第十一話 最終ラップ
レースも佳境の九周目。
雨の勢いは変わらず、サーキットの砂漠地帯では水はけの悪さが顕著に表れて水溜りが多数発生している。
コースの状態はお世辞にもいいとは言えず、にわか雨と高をくくってタイヤ交換をしなかった参加者が三名脱落している。
スリップを恐れてタイヤ交換を行った参加者はピット作業の時間分カミュたちに引き離されており、もはやトップ争いに加われはしない。
そんな中、カミュと傭兵団砂魚のパゥクルの二名だけが雨の中で一位を巡って争い続けていた。
雨が降る前の乾燥路面を一周走ってきたパゥクルはタイヤの状態がカミュよりも悪いが、運転技術は並外れている。
カミュは最も状態の良いウェットタイヤでの走行中だが、運転技術はパゥクルに及ばない。
結果的に、両者譲らずのトップ争いとなっていた。
水しぶきを上げながら遺跡地帯に入ると、さらに速度が上がる。
雨雲で太陽光が遮られて薄暗くなった遺跡のコースは、左右に立ち並ぶ古代の家並みも相まって圧迫感があった。道幅も晴れている時と比べて狭く感じる。
だからこそ、カミュは遺跡コースに強かった。
旧市街の薄暗く狭い道をラグーンで駆け抜けていたカミュにとって、いまの遺跡コースは障害にならないどころか本領を発揮できる慣れた道と化している。
カミュはラグーンのシフトパッドを蹴りあげる。ギアが三速から四速へと切り替わり、ラグーンが加速する。
左直角カーブまで加速を続け、即座にギアを三速へ落とすと慣性走行に切り替え、コース右端へ寄る。
ラグーンを左に倒し込みながらカーブへ進入する。ブレーキングで速度を落とし、曲がり切った直後に加速を再開。
振り返らずとも、後ろからパゥクルが付いてきているのが分かる。
遺跡地帯での走行はカミュの方が上だと判断し、後ろについてラインをなぞる事で極力差が開かないようにしているらしい。
振り切ろうとすれば雨水にタイヤを取られて転倒する可能性もある。
次の十週目で最終ラップだが、冒険せずともほぼ確実に二位入賞が狙える現状で一位を取りに行く利点はない。転倒の可能性が高まる事を考えれば、不利益しかないくらいだ。
だが、この景色を手放したくない気持ちもある。
何台ものライバルを抜いた先で手に入れた、正面に誰も走っていないサーキットの景色。
パゥクルが景色に割り込もうとしてくるたびに、カミュは思うのだ――うざい、と。
子供じみた独占欲でしかないと理解していても、こればかりは譲る気になれなかった。
自分はこんな感情的な子供だっただろうか、とカミュは自問する。
もっと割り切った考え方の持ち主だったはずだ。そうでなければ、旧市街では生きていけない。手に入れた物に固執すれば身を持ち崩す世の中だ。
人は死ぬ、物は壊れる。殺されるし、壊される。何度も、旧市街で見てきた現実だ。
そんな自分が何故、一位であることにこだわろうとしているのか。カミュ自身も分からなかった。
遺跡地帯を抜け、砂漠地帯に入る。
順位変動はなく、パゥクルはカミュの後ろについてきていた。
運河沿いの直線へ入った瞬間、パゥクルがカミュを風よけに使って加速を始める。
遺跡に入った直後からこの運河沿いで一位を奪うつもりだったのだろう。
パゥクルの乗るスティークスがコース上に溜まった雨水を後方へ巻き上げる。白い飛沫と蒸気が混ざり合って空中を白く染め上げた。
カミュもまた速度を上げる。タイヤのグリップが残っているため多少は粘れるものの、徐々にパゥクルが前へ出てきた。
運河からの横風は雨で冷やされた砂漠地帯へ向けて勢いを増して吹きつけている。パゥクルの風除けにされたカミュは横風にも抗わねばならず、どうしても速度が上がらない。
油断すれば滑りやすい路面状況と合わさって横滑りする状況で、横風の影響が少ないパゥクルが悠々とラグーンを抜き去った。
前に出たパゥクルは横風を受けて少しふらついたが、すぐにハンドルを逆に切り返して体勢を立て直す。その冷静な動きは確かな経験に裏打ちされていた。
巻き上げられる水煙で視界を遮られて車間が分からず、カミュは横にずれる事で視界を確保する。
「……目障り」
視界の端に羽虫が飛んでいるような異物感があり、どうしても落ち着かない。
無理に抜く必要はなく、このまま二位を狙って走ればいいと考える自分がいる一方で、一位でゴールしたいと考える自分もいる。
結果的に速度を緩めず、冒険にも出ず、パゥクルの後ろを走りながら最終カーブとなるS字コーナーを抜ける。
ホームストレートに進入したとき、観客席には傘をさした人々が見えた。
この雨の中、わざわざ観戦している観客がいるのがカミュには不思議だった。
ストレートで速度を上げるパゥクルにつられてカミュも加速する。観客の声援は聞き取れないが熱気だけは感じていた。
観客席前を走り抜け、人の顔の判別もままならない速度と豪雨にさらされながら、カミュは最終ラップに突入する。
右カーブに備えてコース左側へ寄っていく。
パゥクルの背中を見ながら、このまま二位を狙おうかと考え出した――その時。
観客席の横、関係者たちが集まる区画の中で琥珀色の髪が輝いた。
すれ違うほんの一瞬、声を張り上げているのが分かった。聞き取れないが、分かる。
「――そっか」
カミュはヘルメットの中で笑みを浮かべる。
一番重要なことを失念している事に気付いたのだ。
やれる事さえやれない環境だった旧市街を飛び出すために、カミュは捨てられていたラグーンを修理した。
リネアと共に旧市街を飛び出した時、ラグーンはまさに新天地への通行証だった。
ならば、蒸気機関撤廃の会に破壊されてなお、なぜラグーンを修理したのか。
旧市街を飛び出した時点でラグーンの役目は終わっていたはずだ。
ここはもう、旧市街ではない。やれる事をやれる環境に、ラグーンはカミュを送ってくれた。
そして今、目の前にやりたいと思える事がある。
安全策を取って二の足を踏んでいたら絶対に届かないモノがある。
辿り着くための通行証はすでにある。
カミュは正面を睨みつける。
右カーブに備えて速度を緩めるパゥクルが左側へ寄っていく。流石にタイヤも限界が近いのか、ブレーキングの時間も長い。
しかし、カミュを前に出さないよう、水溜りの位置を加味した上でラインを塞いでいる事が後ろから見るとよく分かった。
カミュは速度を若干落としながら、一思いにラグーンを右側へ倒し込む。同時に、両腕の蒸気機甲を稼働させて蒸気を送り込む。
パゥクルを明らかに上回る速度で右カーブに突入したカミュは、カーブ入り口でパゥクルを抜き去った。
カーブの半ばでラグーンを引き起こしながら、水溜りへ突入する。
派手な水しぶきが左右に上がると同時、ラグーンはタイヤに摩擦を得られずスリップした。
誰もが水しぶきの向こうに転倒するラグーンとカミュを幻視する。
しかし次の瞬間、ラグーンの漆黒のボディが水しぶきのカーテンを引き裂いた。
横滑りすると同時に、カミュは蒸気機甲の力を利用して強引にラグーンの前輪を切り返し、後輪を横滑りさせる事でラグーンの進路を無理やりカーブ出口へと修正したのだ。
蒸気機甲による補助ありきのドリフトを決めて強引に一位に躍り出たカミュは、スロットルを開ける。
横滑りで水溜りを抜けていた後輪が濡れた路面にタイヤを押し付け、前進する力を得る。
急加速に耐え切れず一瞬浮いた前輪をカミュは路面に押し付け、正面の直角左カーブに目を凝らす。
距離を判別したカミュは反射的にラグーンを左に倒していた。
ドリフト直後の不安定さをものともせず、左足を覆う蒸気機甲の膝が左カーブ内側の路面を擦る。雨の中で行うには無謀なほどの角度に倒し込まれたラグーンが再び滑りかけたのを、カミュは右にハンドルを切り返した直後にカーブ出口へ再び切る。
余分にかかった遠心力が後輪を横滑りさせるのを感じ取り、カミュは抗うようにラグーンを制御する。
ラグーンが伝えてくる蒸気機関の振動が心臓を揺さぶる。
カミュの全身をつつむ昂揚感が伝播したように、ラグーンの駆動音が激しくなる。
ラグーンは前進する。
豪雨を含んだ重たい風をねじ伏せる加速力は、砂漠地帯に入っても衰えない。
水はけの悪い砂漠の中、砂丘が作る下り坂を文字通りに跳び越えたラグーンは大型スティークスらしいその巨体で坂の下にあった水溜りを潰し、一瞬両輪を空転させて溜まった水の下にある砂を捉える。
即座に加速を始めたラグーンが左右にぶれそうになるが、カミュはあっさりと対処してのけた。
ラグーンとの長い付き合いがカミュに対処法を教えてくれている。
遺跡へと入ると、ラグーンの速度が増した。
直角カーブを抜け、直線に入る。
駆動音が遺跡に木霊していた。
左右への緩いカーブを走り抜けながら、カミュは木霊する音の中にパゥクルの駆るスティークスの駆動音が混ざっているのを聞き分けていた。
かなりの無茶をしているはずのカミュについて来ているらしい。流石は傭兵団の団員といったところだろうか。
整備隊長でこの腕ならば、哨戒任務をこなすような団員はどれほどなのか。
遺跡地帯最後のカーブである右の直角カーブを抜ける。タイヤの摩耗状況が災いしているのか、パゥクルとの距離が開いた。
それでも、直線で追いついてくるのは単純な性能差だけではない。カーブを抜けた直後の姿勢がカミュの操るラグーンよりもはるかに安定しているため、加速しやすいのだ。
もとより、加速力で差がある事はカミュも認識している。タイヤの状態が悪いにもかかわらずロングストレートに入るたびに追い抜かれているからだ。
砂漠地帯を走りながら、カミュは運河からの横風に備える。
右カーブを強引に曲がり切った直後、突風が吹きつけてきた。
備えていたため煽られずに済んだが、風の感触にカミュは目を細めた。
今まで以上に風が強かったのだ。
吹きつけてくる風の強さと釣り合うようにラグーンのバランスを取っている以上、風が吹き止んだ瞬間こそ危ない。
さらに後ろから追い上げてくる駆動音が聞こえてくる。間違いなくパゥクルだ。
しかし、タイヤの状態が悪すぎるためだろう。パゥクルはなかなかカミュを抜けないでいる。
後は最終S字カーブとゴールまでのストレートのみ。パゥクルが仕掛けてくるとすれば、カミュが速度を落とさざるを得ないS字カーブだろう。
彼我の加速力の差を考えれば、理想ラインを描いて曲がりたいカミュだったが、パゥクルは読んでいるように内側に割り込む隙を窺っている。
カミュはラグーンをある程度内側に寄せる事でパゥクルの選択肢を狭める。路面とタイヤの状況から、パゥクルはスリップ事故を警戒して内側を諦め、外側から入る選択をしたのが背後の気配から分かった。
駆け引きを終えてS字カーブへ突入する。
案の定、パゥクルが仕掛けてきた。
オーバースピード気味にカーブへ入ったパゥクルが横滑りの危険を冒してまで深くスティークスを倒し込み、強引にS字の後半に当たるカーブの内側を取りに来る。
強引なコーナーリングの影響でパゥクルの速度が大幅に落ちているが、残りはゴールまでの直線のみ。すでにタイヤが限界に達している今、ストレートの加速勝負でカミュに勝てないと踏んで前を押さえにかかったのだろう。
パゥクルが勝つとしたらこの一手しかないと誰もが考える理想的なコーナーリングだ。
だからこそ、カミュは読んでいた。
S字後半のカーブに入っていくパゥクルのラインと交差するように、カミュはラグーンを走らせる。
後半カーブの入り口で大きく外側寄りのコースを取っていたカミュは、ラグーンを傾けるなり一気に内側へと進入、パゥクルの描いたラインと交差する形で内側に寄ったままカーブを抜けるラインを取る。
パゥクルが驚いてカミュを振り向いたのが見えた。
このままカーブを抜けきった時、カミュとパゥクルは互いにコースの左右端にいる。もはや、パゥクルがカミュの進路を塞ぐことはできなくなる。
今からパゥクルがカミュの前に出ようとしても、タイヤが限界に近いパゥクルのスティークスでは十分な旋回力を得られず間に合わないか、スリップ事故を起こす。
読み勝った。そうカミュが確信して一気にラグーンを加速させようとしたその時――風が吹き止んだ。
風と遠心力で吊り合っていたパゥクルのスティークスの前輪がぶれる。
コーナリングの最中、それもタイヤが限界に近い状態で濡れた路面という最悪の条件が重なった結果は当然スリップだった。
同時に、カミュも風の影響を失ってラグーンの進路が予想以上にカーブ内側へ寄る。
ハンドルが浮く感覚に、カミュはカーブ内側に置かれた縁石に乗り上げ、ラグーンが浮いた事を知る。
着地で下手な挙動をすればスリップは確実。
カミュは素早く蒸気機甲を稼働させて衝撃に備えつつ、後輪から着地するように前輪を持ち上げる。
後輪がコースに触れた衝撃と加速による正面からの圧力に抗いながら前輪を路面に押し付ける。
路面の水に触れて空回りする前輪が左右へぶれようとするが、カミュは蒸気機甲の補助を受けた腕力で無理やりゴールラインへ前輪を向けた。
ここで速度を取られたなら、勝てなくなる。
視界の端でパゥクルがスリップしたスティークスを御し切っていた。
縁石で跳んでしまった分だけ出遅れたカミュもラグーンの体勢を立て直して加速に移る。
ゴールラインが迫る。
正面から吹き付ける風がうるさく、歓声も何も聞こえない。
真横にパゥクルが並走していた。
後方へ吹き飛んでいく景色の中で、パゥクルだけが同じ速度でついてくる。速度感を狂わせるその存在が鬱陶しくて仕方ない。
雨霧にかすむコースの先に見えたゴールラインがすぐ手の届くところに来ていた。
ゴールを潜り抜けた瞬間、カミュはヘルメットの中で息を吐いて、ラグーンの速度を落とす。
急速に周囲の景色の判別がつき始め、音が戻ってきた。
しかし、ヘルメット越しに届く歓声はどこか遠い。
ラグーンを停めてヘルメットを脱ぐ。雨に頭を冷やされながらラグーンを押して歩く。
リネアが関係者用の観覧席で泣いているのが見えた。




