フランス革命
「どこにいっちゃんだろうね。僕も探してるんだ。」
弱々しいはにかみを浮かべた。
セイヤ君、この後におよんで、まだ笑ってる。
まるで、それで世界が変わるとでも言いたげだ。
かく言う私の世界は、もう終わってしまったんだ。
靴裏で確かに踏みしめていたはずの地面、
それが静かにゆがんでいく。
地面に立っているという当たり前の感覚が失われていく。
もう上も下も信じられない。
一体どうしたらいいんだ。
これから私は、どこへいくんだ。
もう私は、誰とも関われないのか。
どうしたらまた、誰かと関われるのか。
あ、もう誰とも関われないのか。
聞いたり、 話したり、 笑ったり、
それはもう私には出来ないことなのか。
「私、死んじゃったから。」
記憶の細部は思い出せない。
だがこの事実だけは受け入れざるを得ない。
「死んじゃったんだ。もう、生き返れないんだ。」
ドサリ、とその場に崩れ落ちた。
「生き返れるよ。たとえ、体はもう戻って来なくても。」
「え?」
なんの話?セイヤ君?
突然の言葉にサクラが戸惑った。
「ううん、なんでもない。」
「・・・・変なの。ねえ、もうさ、」
ここからいなくなった方がいいよ。
「今の話、近所中に聞こえてた。」
それが一体どうしたんだ、
と思ったその一瞬のことだった。
セイヤ君の横に止まった車。
銀色の大きなバンだ。
前部座席を除いて、全てフルスモーク。
運転席の空いた窓から、ベリーショートの金髪の男が顔を出している。
真面目そうな黒縁メガネをかけていた。だがむしろそれが、彼がただの不良ではないような雰囲気を際立たせていた。
(あ、やべ。)
サクラのにいちゃんだ。
地べたを見失っていたはずが、彼を見た途端、すぐに立ち上がってしまった。
「ねえ、君、誰?」
と静かだが明らかにヤバい感じ聞き方。
「山本セイヤと言います。サクラさんのクラスメイトです。」
とセイヤ君はまた笑ってる。バカみたい。
「ふーん。」
おい、車降りるぞ。
「「「はい!」」」
とサクラ兄はスモークで見えない後部座席を振り向いて言った。
「今ちょっと車置いてくるからさ。これからちょっと一緒に歩かない?」
大丈夫。怖いことなんて何にもないよ。君が正直にしゃべってくれさえすればね。
「サクラがイジメられてたってさっきの話、詳しく聞かせてくれない。」
夕方になってしまった。
高架下の橋脚。
そそり立つそのコンクリート
その周りに這う、柔らかな雑草。
セイヤ君はそこに伏せって。
サクラ兄の仲間(部下?)たちがそれを取り囲んでいる。
タバコを吸ったり、コンビニの百円コーヒーを飲みながら、笑い話をし、
時折思い出したようにセイヤ君を蹴る。
そんな時間が、もうかれこれ3時間は続いている。
蹴られるたびに、口もとから垂れる涎。
蹴られたら、声にならない苦汁を吐き出して、
それから、ちょっと遅れて口もとからその涎が垂れるのだ。
全然着こなせてない赤いコートの上から、
外からは見えないところばかりを痛めつけられている。
セイヤ君はもうボロボロだ。
そんな様子を、遠巻きに傍観している私とサクラ。
サクラ兄は一人だけ、少し離れたところで本を読んでいる。
テトラポットの割れた残骸に、腰掛けて、何やら小説らしき文庫本を開いて。
「サクラもこっちに来て座れば?」
「いや、いいよ。お兄ちゃん・・・・・」
とセイヤ君を見下ろしながら、生返事。
「ねえ、そろそろ許してあげたらどう?もう日が暮れちゃうよ。」
「有形無形に関わらず、暴力とは断固戦わなければならない。」
たとえ、そのために暴力を利用したとしてもね。
「サクラ、お前は学校でイジメられていたんだ。そんなお前の力になれなかった自分が、今はとても情けない。だけどな、」
たとえどんなに過酷で理不尽な暴力にあったとしても、暴力には屈してはいけないんだ。暴力を振われる側が暴力に屈したら、暴力は増長して、もっと歯止めがきかな口なる。そんな暴力の横暴には、たとえ自分が被害者でも、立ち向かわなくちゃいけないんだ。
確かに、この男の子はお前のクラスメイトだ。本当なら、俺は彼をこんな怖い目に合わせたくはないし、できることなら、彼を害さない方法で、お前に振われてた暴力についての仔細を聞きたかった。だが彼は、俺がどんなに優しく聞いても、イジメの事実を認めているにも関わらず、具体的にどんなイジメを目撃したのか、具体的に誰がイジメに関わっていたのか、一切喋ろうとしない。
もちろん、本当なら俺たちはこんな私刑じみたことはやめるべきだ。公的な方法でしかるべき手続きの上で真相を究明し、イジメとはそうやって戦うべきだ。だがお兄ちゃんには、公的な機関が、真剣にイジメの解決に乗り出してくれるとは到底思えない。彼らは自分の利害や組織的な慣習を守るために、悪を罰しようとせず、また善人の沈黙を許す。お兄ちゃんは、そこにどうしても正義を見出すことができない。正義がないならまだいい。お兄ちゃんが一番恐れているのは、虐げられたものが守られきれないかもしれないことだ。それは更なる悪の跋扈を引き起こす。ひょっとしたら、サクラ以外のクラスメイトだって、イジメに巻き込まれるかもしれない。
そんな状況を目の当たりにして、ただ指を咥えて見ているのは、本当に市民の義務だろうか?確かに法には反している。だけどそんなことを言ったら、世界史に民主主義をもたらしたフランス革命だって当時からすれば違法行為だった。法というのは、本当に大事なものを守るためにある。その本当に大事なものと法が乖離してしまった時は、その乖離を埋めるために、法を破ってでも本当に大事なものを守らなければならない。そうしなければ、法は尊重される機会を失い、ただのおためごかしになっていまう。
お兄ちゃんだって、沢山の暴力にあってきた人間だ。だから本当は暴力なんて振るいたくない。だけど、そんな理由で善人の沈黙が許されていいのだろうか?沈黙する善人であって、果たしていいのだろうか?
ましてや暴力を振われているのは、自分の妹だ。妹に振われている暴力に対して、妹を守る立場にいる僕が、行儀良く沈黙を守っていていいのだろうか?
本当の答えは、僕には未だに分からない。だけど今回に関しては、沈黙を守ることは、僕は自分に許せなかった。
パタン、
と長々としたセリフとともに閉じられた本。
ページに落としていた眼差しが、今度は地べたに向けられる。
サクラ兄の眼差しは、そこで突っ伏しているセイヤ君に触れた。
落日は、鮮やかな赤を深めながら、闇を残して、山の向こうに遠ざかっていくばかり。
「すまないことをしてしまったね」
と、サクラ兄。
「君だって、本当はクラス内の暴力に怯える無辜の生徒だったかもしれないのにね。にも関わらず、こんな目に合わせて申し訳なかった。だが安心してくれ。君は口を割らなかったが、もう君をひどい目には合わせたりしない。もちろん、この後付きまとったりもしない。」
だがその代わり、今回のことは誰にも喋らないでほしい。もしも喋ったりしたら、僕たちは本気にならざるを得ない。
「君もここに放っておく。動けるようになるのは、日が暮れて、夜が更けてからだろう。暖かい時期とはいえ、暗い河原に一人きりにするのは気が進まないが、」
まあ、暗がりにうずくまる孤独を味わってくれ。それが善人に沈黙された、虐げられた人間の味わう気持ちなんだ。
「さあ、一緒に帰ろう、さくら。」
彼らは河川敷から跡形もなく消えた。
オレンジに延びる夕焼けの光を、そろそろ暗がりが捕まえ始める時間。
そこに取り残される私たち。
生きている人間と、もう死んでしまった人間。
セイヤくんはあいかわず突っ伏して、私は相変わらず突っ立ってるだけ。
痛めつけられている時と変わらない。
死んでしまった私は、ただ口を噤んで突っ立っているだけ。
死者となった今では、声をあげることはできない。
善人の沈黙。
声をあげられないことが、こんなにも無力だなんて、思わなかった。
「セイヤくん・・・・・」
「大丈夫だよ、もう時期動けるようになる。夜が来る前にはなんとか・・・・・」
動けるようになるからさ。
だがセイヤくんは到底動けそうになかった。
喋っている最中も、苦痛に歪む顔を、伏せた地べたに隠そうとしてる。
こんなにボロボロになってさ。
「なんで私なんかのために。もういいよセイヤくん。」
私は死んじゃったんだよ。
死んだ人間は、もう生き返ることはできないんだよ。
それなのに、生きているセイヤくんがこんなにも頑張っちゃってさ。
死人のために、頑張る必要なんてないよ。
もういいよ。
私のことなんてほっといていいよ。
思わず、吐き出しそうになったそれらの言葉。
瞼をぎゅっと絞って、胸に抱きしめたまま、しゃがみこんだ。
「もうさ、無理して笑わないで・・・・」
その言葉を最後に噤んだ唇。
噛み締めて涙を堪える。
にもかかわらず、ポロポロと地べたは濡れてしまう。
「ごめんね。でもさ、最後まで君を守るから。それだけは約束するから。」
しゃがみこんだ膝の上に抱えたままの頭、
その言葉を拒むように首を振る。
だって、私はサクラを裏切って、いじめてたんだよ。
それだけじゃない。
サクラがもっとひどいイジメに苦しんでいるのを知っておきながら、
自分がいじめられるのが怖くて、そんなサクラの前を黙って通り過ぎつづけたんだよ。
今だってそうだ。
痛めつけられるセイヤくんを前にしながら、
自分はただ突っ立ってただけ。
そんなやつが守られる資格なんてないよ。
「守られる資格があるかなんて関係ない。」
どこから言葉にしてしまっていたのだろうか、セイヤくんは私の胸の内に答えて言った。
「守られてきたから、守るんだ。」
だがセイヤくんの言葉は、不可思議にぼやけたまま途切れてしまった。
それ以上言葉を継ぐことは、苦しくて出来ないらしい。
その時だった。
後ろの茂みを振り向いた。
そこから妙な声が聞こえてきのだ。
「カエリマショー」「カエリマショー」
え、
嫌だ。
この声は、
「あの時の怪人の声じゃないか。」
ガバッと、
私の呟きは何かに覆り、視界はそのまま何かにおおい隠された。
カエリマショー、カエリマショー、