アリスとジャック
少女が目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。ベッドの頭側にある窓から入る光は、もう既に昼過ぎである事を伝えていた。遠くに喧騒と波の音が聞こえ、潮の香りが鼻腔に届く。思えば上質とはいえないまでも、きちんと手入れのされたベッドの上に寝かされていることにも気づいた。そこでやっと、昨日の出来事を遡れるまで頭が働きだしてくる。布団の中で軽く身じろいだ後に、少女はゆっくりと上体を起こした。
部屋の扉の横においてある椅子には男が腰掛けて、俯いて舟を漕いでいた。どうやら、少女にベッドを譲り彼はそこで寝たようだ。帽子を被ったまま俯いているので、起きているのかどうかの判断がつかず少女は困ったように眉を下げて周りを見回す。体が悲鳴を上げるほど走ったせいか足が酷く痛かったが、助かったのだ、とそこでようやく実感できた。
「あぁ、起きたのか」
少女が起き上がった気配を感じたのか、やや眠そうな様子で顔を上げて男は声を掛けてきた。男は一度大きく伸びをすれば椅子から立ち上がり、ベッドの傍まで来た。上体を起こしている少女を見下ろすように眺めた後、少女の頭を軽くぽんぽんと撫でた。布に水の落ちる音がして、掛け布団に水のしみが出来る。少女は、知らぬ間に泣いていた。
泣いていることに気づいたら、それを抑えられなくなり嗚咽を漏らしてしまう。少女の様子では話が出来なさそうだと思ったのか、男は少女の隣に帽子を置き扉のほうへと向かう。
「食事を取って来る。戻ってくるまで、好きにするといい」
背を向けたまま少女にそう伝えれば、男は扉を開けて部屋を出ていった。残された少女はベッドの上でなるべく声を殺して泣き続けていたが、しばらくすれば落ち着き涙も止まってくる。何度か深呼吸をして息を整えれば、再度部屋の中を見回してみる。
必要最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋。あるといえばベッドにテーブルと椅子が一セット。それでも窓にカーテンはついていて、窓から入る風に煽られてひらひらと踊っている。しばらくその様子を眺めていたが、はっと我に返り昨日の事を改めて思い出そうと目を閉じた。
昨日の夜、あの黒服の組織に連れられて移動している最中、ペルラという街に入ったところで少女は逃げ出した。逃げたのは日が落ちてからで、ずっと走り続けていた。少しでも遠くへ、人通りの多い場所を求めて走っていたが既に夜中だったから全くと言っていいほど街に人の姿は無かった。そして、捕まりそうなところで少女は先ほどの男とであった事を思い出した。
「本当に助けてくれたのね……」
走って、走って、ようやく見つけた人が彼で、助けて欲しいと訴えてすぐに気を失った。それでも、彼は少女の訴えを無視せずに、黒服の男に引き渡すことなくこうして匿ってくれている。冷静になって思い出していけばまだきちんと礼を言っていない事を思い出し、筋肉痛で痛む足に顔を顰めながらもベッドから降りようとベッドの縁に横すわりになった。ちょうどそのタイミングで、扉が開く。
戻ってきた彼は二枚のトーストの乗った皿を持っていた。それをテーブルの上に置けば扉を開けたまま再び部屋から出て行き、今度はすぐに湯気の立つ飲み物が入っているらしいマグカップを手に戻ってきた。マグカップを少女に渡せば、自分の分とパンを置いたテーブルを乗せた物ごと少女の傍へと移動させてくれた。マグカップからはコーヒーの良い香りが立ち上っている。
少女は受け取ったマグカップに口をつけて、少しだけコーヒーをすする。やけどしそうな熱さに思わず顔を顰めるが、入れてもらったコーヒーは程よい苦味と酸味の押さえられた飲みやすいものでとても美味しかった。
「悪いな、ミルクは無いんだ」
「いえ、お構いなく……」
熱さに顰めた顔をみて勘違いしたのか、彼は少しだけすまなそうな顔をした。伝えられた言葉に少女はゆるく首を左右に振って、苦味が駄目なわけではないと伝える。伝わっているかは分からないが、その返答に一度頷けば彼もコーヒーを飲み始めた。
礼を言わないといけないと思いながらも、なかなかそのきっかけを掴めずただもくもくとトーストを食べることしかできないでいる少女。それに対し彼は既にトーストを食べ終わり、熱く入ったコーヒーを飲んでいる。沈黙が辛い、などと思っているうちに少女の食べているトーストも残り一口になってしまっていた。
「……ごちそうさま。その……ありがとう……」
「どういたしまして」
トーストを食べ終わったタイミングで少女は礼を言う。しかし、タイミングのせいでトーストの件なのか昨日のことなのかはっきりしなかったと内心悔いていた。コーヒーも飲み干し、カップから口を離すと同時にため息を吐き出す。意を決して話そうと口を開いたタイミングで、彼はまた椅子から立ち上がってしまった。
「先に食器を下げてくる。話したいことがあるなら、その後で聞くから少し待っててくれ」
出鼻を挫かれてしまったが、やっと落ち着いて話すことが出来そうだといいかけた言葉を飲み込む。少し、という言葉通り彼はすぐに戻ってきてベッド側に置いたままになっていた椅子に腰掛けなおした。少女はやっと自分を助けてくれた相手の顔を正面から見ることができた。サングラスをつけているため瞳を見ることはできないが、全体的に整った顔立ちであることがうかがえる。頬には古い傷跡があり、過去に何かあったのだろうと想像させるのには十分だった。
「昨日は、助けていただいてありがとうございました」
相手の顔を見たまましばらく固まってしまっていたが、はっと我に返って軽く頭を下げて見せる。まず昨日のことについての礼をしたかった。少女が礼を言うと彼は僅かに眉を顰めたが、特に何を言うでもなく続きを促すように一度だけ頷いて見せた。
色々と説明しなければならないかもしれないが、話せば巻き込むことになるのは確実になるためそれは躊躇われた。どう話したものかと思案し、視線を彷徨わせていたら、彼の方から小さく咳払いが聞こえた。窓の方へと顔を逸らし、意識的に少女の方を向かないようにしている。
「昨日のあれでいろいろと訳有りなのは察してる。詳しく聞く気は無い。ただ呼ぶのに不便だ、名前くらいは聞かせてくれ」
「あ……私はアー……いえ、アリスです」
名前を聞かれ、名乗ろうとして途中まで名前を口にしたところで、アリスははっとした様子で口元を押さえる。少し思案する様子を見せた後で、名乗りなおした。状況から見て偽名であることは火を見るよりも明らかだったが、彼は何も言わずに頷いて見せた。
「アリスだな。俺はジャックだ」
再び頭にぽんと手を置かれ優しく撫でられる。それが何だかくすぐったくて、アリスは自然と笑顔になっていた。その様子を見てジャックの表情も若干柔らかなものに変化する。なんとなく穏やかそうな雰囲気になったが、すぐにアリスは自らの頬を叩いて表情を引き締める。突然の行動に、ジャックは面食らったような顔をしていた。
「ジャックさん、よろしくお願いします。よろしくついでにお伺いしたいのですが、情報屋のナイトムーンをご存知でしょうか?」
真っ直ぐにジャックの事を見据え、情報屋について尋ねる。その名前を聞いたジャックは眉間にしわを寄せ、明らかに嫌そうな表情を見せたが、知っていると言いたげに一度頷いて見せてくれた。その様子にアリスは少しだけ安堵するように息を吐いた。
「今日は、昨夜身体を酷使しすぎたせいで動けそうにありません。明日、ナイトムーンのところへ案内していただけますか」
「…………わかった。明日、案内しよう」
先ほどの様子からするに、良い噂はないのだろうと容易に想像がついたがアリスはそれでもその情報屋のところへ行かなければいけなかった。断られるかもしれないという心配から、アリスの表情はやや不安さの滲む物になっていた。そんな表情を見せられて、容赦なく断れるほど非情な人間にはなれなかった。たっぷりと考え込んだ後、ジャックが根負けするように溜息を吐くと、明日案内を請け負うと約束をする。
諦めたジャックを慰めるように、部屋の中に海鳥の鳴き声が届いた。