アフォリズム
アフォリズム
安岡憙弘
芥川の作品の中に、アフォリズム、という言葉が出てくる。私はこれはずっと、アホリズムのことかと思い、私について何かありがたい言葉を集めた金言集のようなものであるかと思っていた。しかし晩年になってようやくそうではないことに気が付いた。芥川の作品群の生まれたのは日英同盟の前後、一九〇二年前後前後である。その頃の世界情勢はとても危ういものであった。第一次大戦の末期、ドイツはポーランドどに侵攻し多くの尊いポーランドの人民が犠牲となった。ナチスの台頭の引き金となった。この事件の裏で、ドレフュス大尉の自白強要事件など、右翼がユダヤ人によからぬ策略を使い始めた。するとナチズムがドイツ国内ドイツ内に湧き起こり、今日のネオナチズムの土台となった国会放火事件やヒンデンブルク大統領失脚など手段をえらばぬテロリズムが湧き起こって今日の九・一一事件事件につながった。芥川の生まれた大正時代は文壇に井伏鱒二や田山花袋、宮沢賢治、樋口一葉、尾崎紅葉ら著名人の出た華々しい文壇の奇蹟ともよ呼べる文芸のカリスマらが登場した時期であの妹った。私は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にいたく感動した。ジョバンニという寝間着姿のままの少年が夜空を一人貨物列車に揺られて旅をするという設定がたまらなく狂おしいほどお洒落におもってよく何はなくても世界中にこの小説一つあれば他の小説などたとえ芥川や夏目漱石であっても必要はないのに。たとえドストエフスキーやトルストイだって必要ないのに。罪と罰のラスコーリニコフだってターニャだってラスコーリニコフの殺したトーニャという知恵遅れの女性だって戦争と平和に出演したオードリーヘップバーンだって赤と黒のマルレーネディートリッヒだってカサブランカのイングリッド・バーグマンだって映画は観た事ないけどグレタ・ガルボの様な美人の代名詞だってレオ・トルストイに慕れ込んで世界に人道主義の名を轟き渡らせたガンジーやマリア・テレサのような人間にはとうてい追い付かない様な偉大な人物だって誰にも真似できないのがあの光景の清らかでカッコよくロマンチックで聖なる感じであると私は思ってこれで何か映画シナリオができないものかと考えていた時に初めて心に響いた言葉が彼の有名な「人生は一行の・・・」であった。
私は初めて文化人の言う難しい語句を理解したのはこの一行であった。その後はこの語句に照らしあわせれば勘でなんでも大体の目安はつけることが私はまた宮沢賢治の大ファンであったがこの頃から芥川に傾倒しグールドに傾倒し、オードリー・ヘップバーンに傾倒し、三島由紀夫を軽蔑し、グレタ・ガルボに恋愛し、尾崎豊に涙し、アンディー・ウォーホルに腹を立て、手塚治は天才だと思い、太宰治に失望し、テレサ・テンにワクワクし、井上陽水にとらわれ、徳永英明を渋いと思い、ネコふんじゃったは消えて欲しいと思いタモリに笑い、TOKIOの長瀬君同い年なのに背が高いなと思い、浜崎あゆみに福岡の人にしては色が白いなと思い、雨に癒され、晴れにうだされ、女に殺され、男にナメられ、涙に明け暮れた毎日を、たったこの唯心論的な、まるで人生はおもちゃの風景画か何かのような一行詩によって決定付けられた。私は一体人生とは何であるのかと考えた。人生には2つの考え方があったのであった。つまり人生は仏様によって全ての事象が決定付けられて人間は手も足もでないという考え方。2つは人間は何をしても全くの自由であるという考え方であったのであった。私は今でも決まって人間は何をしても全くの自由であると思った。つまり人間は幸福になるも、不幸になるも、全くの自由。つまり全て人間の手に委ねられている。しかし人間は世界がある以上当然の如く存在が予測される或る法則に従わないので様々な不幸に見舞われる。当然の様に人間は生きて自由をおう雅しているが、人間の自由は或る法則に従ってこそのものであって、法則に従わなければうまくゆかないのは当たり前である。私は或る法則とはアフォリズムであると認識している。私はアフォリズムとはつまり芥川龍之介の金言ではなく、誰か非常に賢い人物に近づこうとして芥川が努力した結果の真理の近似値のような物であると思っている。真理の近似値は心理とは違うのでひとつも役には立たぬが真理がわからぬ時役に立つと私は考えた。例えば花咲かじいさんが徳永英明の壊れかけのレディオを聞いてその思春期に・・・の春の部分にだけ反応するように私はいつでも決まってアフォリズムと言うものは自分の都合の良い様に勝手に作りかえても良いものと確信している。何故なら言葉とはいつでも決まって人が人生を生きていくのになるべく楽な様に勝手に書き換えるべきである。言葉とはいつだって人の味方なければならない。私はいつだって言葉が人間を苦しめるようなことはあってはならないと考える。従ってたとえ神であっても無知のために聖書を読み違えた場合は断じて神の責任である。アフォリズムとは従っていつだって人間が幸福になるべき使用法で使われるべきである。言葉は幸福の近似値であるからアフォリズムも又近似値に過ぎず私はいつだって長澤まさみが好きである。私は又幸福の近似値が不思議と憎らしい。だって私は一体いつになったら幸福になれるか知れないから。私は又、いつだってグレタ・ガルボの大ファンである。又私は仏さまにには頭があがらない。わたしは真理が恐ろしくてならないから。