身体を無理矢理ねじ込んだ時に彼女の顔は見なかったが、きっと苦笑していたと思う。
せっかくだから何か欲しいものは無いか、と調子に乗った私が尋ねると彼女は少し考えてこう言った。
『よろしければ、新しい包丁を購入して頂きたいです。現在使用しているものは少し切れ味が──────』
その時だった。エリィの言葉を遮る様に私達の後方から何かが爆発したような音が聞こえた。
それが分厚いタイヤが傷と空気圧によって引き裂かれた音だったというのは後から分かった。
私は後ろを振り返れなかった。振り返る前に万力の様な力を持った何かに服を掴まれ歩道の隅へ投げ飛ばされた。
回転する視界の中、こちらに手を差し伸べるような恰好のまま固まったエリィと目が合った。
そして、ゴムと巨大な質量を持った金属がアスファルトを擦る不快な音と共に、オイルと折れた螺子、千切れ裂かれた人工皮膚、プラスチックの欠片が飛び散った。
私の脳は何の情報も処理できず、私の眼は焼けたゴムの臭いがするアスファルトの上に散らばったエリィをただ見つめていた。
頭が多少働き始めたのは、血相を変えた運輸業者らしき男が私のもとへ真っ直ぐ駆け付けてきてからだった。
その後のことは途切れ途切れにしか覚えていない。
件のトラックを運転してした業者、そしてその上司のそのまた上司が頭を下げにきて、金を積まれたのは覚えている。
だが、そんなことはどうでもいい。
エリィが死んだ。
彼女の聞き慣れた優しい声で目を覚まして朝を迎えることはもう無い。
彼女がこっそりと夜食を頂こうとする私を叱ることはもう無い。
……………。
いや、違う。
エリィは死んでなどいない。
できる。再び会える。
私はできる。私ならやれる。
エリィを蘇らせられる。
エリィがいつも使っていたメンテナンスポッド。その中には確かにあるはずだ。
事故の当日、出かける前の朝にも使っていたのだから間違いない。
そこにはメンテナンスの際に“一応の写し”を取られ、圧縮されたエリィの記憶があるはずだ。
そこからエリィを再構築する。理論上は可能なはずだ。
膨大な情報量の保存と処理を必要とする為に、事実上不可能と言われてきた起動済みアンドロイドのバックアップ。それを私は成し遂げる。
人工子宮にて発生した頃からアンドロイド達の世話になり、彼女らと触れ合い知識を高め、天才の域には至れずとも秀才として名を知られているメカニックとなった。
その私ならやれる。もう一度彼女と出会うのだ。
まずはメンテナンスポッドから極限まで圧縮されたエリィの記憶、エリィの魂を慎重に吸い出し、ゆっくりと元に戻す必要がある。
そしてその膨大な情報を保存しておく場所も増設せねば。
他のアンドロイドさん達にも手伝ってもらう必要があるだろう。
その次は人格コアの用意。コアに情報を刻み込む為の機器も取り寄せる。
ボディも当たり前だが必要だ。
金はある。全て使い切るつもりでやる。
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やれることは全てやった。
結果は目の前に立ってくれている。
『マスター。朝のコーヒーをお持ち致しました』
ありがとう、エリィ。
『……すっかり苦いコーヒーに慣れたご様子ですね』
彼女が見慣れた柔らかな笑みを浮かべる。
『格好つけてブラックで飲もうとしたけれど結局口に含むこともできなくて、私のところへ砂糖をねだりに来た小さなマスターが懐かしいです』
ああ、エリィだ。間違いない。
私は成功した。
彼女がアンドロイドであるが故に、彼女の魂を情報として保存できたが故に成し遂げられた。
今、私の目の前にいる彼女は間違いなく“エリィ”だ。
再起動に成功して、きょとんとした顔を見せてくれた彼女を見た日から私の心に安寧が訪れた。
訪れた、はずなのだが。
何をしても心から消えてくれない陰がある。
今も、私が飲み干したコーヒーカップを洗ってくれている彼女を見ると、どうしても目に浮かぶ。
異臭漂うアスファルトの上で粉々になったエリィの姿が。
私の中でも蟠りがあるのだろう。
残酷にとはいえ散ったはずの魂が、こうして再び現れるのはあってよいことなのだろうかと。
だが、エリィがアンドロイドである以上、彼女の魂を情報として保存し一つの手順も狂わさずにコアへ焼き付けた以上、今ここに立っているのは“エリィ”であることを理論も事実も証明している。
彼女は戻ってきてくれた。
私も、私の心の陰を振り払い前へ進まねば。
古い包丁を持って朝食のパンに挟む為のトマトを切ろうとしている彼女に向かって、立ち上がり数歩踏み出す。
昨日買っておいた、刃を革のケースに包んだ新品の包丁を両手で差し出すように持って。
『……マスター?どうされましたか………まぁ、これは…私にでしょうか?』
今、君以外に誰もいないだろう?
『そうですね。ふふ、ありがとうございます。とても、とても嬉しいです』
ああ、この言葉だ。
あの日に聞けなかったこの言葉をやっと聞けた。
やっと陰が消えて私は先に
『ところで、何故私が新しい包丁を欲しがっていると分かったのですか?』
陰が、再び私の心に姿を見せた。
今、目の前にいるのは“エリィ”だ。
『……マスター?どうされたのですか?』
急に固まって、蹲った私を心配して顔を覗き込んでくる、このアンドロイドは間違いなく“エリィ”だ。
だが、そこに包丁を新しくして欲しいと言ってくれた“あの時のエリィ”はいない。
“あの時のエリィ”は手の届かないところへ消えた。
やっと、今やっと陰の正体が分かった。失ったことに目を逸らし続けた。
だから陰は消えてくれなかった。今、目の前に事実として突き付けられた。
投げ飛ばした私と目があって、一瞬だけ、安心したような笑みを浮かべたエリィは死んだのだ。