第十話 雨天
四周目の終わりまでレースは膠着状態に陥った。
先頭集団と中間集団の距離はやや縮みつつあり、十分に挽回を狙える状態だ。
一周目の果敢な攻めが嘘のように大人しくなったカミュとラグーンは中間集団に追いつくと共闘姿勢を取りながら、先頭集団との距離を着実に詰めていく。中間集団も今は先頭に追い付くために共闘した方が良いと考えたのか、互いに風よけを交代しながら直線での加速を助け合っていた。
先頭集団が一位を巡って争っている事もあり、距離は縮んでいく。
そして、四周目の最終カーブを抜けた時、変化が起きた。
先頭集団が次々にピットへ入ったのだ。
タイヤ交換及び海水燃料の補給を行うためのピット入り。タイミングとしては至って適切だったが、後を追う中間集団は二つに割れた。
先頭集団に続いてピット入りする者と、無視して走り続ける者だ。
カミュは後者だった。
ピット入りするスティークスたちを横目に、カミュはラグーンのギアを次々に変更しながら一気に加速していく。
高速で走り抜けていくと、観客席の横でリネアが拳を天に突き上げているのが見えた。次の周でピット入りの合図だ。
つまり、この周回でタイヤを削り切っても構わない。
カミュは前を見る。
ピット入りしなかったもう一人の参加者が、カミュ同様に攻めに転じていた。
どこかの町工場からの参加者だったはず、とカミュは記憶と照合しながら、相手のスティークスを見る。
紺色の大型スティークスだ。ガンクと呼ばれる車種で、数年前に発売されて以降、その横転しにくさが評価されている人気のスティークスである。カーブの強さは万人が認めるところだ。
加えて、質のいい過給器を積んでいるため、爆発的な加速力も持つ。
ストレートを抜けた先に右カーブが見えてくる。
左に寄り始める正面のスティークス、ガンクの動きを見極め、カミュはカーブの内側へ割り込んだ。理想のコース取りを横合いから奪い取り、ラグーンを一思いに倒しこむ。
右ひざをカーブ内側へ開きながら、座る位置をずらして重心をカーブ内側へと向けていく。強引な軌道修正にも対応して思い描いたコース取りを実現するラグーンに愛着を覚えながら、カミュは暫定一位に躍り出た。
カーブで一歩遅れたガンクはスロットルのオンオフを切り替えるだけで右カーブを器用に曲がっていく。加速力があるからこそ可能な曲がり方だ。
先頭集団がピットから出て追い上げてくるまでに距離を稼ぎたいカミュたちはすり減ったタイヤをなおも酷使しながら走り抜けていく。
「先頭の景色ってこんな風なのか……」
暫定的にとはいえ一位となったカミュは呟く。
誰も走っていない前方の道と、追い抜こうとしてくるレーサーから掛けられる圧力。
ガンク一台でこの圧力ならば、先ほどの先頭集団が追いついてきたらどれほどの圧力になるのだろうか。
その圧力を振り切って先頭を走り抜ける気分は如何ほどの物なのか。
砂漠地帯を抜けて遺跡へと入ったカミュは、後方を走るガンクを半ば無視してカーブを切り抜ける。
今注意を向けるべきライバルはガンクではなく、ピットから出て万全の態勢で追い上げてくるはずの元先頭集団だ。ガンクも同じことを考えているのか、カミュが駆るラグーンを抑え込むような動きは一切していない。
遺跡地帯最後の直角右カーブを抜けて砂漠地帯に入る。
直線と区別がつきにくい緩やかな左カーブを、砂漠の砂を巻き上げながら疾走する。
ラグーンが吐き出す蒸気と砂煙が後方で混ざり合うのを気にもせず、砂丘を駆けあがり、下り坂でさらに速度を上げる。
すぐにやってくる右カーブに備えて減速したカミュはあえてカーブの内側を開ける事でガンクを前に出した。
ガンクの乗り手がちらりとカミュを見て一つ頷く。カミュの考えを読み取った上で承諾した合図だろう。
カミュの前に出たガンクはカーブ内側でスロットルのオンオフを切り替えて速度を調節し、カーブの終わりから緩やかに速度を上げていく。
カミュはガンクの真後ろについて加速を助けてもらう。
そして、このサーキットの難所、運河沿いの直線に入った。
横風を受けて失速したガンクを右側から追い抜き、すぐにガンクの正面に出る。進路を妨害する為ではなく、風よけになるためだ。
ラグーンが風圧を肩代わりしたことで急加速したガンクが右から追い抜き、またラグーンの前に出る。
入れ代わり立ち代わり風よけを担いながら、ラグーンとガンクは運河沿いの横風をやり過ごし、S字カーブへ進入する。
即座に速度を落としたガンクを追い抜いて、カミュはラグーンを左に倒し、最初の左カーブを抜けてすぐに右側へ倒し込む。今までの周回よりもやや倒し込みが甘かったが、カミュにとっては最良の倒し込みだった。
ラグーンを起こしながらS字カーブを抜けてすぐの場所にあるピットレーンへ入ったカミュは、減速しながら専用のピットへと入ってラグーンを降りる。
出迎えたリネアがすぐさまラグーンをジャッキで持ち上げた。
「海水供給とタイヤ交換急ぐよ!」
リネアが言いながら、蒸気機甲の助けを借りて海水タンクを持ち上げる。
カミュはタイヤを外しにかかった。大会運営側から支給された蒸気機関搭載の器具でボルトを外すと、器具に接続してある排気用の蛇腹配管から蒸気が噴き出した。
タイヤを交換しながら、カミュはピットにいるメイトカルに声を掛ける。
「他のチームは?」
「もうとっくにピット作業を終えて走り出してる。いまは運河沿いの辺りだろ」
「タイヤは?」
「分からないが、多分レーシングタイヤだ。誰も空を気にしてなかったからな」
メイトカルの返事に、カミュは笑みを浮かべる。
カミュがいまラグーンに取り付けたタイヤはレーシングタイヤではなく、雨天用のウェットタイヤだ。
空は未だに青く、白い雲はぽつぽつと存在するばかり。しかし、注意深く観察すれば上空の風は強く、白い雲は勢いよく吹き流されていることが分かるだろう。
リネアが海水タンクを軽く回して内部の海水に渦を作ってからラグーンのタンクに注入する。渦を作る事で、引き込まれるように海水がスムーズに流し込まれるのだ。海水供給時のちょっとした裏技である。
「もうじき来るよ。気温も少し下がってるし、風も出てきた。なにより、雨の匂いがしてる」
「ヘルメット越しだと分からないけど、リネアが言うならそうなんだろうね。この周回で降る?」
「ボクの見立てが正しければ、遺跡の辺りで降り始める」
ラグーンへの給水を終えたリネアがタンクの蓋を閉じる。
カミュは前後のタイヤを交換し終えて、再びラグーンに跨った。
「それじゃあ、勝ってくる」
「うん。勝ってきて」
微笑んだリネアに背中を押されながら、カミュはピットを後にする。
ピットレーンを徐行していると、後方から先ほどまで一緒に走っていたガンクがやってきた。
ピットレーンに並行しているホームストレートからも、スティークスの走行音が聞こえてくる。
サーキットに復帰したカミュを待っていたのは、ホームストレートで熾烈な順位争いを繰り広げる先頭集団だった。
すぐに緩やかな右カーブが現れる。
一周走ってきたことでタイヤが温まり、素晴らしいグリップ力を発揮している先頭集団は華麗に曲がっていく。
その後ろを、交換したばかりでグリップ力に乏しいガンクが追いかけていった。
二者のライン取りやグリップ力からみて、どちらもレーシングタイヤで間違いない。
交換したばかりのウェットタイヤという最も条件の悪いカミュは右カーブをやや大きく回っていく。
勝負所は雨が降り始めてから、と考えての曲がり方だ。
「……え?」
曲がる途中、前方を確認したカミュは自らと似たライン取りをしているスティークスが先頭集団に混ざっているのを見つけた。
そのライン取りは、ウェットタイヤを選択したレーサーであることを示している。
スティークスの側面に砂色をした平たい魚の絵が描かれていた。
「砂魚のパゥクルか……」
迂闊だった、とカミュは舌打ちする。
輸送隊の護衛任務を主とする傭兵団ならば、天候変化を機敏に察知して対応するのは必須技能のはずだ。このレース中に雨が降る可能性を考慮しないはずがなく、カミュとリネアが気付いた雨の兆候を見逃すはずもない。
だが、タイヤ交換のタイミングがカミュよりも一周早い。
ウェットタイヤは柔らかく、すぐに熱を持つ性質がある。この性質は乾燥路面で顕著になり、タイヤの摩耗を早めてすぐに使い物にならなくする。
雨が降るかどうかはもちろん、降るタイミングまでも考慮しなければウェットタイヤは使いこなせないのだ。
雨のタイミングを読み間違えたのか、それとも先頭集団に混ざり続ける事の益を取ったのか、どちらか判断がつかない。
ただ、警戒に値するのは確かだ。
カミュを含む先頭集団を構成しているのは全部で七台。最初から形成されていた先頭集団にカミュの駆るラグーンとガンクが入った形だ。
ウェットタイヤを履いているカミュとタイヤ交換をしたばかりのガンク、そして砂魚のパゥクルの三台は緩やかな右カーブを抜けた後の直角左カーブで大回りを余儀なくされる。タイヤのグリップ力の違いが如実に表れたコーナーリングに、先頭集団の何人かが不思議そうにカミュたちを二度見した。
カミュは並走するパゥクルに視線を移す。パゥクルもラグーンのタイヤがウェットだと気付いたのだろう、カミュを興味深そうに見ていた。
直角カーブを曲がると、徐々にガンクが前に出てくる。タイヤが温まり始め、グリップ力が上がった為だ。
砂漠に突入し、U字型ヘアピンカーブに差し掛かる。
衝突を避けてブレーキングを行いながらもカーブ内側を取りに行く先頭集団から一歩遅れて、カミュとパゥクルはカーブに入った。
その時、七台のスティークスが奏でる蒸気機関の駆動音に混じった異音をカミュの耳は聞きわけた。
異音の正体は遠雷の轟き。それを認識するや否や、カミュは先頭集団五台を睨み据える。
ヘアピンカーブを抜け、直角左カーブを曲がりながら、カミュは先頭集団を観察し続ける。
遺跡をコースの先に捉えたカミュは、カーブを曲がり切った瞬間にすかさず加速を開始した。
ピットアウトからのタイヤをいたわるような加速ではない。全力の加速。変速機が目まぐるしくギアを換え、ラグーンは急速にタイヤの回転を早め、風を切り裂く。
シックな黒いボディと砲金の輝きを誇るように、白い蒸気の線を一筋空中に描きながら、ラグーンはトップ争いを繰り広げる集団の後尾に食らいつく。
遺跡への入り口に繋がる右カーブ、やや膨らみながらも引き離されずについて行くラグーンの風防に水滴が付いた。
風圧で吹き飛ばされたその水滴を見逃さなかったカミュは、遺跡内のコースの形状を思い浮かべる。
元々が蒸気機関の発達した古代文明の遺跡を補修した地点だけあって、直線とカーブが多い。居住部分に湿気が溜まらないように風が吹き抜ける構造になっているため、道幅もやや広いのが特徴だ。
先を走るスティークスは五台。雨に気付いたパゥクルが加速傾向にあるが、雨が本降りになってから相手をしても問題がない。ラグーンがウェットタイヤを履いている事に気付いているパゥクルも一騎打ちを考えているだろう。
ならば、先を行くカミュが先頭集団の隙間をこじ開けるのをパゥクルは待っているはずだ。
大型スティークス二台が割って入れば、先頭集団は大いに乱れる。
カミュは作戦を組み立て、ギアを二速へ下げて減速する。
ひときわ大きく、雷が鳴り響いた。
先頭集団の何人かが動揺し、列に乱れが生じる。
右直角カーブ直前での減速と列の乱れ。人数が多いため道路に余裕はなく、カーブ直前というライン選択の少なさも相まって追い抜きが発生しにくいその場所で、カミュは理想ラインを無視した。
速度を完全に殺しながら、カミュはカーブ入り口から内側に寄せて小さく回る。カミュの真後ろを全く同じようにパゥクルが続いた。
先頭集団は予想外の雨に慌てながら、カミュとパゥクルにカーブ内側を奪われて大回りを余儀なくされる。必然的に減速も大きくなり、集団になっていた事も災いして車間距離を開けるためにブレーキングも長くなる。
遺跡の石畳にいくつもの水滴が降り落ちる。ついに雨は本降りとなり、石畳は水気を帯びはじめた。
濡れた路面で滑らないように速度を緩めるしかない先頭集団とは異なり、カミュとパゥクルのウェットタイヤ組はここからが本領だ。
勢いから見て、この雨はレース中に降り止む事がないだろう。
レースはウェットタイヤを選択したカミュとパゥクルの一騎打ちの様相を呈し始めていた。
 




