第九話 レース開始
空は雲一つない青空が広がっていた。
珍しい天気だな、とカミュは空を見上げて太陽の眩しさに目を細める。
「こりゃあ、暑くなりそうだ。おじさんは冷たいもの買って来るよ」
「お酒はダメだからね」
「分かってるよ。おじさんが酔っていても結果は変わらない気がするけども」
グランズが出店に飲み物を買いに行くのを見送って、リネアがカミュを見る。
「絶対入賞、いけいけ優勝だよ」
「最後尾からスタートって事忘れてない? とりあえず入賞を考えておくよ」
カミュは前を見る。
正面には九台、隣の列には十台のスティークスが並んでいた。すでにボイラーを温めるために駆動音を発している。
これを全部追い抜くのか、とカミュはげんなりした。入賞しなければラグーンが手元に帰ってこないから仕方ない。
この場の気温がやけに高いのは錯覚ではないだろう。二十台ものスティークスから吐き出される白い蒸気が場の空気をも温めている。
リネアがカミュに耳打ちする。
「タイヤ交換の準備もしてある。とにかく五周、頑張って」
「全部で十周だから、ちょうど半分か。本当に来るの?」
「統計的には間違いなく」
「分かった」
小さくやり取りをしている間にも、レース開始の時刻が近付く。
リネアと昨夜のうちに練った作戦を改めて確認して、カミュはレース実況席を見る。
レース実況席には古都ネーライクの市長とウァンリオンの姿があった。実況席なのか貴賓席なのかいまいち分からない顔ぶれだ。
「――間もなくレースが開始されます。レーサー以外の関係者はコース上からの退避をお願いします」
メガホンを使った呼びかけを聞き、リネアがカミュを見る。
「最終的にはカミュの判断に任せるよ。ボクはピットで待ってるから」
「祝杯の準備しておいて」
「もうメイトカルさんに買ってきてもらってる」
「さすがだね」
一度ハイタッチを交わすと、リネアはコースの外へ駆けて行った。
レーサーとスティークスしかいなくなったコース上で、カミュは小さく息を吐き出す。
レーサーたちを見送っている人混みの中から、リネアが手を振ってきている。その手に丹銅色の輝きを見つけて、カミュは笑みを浮かべた。
カミュとリネアのイニシャルを図案化した自作のエンブレムだ。ラグーンがカミュとリネアの手で復活を遂げた象徴として、入賞後に二人でつけることを約束している。
「確実に入賞しないと……」
小さく息を吐いて覚悟を決めたカミュは、ヘルメットを被り、手足の蒸気機甲にも海水を送り込む。
ハンドルを握り、姿勢は低く。
係員がスタートラインの端に立ち、火薬式の拳銃を取り出して空に銃口を向ける。
「――スタート!」
パンっと乾いた空砲音を聞いた瞬間、一斉にスティークスが走り出す。
カミュを乗せたラグーンもまた、二十台のスティークスの最後尾について走り出した。
スタート時点で順位に乱れはない。
吐き出される蒸気で白く煙る視界の中、カミュはコースを思い出しながら道路左端へと寄り、ラグーンの車体を傾けて右へと曲がる。
緩やかな右カーブだ。
車体を起こしながら、カーブ中に見えた各車の位置関係を思い浮かべる。
直角の左カーブに備えて各車が右端へと寄り出す中で、カミュはギアを変更して一気に加速した。
カーブ直前に加速したカミュに追い抜かされた二台が焦ったように顔を向けてくる。
三速ギアでカーブに進入したカミュは勢いよく車体を左に倒し、カーブ内側の縁石に左肘が付くほど倒し込む。左足の蒸気機甲が路面とこすれて火花を散らす。
カーブを抜ける直前に車体を起こしたカミュはさらに加速した。
風を切る音と共にラグーンの駆動音が高鳴る。
ギアを四速へと変更。
前方のレーサーが肩越しに振り返り、直線でも引き離せないカミュを二度見する。
「……ぶれ過ぎだよ」
路面の砂でタイヤがスリップしかけたのか、前方のスティークスが左右にぶれた瞬間にカミュは真横につける。
プレッシャーを受けて手元を狂わせたか、横並びになったはずのスティークスはさらに左右に大きく振れて減速した。
当然、まっすぐに走るカミュが躍り出る形になる。
現在の順位は十七位。これから集団が形成されることを考えれば、もう少し順位を挙げたいところだ。
前哨戦ともいえる舗装路面から砂漠地帯に入ってしばらくすると、後方からスティークスの駆動音が消えた。
背後を見ると、砂漠の砂で動作不良を起こしたらしい三台のスティークスがコースアウトするのが見えた。ジャンク品のスティークスを一週間でレストアしたのだ。過酷な砂漠で動作不良を起こすのも仕方がない。
だが、カミュの前を走る十六台は全く脱落する様子が見えなかった。
カミュは砂漠地帯で無理にスピードを出さず、機を窺う。
参加者全員が、勝負は遺跡地帯だと気付いているはずだ。
本格的な順位争いが起こる遺跡地帯まで如何に隙を作らずに走るか、全員がそれを考えている。
嵐の前の静けさ。砂漠地帯では順位の変動も起こらず、十七台のスティークスは列になって走っている。
そして、遺跡に入る直前、トップ集団が加速した。
五位までのトップ集団が形成され、その後を十二位までの中間集団、そのさらに後をカミュが最後尾を務める最終集団が続く。
嫌な位置だ、とカミュはヘルメットの中で舌打ちする。
十分な広さがあるとはいえ、中間集団を形成する七台に食い込むと追い抜く隙間もない。
ここは最終集団を抜ける事を目標に立ち回るべきだと切り替えて、カミュは速度を維持しながら様子を見る。
最終集団は全体的にコース取りが正道で、仕掛け方も覇気に欠けている。先ほどカミュが路面地帯の左カーブで見せたような果敢な攻め方をする者はいないようだ。
優勝ではなく完走を狙っているように見えた。
カミュは最終集団の群れの最後方に位置する事で風を避けながら、付け入る隙を窺う。
隙はすぐに訪れた。
二段階で曲がる事になる長めの左カーブだ。
無理な攻めをする気がない最終集団はカーブに入ると徐々に間隔を開き、一列になる。
最後尾に位置していたカミュは十六位の後方につき、風の抵抗をやり過ごしながら徐々に速度を上げる。
カーブに入った瞬間、左に倒し込んでいく最終集団レーサーたちにわざと遅れてラグーンを倒し込んだ。
前を行くスティークスのおかげで風の抵抗を受けずに安定した走行。遺跡の石畳をがっしりと掴む安定したグリップに任せ、ラグーンの安定性を利用したオーバースピード気味のコーナーリングだ。
緩やかな左カーブの中、外周を回るはずのラグーンは持ち前の操作性を発揮し最終集団を抜いて行く。特性を熟知したカミュだからこそ踏み切れる攻め方に、ラグーンは結果で応えた。
カーブの内側ばかりを見ていた最終集団は、いつラグーンに抜かれたのかも分からなかっただろう。
カーブを抜けた直後に前へ躍り出たラグーンに息を呑む気配を背後に感じながら、カミュはいい気分でカーブ中に落ちた速度を取り戻す。
最終集団を纏めて追い抜いたカミュの順位は十三位。中間集団との間にはやや開きがあった。
最終集団は勝ちにこだわっていなかったため、中間集団との距離を開くに任せていたのだろう。
石造りの建物が並ぶ遺跡の中を走り抜ける。
中間集団との距離は少しずつ縮まっていたが、追い付く前に遺跡地帯を抜けていた。
「間に合わなかったか……」
カミュは思わず舌打ちし、衝撃に備える。
砂漠地帯へ進入してカーブを曲がっていくと、左手に運河が見えた。
水面に煌めく太陽の反射を認識した直後、一陣の風が横から吹き付けてくる。
砂漠と運河の表面温度差が生み出す強烈な横風が、集団という風よけの中にいないカミュとラグーンの横腹に叩きつけられる。
この横風に備えて遺跡を抜けるまでに中間集団に合流したかったが、後の祭りだ。
運河に沿って伸びる直線の先、中間集団に目を移す。強烈な横風を受けているため、スティークスが吐き出す蒸気も流されて視界は澄んでいる。
中間集団は風をもろに受ける運河側のスティークスを徐々に引き離しながら砂漠側のスティークスが前へと出ていく。集団内での位置取りで風の影響の大きさが顕著に出ている。このまま運河側のスティークスたちは集団の後方に甘んじることになるだろうが、運河沿いから外れて路面に上がれば前を走るスティークスを風よけにして加速できるだろう。
だが、カミュの位置では中間集団との距離があるため風よけを期待できない。それどころか、現在集団で走っている中間集団との間の距離が少しずつ開き始めていた。
運河沿いで中間集団に追いつくのは至難の業だ。
海水の量やタイヤの状態をなるべく維持して走るべきか悩むところだったが、カミュはトップ集団の位置を確認して攻める決意を固める。
ここで出遅れたなら、トップ集団の争いに食い込めるか分からなくなる。次の周回で中間集団に追いつき、運河沿いの風よけを確保してトップ集団に接近する必要があった。
仕掛けるのなら、場所は決まっている。
カミュは中間集団が入り始めたS字の複合カーブを睨み、速度を調整する。
前のスティークスにつられて速度を落としてS字カーブに入っていく中間集団に対し、カミュはラグーンの減速をほどほどに抑え、直線で走ってきた勢いをある程度維持したままカーブへ進入する。
十分な減速を行うのがセオリーのS字カーブに対してややオーバースピードで入ったラグーンだったが、コース取りが外側へ膨らむ事もなく、カーブの折り返し部分では確実に内側を踏んでいく。
進入時のスピードからは想像できないほどに華麗なコース取りは、日々移り変わる旧市街の通りを走り抜けていたカミュの経験とラグーンとの相性が噛み合った結果だ。
カーブを抜けた直後の加速の度合いからして、中間集団とは異質だった。
まだ一周しか走っていなかった事と集団にいる事で攻めあぐねていた中間集団の形成者たちとは異なり、カミュは強引に勝ちにいっている。
中間集団もカミュのコース取りから本気を悟ったらしく、最終直線に入るや否や壮絶な先頭争いを開始した。
後方のスティークスの進路を塞いで抑え込みつつ、隙を作り出すために左右へ車体をずらす。
位置関係を目まぐるしく変えながら、直線で急速に加速していく。
大気がかき乱され、周囲の景色は後方へ飛ぶように消え去った。吐き出された蒸気は乱された大気に混ざってあえなく霧散し、蒸気機関の駆動音が風切音と混ざり合って不協和音を奏でる。
中間集団にやや遅れているカミュは争いに加わる事も出来ず、前傾姿勢で少しでも加速する事に終始していた。
スタートラインが見えてくる。ようやく一周とみるべきか、もう一周とみるべきか。
コース沿いに作られた席に座る観客たちは集団の先頭を争う中間集団に注目しており、カミュに注意を払っていない。
スタートラインを抜け、観客席の横に作られた関係者の観覧席を見る。
リネアが右手の平を広げてカミュに向けていた。
あと五周はそのタイヤで走って、というリネアの指示だ。作戦では残り四周のところが一周分後にずれ込んだらしい。
カミュは指示に従って加速を止め、速度維持に切り替える。
同時に、海水残量を確認。
「……節約しながらあの集団に追いつかないといけないのか」
中間集団を見据えて、カミュはハンドルを一度強く握りしめた。
決して手放さないと決意を込めて。




