第8話 神喰マリの原点
——ああ、そうだった。
自分の原点を思い出すように、神喰マリは夢を見ていた。
最初に思い出した記憶は、幼稚園の年少。3歳のころだった。
家族で遊びにいった動物園。
マリは、はしゃぎにはしゃいだ。
パパ? どっちが先にゾウさんのところに着くか競争だよ。
かけっこの代償は、あごに作った大きなスリ傷。
びえんびえんという鳴き声が園内に響きわたった。
そんなとき、マリの母——神喰莉花は、きまってマリをぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶ。ママとパパがいるよ」
そして、髪を優しくなでた。ゆっくりと、つつむように。
ママは本当に優しくて、太陽みたいな人だった。
5歳のとき、七五三のためにこども写真館にいった。
このときは、マリの父——ユウキの方が、はしゃぎにはしゃいでいた。
「マリ。かわいい。かわいすぎる。
その紅葉色の袴、もう買っちゃおうか。
あっ。すごいよ、和傘なんてある。これもって!
わ、完璧。なにこの破壊力。パパの心は完全に盗まれちゃったよ。はっはっは」
マリは、恥ずかしくなってうつむいた。
「もうパパ。カメラマンさん、困ってるよ。ちょっと静かにして」
「ああ、ごめんなさい。でもどうです? うちの天使? 悪魔的破壊力ですよね」
それで終わりにはならなかった。莉花が援護射撃を放った。
「ああもうなんなのこのカワイイ生き物は。
ほんと、芸術ね。神の創り出した芸術よ。
あ、私が生んだのよ。私、女神の生まれ変わりかもしれないわ。
マリはわたしよりずっとカワイイから、女神に勝ったわね」
ユウキは莉花を見て微笑んだ。
「莉花もマリに負けずおとらずカワイイよ」
莉花の眉間にほんのりしわが寄った。
「そこは、嘘でもマリよりカワイイって言ってよね。まったく」
そのあとは、袴だけじゃもったいないという両親の主張で、パーティードレスとクマの着ぐるみの写真も撮った。
パパやママと喧嘩することもあったけど、楽しい毎日だった。
永遠につづくと思っていた、かけがえのない宝物の日々。
それはいとも簡単に、崩れていった。
小学校一年生。
6歳の時に、ママが失踪した。
ママが失踪したとき、最初はその意味が理解できなかった。
もう会えないとわかったとき、はじめて実感がわいた。ただひたすら悲しくて泣いていた。
パパは、ママの失踪について何かを知っているようだった。だけど、何も教えてくれなかった。
自分の責任だ。そういって、何度も謝っていた。
マリに失踪の原因をわざわざ教えたのは、どこにでもいる噂好きのおばさんだった。
小学校の登下校、マリがおばさんの前を通るたびに、いやみったらしく、にやにやとした顔でつぶやいた。
「かわいそうに。
娘を残して、若い男の所に行くなんてねぇ」
マリは思った。
パパが謝っていたのは、ママが行っちゃうことを止めることができなかったからなんだ。
失踪の原因は町内に瞬く間に広まった。
犯人は明白だ。
幸い、からかってくるような友達はいなかった。
だけど、無邪気な同情がつらかった。
慰められるたびに、
「捨てられたんだね。かわいそう」
そういわれた気がした。
一方、ユウキも酷く落ちこんでいた。
毎日、顔をくちゃくちゃにしては泣いていた。
無意識に腕をガリガリとかいて、血が滲み、両腕が赤黒く染まっていた。
「すまない。俺のせいだ……。俺が間違わなければ」
繰り返し、うわ言をつぶやきながら仕事部屋にこもっていた。
次第に、マリも自分の部屋に引きこもることが増えた。
そして学校にも足が向かなくなった。
ユウキはマリを慰めることも、たしなめることもしなかった。いや、できなかった。
身の回りのことはおばさん—莉花の妹—が手伝いにきてくれていた。
一カ月ほど学校に行かなくなったとき、手紙が届いた。
莉花からの手紙だった。
優しいぬくもりを感じるベージュピンクの封筒。
ユウキとマリ、それぞれに1通。
おばさんがポストから取ってきた手紙をユウキは繊細なガラス細工を支えるように受け取った。
その手は小刻みに震えていた。
マリへの手紙は、小学1年生でも読めるような表現で、丁寧な字で、ルビまでふられていた。
「マリ。
ありがとう。
ママの娘でいてくれて。
生まれてきてくれて、ありがとう。
ほほえんでくれて、ありがとう。
わがままいってくれて、ありがとう。
ママはマリが大好き。
それは、マリがマリだから。
マリのすべてが愛しいの。生きているだけで、うれしいの。
もしかしたら、いまパパはものすごく落ちこんでいるかもしれない。
でも信じて。
ママもパパも、マリを心から愛している。
パパがきっと、ママの分までマリを守ってくれる。助けてくれる。
この先、どんなことがあったとしてもね。
マリもママのことを愛してくれているなら約束して?
これからどんなことがあったとしても、絶対にあきらめない。
いやなことがあっても、むずかしいことがあっても、必ず一歩前に進むこと。
マリ。
ママはマリが大好き。
パパも大好き。
ママの分まで、マリがパパに大好きっていってあげてね。
ママより」
マリが手紙を読みおえたとき、もともとしおれていた手紙が、さらにしおれた。
ひとしきり泣いた後、マリはユウキがいる仕事部屋を訪ねた。
こんこん、と叩いてからドアを開けた。
ユウキは、莉花からの手紙をぐしゃりと握りしめ、天を仰いで涙を流していた。
「パパァ……」
マリも再び泣き出した。
ユウキはマリにそっと近寄り、宝物でも触るように、優しくマリを抱きしめた。
「弱いパパでごめん。
大好きだよ、マリ。
愛してるよ、マリ。
パパがマリを守るから、パパがマリを助けるから。
マリは、パパとママのすべてなんだ」
「うん、うん。大好きだよパパ」
その晩は、二人でずっと泣いていた。
次の日から、ユウキはマリのためになんでもできるように努力した。
料理、裁縫、髪の結び方、ファッションの知識。その他もろもろ。
ユウキの溺愛ぶりは、莉花が失踪する前より深くなっていた。
マリは、二人で泣いた翌日から学校に登校していた。
もう、友達の同情も気にならなくなっていた。
そこにあるのは確固たる信念だった。
ママとの約束を守らなきゃ。
何があっても負けたりしない。壁に当たっても立ち止まらない。
そうだ。
どんなときだって、一歩前に進むんだ。
これが、神喰マリの絶対のルールとなった。
そしてマリは、夢から目覚め、悪夢を目の当たりにする。
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