少女と男
――走って。
足音が迫る、走る足を止めてはいけない。
――走って、走って。
息が苦しい。呼吸をするたびに喉が、肺が焼けるようにすら感じる。
――走って、走って、走って。
息も絶え絶えで意識すら遠のいてきているが、それでも先へ先へと。
とにかく、私は捕まるわけには行かないのだ。
満月の夜、月の光を受けて輝く銀の髪を靡かせながら、人気の無い道を少女が一人走る。所々に設置された街灯がちかちかと点滅を繰り返すたび、高い壁に少女の影が映し出される。ぼろぼろの服の裾をはためかせながら息を切らせ、汗で濡れた首筋や頬には髪が張り付いている。それでも、その髪を払うことも忘れているかのように、少女は走っていた。
少女の後ろには、黒い服の男が迫っていた。無線でやり取りをしながら、少女との距離をどんどんと詰めてくる。逃げる少女と追う男とでは足の長さがそもそも違う。身長が150に届くかどうかという少女と、それよりずっと背の高い男ならば歩幅が違ってくる。それでも、少女は必死に少しでも遠くへ、安全なところへと振り返ることもせず走り続けた。
やがて、開けた通りに出る。安堵したのか僅かに少女は速度を緩めてしまった。しかし今は深夜。人通りがあるわけも無く、僅かに速度を落としてしまったせいで距離が詰まり、男の足音はすぐそこまで迫っていた。慌てて走り出そうとするが今までの疲労のせいで足がもつれ、その場に転んでしまう。慌てて立とうとするも、膝は笑い、喉は熱くなり、石畳へとぽたぽた汗が垂れ落ちる。体は限界を訴えて立ち上がる事を拒否してしまっていた。満月が厚い雲へと隠れ、その場がやや暗くなる。
「やっとか……随分逃げたほうだが、観念することだな」
少女へと追いついた男は少女を見下ろしながら言葉を投げかけ、手首を掴んで無理やり立たせると片手でどこかへと連絡を入れ始めた。最後の力を振り絞って男に体当たりをしてみせる。少女の疲れ果てた様子から油断していたのか、男は無防備な鳩尾へと頭突きを受けて咳き込み少女を捕らえていた手を離した。
好機を逃すはずも無く少女は再び走り出す。しかし、もう体は限界で走っているつもりでも歩く程度の速度しか出ていない。それでも、体を引きずるようにして逃げた。数メートル進んだ先にあった脇の小道へ差し掛かると、ちょうどその道から出てきた白のロングコートに身を包んだ男とぶつかった。
「おっと」
男は少女よりも随分と高い身長で、ぶつかってよろけた少女を抱きとめるようにして支えた。息が上がり、汗にまみれ、尋常ではない様子の少女に僅かに眉をしかめる。風が強まり、雲が流れ始める。そして、先ほど少女を捕らえていた男もその場に追いついた。当然だ、ほんの数メートル先に逃げただけなのだから。
「おね、がい……たす、け……て……っ」
追いつかれ、捕らえられてしまう事を恐れた少女はロングコートを握り締めて男性の顔を見上げ、息も絶え絶えにそれだけ伝える。そしてそのまま、緊張の糸が切れたのか少女は支えられたまま意識を手放してしまった。気を失ってしまったため少女の言葉の真意は分からないが、状況から考えて恐らくこの少女は今目の前にいる黒服から逃げていたのだろうということは男にも理解できた。少女を片手に抱くように支えながら、腰元に着けた銃へと手を伸ばす。白と黒の間に緊張が走る。
「……ちっ」
黒服の男は無線で二、三やり取りをしたあとで小さくした打ちすれば、二人に手を出すことなく道を引き返し消えていった。ロングコートの男は安堵の息を漏らしたあと、自らの腕の中で眠ってしまっている少女に視線を下す。疲れきっているのか今は目を覚ましそうな様子は無く、息を切らせていたときとは違い胸元は規則正しく上下している。どうみても何らかの事情を抱えていそうな少女をその場に捨て置けるわけも無く、とりあえず保護するしかないだろうとため息を吐く。
「厄介事はゴメンなんだがな……」
片手で中折れ帽子の位置を直せば、男は仕方なく少女を両手で抱き上げる。眠っている少女の年齢が年齢なだけに妙な噂を立てられるのは不味いと考え、人目につかないように細い道を警戒して通りながら家へと向かう。強い風が吹き、辺りに植えられた木々が揺れる音が夜闇に響く。雲の切れ間から、満月が二人の姿を照らしていた。