由美
日が落ちた街路灯もまばらな薄暗い歩道を歩く。
自分に何が起きているのか混乱する。
あの化物が目の前に立った所で意識が無くなったのは覚えてる。
あれはこの世の物とは思えない化物だった。
体から角が生え目が七つもある動物を俺は知らない。
そして、新しい問題は……
「歩くの疲れたぜ、いい加減タクシーやバスとか文明の力を使おうぜ。
なに?もしかして忘れちゃった?」
「あほか!こんな、ずぶ濡れの格好で交通機関なんか使えるか!」
この少年だ、自称もう一人の俺。
あの化物がこいつに姿を与えたらしい。
何もわからない段階ではこの少年の言葉が正しいとさえ思えてきた。
もうすぐ家につく。
きっと何も変わっていない、少し疲れてるんだ。
来週、有給でも取ってどこか行こう。
そうだ、着替えたら今日はこの子を警察に届けてさっさと寝よう。
街路灯に照らされたこのT字路を左に曲がれば俺の住むアパートがある。
二階建てで階ごとに三部屋ずつあるごく普通の小さなアパートだ。
T字路を曲がりアパートを見つめる。
……おかしい。
部屋の灯りがついている。
(電気を消し忘れたか?)
蛍光灯に薄暗く照らされたドアノブに鍵を差し込もうとする。
やはり、おかしい。
中からは若い男女の声と赤ん坊の鳴き声が聞こえる。
三つしかドアのない廊下を見つめ、確かに二階の二部屋目のドアの前にいる事を確認する。
しかし、そのドアにはマジックペンで<町田>と書かれた冊子がついている。
心臓の鼓動が早くなる。隣から少年ののんきなあくび声が聞こえる。
この鼓動を沈めるには今ここにある現実を確認するしかない。
俺はインターホンを鳴らす。
「はーい」
自分の心境とは真逆の気の抜ける声が聞こえる。
歳は二十代前半だろうか、髪を後ろにゴムで止めてるジャージ姿の女性が目を丸くしてこちらを見ている。
夕飯終わりのひと時に急にずぶ濡れの格好の男が現れる。驚くのも無理はない。
「何か御用でしょうか?」
こちらを訝しむ様に見つめてくる。
俺はなんて言っていいのかわからず立ち尽くすむ。
「すみません、間違えました」
ようやく出た言葉がそれだった、おれは女性から逃げる様に階段を降りる。
「あ、そうそう。お前の存在ってもうこの世にないらしいよ?」
「は?」
ありえない、だがそう思っても少年の言葉が現実味を帯びていく。
★
職場、同僚に公衆電話で連絡をしたが誰一人、藤村 竜也を知らないと言った
携帯、銀行のカードも使えず、使えるのは財布の中にあったわずかな現金のみ。
「だから、言っただろう?もうないんだよ。お前の生きてきた痕跡は」
ファミレスのテーブル席で茫然と座り込む俺に少年が話しかける。
逃げる様に自宅だったアパートから離れた俺は閉店間際の服屋で衣類を買い濡れた作業服を捨てた。
社名の入った作業服など俺にはもう必要ないだろう。
少年はどうやら俺以外には見えないらしい。
入店の際に二人と言ったのに持ってくるコップは一つだけという店員の行動。
試しにカルボナーラときのこリゾットを頼んでみたが、出されたのは俺の方だけ。
俺はこれまでの経緯を考え、少年の言葉が真実だと悟る。
食事を終え今後の生活を想像する。
「ダメだ、わからない」
俺の生きてきた痕跡は全て消えてるに違いない。
そうなれば住民票や住所もない身分を証明出来ない俺は現代社会で生きるのは難しいというより不可能だ。
このまま、ホームレス生活を余儀なくされるわけだ。
「ハッー」とため息が出る。
明日、市役所か警察署にでも行って記憶喪失でも演じて助けを乞うしかないか。
そうなれば、今日は漫画喫茶で一晩過ごそう。
そう思い立ち、顔を上げ伝票を手に取ろうとする。
すると愉快な入店音が鳴り、店員がお馴染みのフレーズを口にする。
ふと入店者を見ると高校生ぐらいだろうか?女の子がこちらを指差しながら何か話している。
平日の夕食時を過ぎたからだろうか、客はまばらで周囲の席に座ってるのは中年の小太りのサラリーマンと初老のおばさんだけ。
どちらかの連れなのだろう、おばさんなら親類、サラリーマンなら親類あるいは何かよからぬ関係か。
だがしかし、二人共彼女の事を見ていない。
まるで赤の他人の様だ、「お兄ちゃん」とこちら側に近づいてくる。
はて、他の客を見落としていただろうか。
周囲をもう一度観察するが少女のお兄さんに近い年齢層の客はいない。
そんなどうでもいい事を考えるのをやめ、再び伝票に手を伸ばす。
「お兄さん、やっと見つけたよ」
俺のテーブル席に急に座り、話し出す少女。
俺に妹はいないはずだ、ましてや今の俺は誰とも関わりがないはず。
しかし、少女はまるで親しい家族に話すかの様な口調だ。
「街中、探して疲れたわ。あ、すみません、メロンソーダ、一つ」
出された水を砂の様に飲み込み、すかさず注文を取る。
どうやら、少女は喉を乾かすまで俺を探し続けていたらしい。
誰かは知らないがご苦労な事だ。
もう一人の自分はなんと言うのだろうか、と少年を見る。
だが、少年はいなくなっていた。先ほどまで向かいに座ったり店中を歩き回っていたのに。
「なに?お兄さん探し物?」
少女の方を見る。
格好はブレザータイプの制服に肩にかかるぐらい伸ばした髪を一部分だけ編んだ髪型。
笑顔が似合うオシャレな女子高生という風貌。
この子はなんなのか、なぜおれに絡む?
「お兄さん、人のことジロジロ見てなに考えてんの?」
注文したメロンソーダに刺したストローから口を離す。
「君はなんだ?俺が誰かわかるのか?」
「あ~……お兄さんが何者かわからないけど、私は教団からの使いだよ」
質問に質問で返す、会話でのタブーを犯してでも聞きたかった。
教団とはなんだ、ただの新手の新興宗教の勧誘かと脱力しかける。
「ただ、その辺はこれから知ればいい事だし。
私は教団神谷支部に所属している日向 由美。お兄さん名前は?」
「俺は藤村竜也……いや、宗教の勧誘なら他をあたってくれ。悪いけどそんな余裕はないんだよ」
「竜也さんね、私は信者だけどそんな手当たり次第勧誘する安い信者じゃないよ」
軽く自己紹介したが、由美は急にムスッとして強い口調で話す。
どうやらおれの一言が気に食わなかったらしい。
「そんな事よりあなたの目的を教えてほしい」
目的も何も自分の置かれた状況がようやくわかり始めたのだ、目的などあるはずがない。
「川から急に現れて、アパートや服屋に立ち寄ったり、
コンビニで電話をかけたら次は呑気にレストランにいる」
「あなたのしていることは立派な犯罪行為よ」と彼女は俺を犯罪者扱いしてきた。
なにより驚いた事は彼女は俺の行動を全て知っている事だ。
「なぜ、そんな事を知っている?なんなんだ君は」
「質問をしてるのはこっちよ。正直に答えて」
少女は間髪入れず俺への答えを求める。
先ほどの安い信者扱いによほど怒っているのだろうか?
どうせついさっき知ったばかりの人間だ、俺の非現実的な体験を話してやってもいいか。
正直に全て話せば気味悪がられてさっさと離れていくだろう。
だが、しかし彼女の反応は話せば話すほど真剣なモノに変わっていった。
「……嘘ね、ありえないわ。
羊に触れた者は奇跡を得る。
もし常人のあなたが触れたのなら、純粋種として覚醒していてもおかしくない……」
全てを話し合った後、彼女は否定をし聞き覚えのない単語を口にだす。
それはそうだ、信じるはずがない。
それよりなんだ?覚醒って?
「まぁ、いいや。じゃぁ、そういう事だから」
俺は伝票を取り、席から離れようとする。
「竜也さん、教団の権限を行使してあなたを逮捕します。
あなたの身柄はこれより教団のものとします」
なんだ、そりゃ?そんな法律は存在しない。
本当にカルト教団だったようだ、さっさと逃げないと。
「おいおい、急になんだよ。俺は帰る。二度と俺に付きまとうな」
いい加減イライラしてきた。
謎の少年が消えたと思ったら次は教団を名乗り勝手に逮捕してくる女子高生だ。
心の内からにじみ出る負の感情を抑えられない。
このまま、彼女に危害を加えて刑務所生活も悪くないと考え始める。
今日はおかしい事が続いてるせいか、普段より短気になっている。
だがこの気の迷いも一時だけ、イライラしてても何も変わらない。
今ある平和を守る為には自分の心を殺す事が正しい。そう答えを導く事が俺の処世術だ。
彼女はまた更に不機嫌な顔で俺を見てくる。
(やめろ、そんな顔で見るな、本気で殺したくなる。目の前にあるフォークでその目を潰したくなる!)
何を思ったかメロンソーダを勢いよく飲み干す。
「まだ、あなたは自分の立場がわかってないのね、そこまで言うならいいわよ」
なんだ、やはり勧誘かと呆れる。
俺はさっさとこの由美と名乗る少女から離れて明日からの身の振り方を考えよう。
伝票を手に取り、会計を済ませようと席を立つ。
ファミレスから出た所で後ろから由美が俺の手を握る。
「ちょっと来て、まだやってない事がある」
由美がタクシーを捕まえ、森に向かえと告げる。
若い男と少女が夜に森に向かって何をするのか、という好奇心に満ちた目でタクシー運転手がこちらを見る。
「おい、お前どこ行く気だよ」
「いいから、ついてきなよ 貴方に拒否権はないの、教会でその身の潔白を証明しなさい」
手を引きタクシーに乗り込ませようとする少女の手を振り払う。
この少女の考えがわからない、その教団とやらのアジトに連れ込んで洗脳でもしようというのか?
だが俺にはもう何もない。
このまま生き倒れるよりその教団とやらにお世話になるのも一つの手だ。
しかし、リスクがでかすぎる。
「ほら、早く乗って」
少女が手を差し伸べる。
……正直言えば少女の手は暖かった、体温だとかそういう科学的な事ではない。
単純に優しい心を持ってる手だと感じられる。
もう一度、その温もりを感じたい。そう思ってしまった。
気づけば、由美の手を握りそれに引き込まれる様に俺はタクシーに乗った。
タクシーの中では会話はほとんどない、ただ黙ってついてくればいいと言われた。
段々と街の灯りから遠ざっていく。
それはまるで今までの日常が変わっていく事を比喩する様に深い深い闇に向かっていく。