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蒸気世界の夢追い人  作者: 氷純
第一章 逃避行
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プロローグ

 眠らない街、ガス燈の明かり輝くオスタム王国首都ラリスデンの新市街を全速力で駆け抜ける少女の姿があった。

 ガス燈の明かりに照らされた琥珀色の髪は艶やかで夜の町でも主張する。肌の白さも相まって、少女はすれ違う人々からの視線を一身に受けていた。

 少女を見た人々は、なぜあんなにも必死に走っているのかと疑問に思い、彼女が走って来た道の先に視線を向けてすぐに厄介ごとに巻き込まれないよう道の端に寄って息を潜めた。

 少女を追う男たちの姿を視界にとらえたのだ。

 単純労働者であろうか。あまり身なりの良くない男たちが剣呑な光を宿した鋭い視線で少女を見据え、駆けてくる。手にはどこからか拝借した鉄の配管らしき細長い金属棒を握っていた。

 少女も最初から助けなど期待していないのか、すれ違う人々に視線を向ける事もしない。しなやかな脚で石畳を蹴りつけて勢いを殺さずに路地を曲がり、疲れをみせずに直線を疾駆する。

 明らかに目的地を定めたその足取りに、見ない振りを決め込んだ人々は不思議に思う。

 少女の向かう先はこの手の荒事で駆けこむべき警視庁とは正反対の方向、治安の悪い旧市街方面だ。

 風を切って走り抜ける少女が新市街と旧市街を分かつ橋を渡る。その足取りに迷いはなく、それどころかさらに速度を上げた。

 旧市街は浮浪者、暴力団、娼婦などが住まう首都の薄暗い部分だ。当然の如く、行政側は税を払わないならず者ばかりが住む旧市街の整備に税金を用いるよりも、新市街の利便性を高める事で住民感情に配慮している。

 だからこそ、旧市街は無秩序に家が乱立し、バラックが建てられ、いくつもの裏路地、袋小路が複雑に絡み合う迷路のような構造となっていた。

 少女は目印となるような建物や看板を探して視線を絶えず動かしながら、旧市街を駆け抜ける。

 錆の浮いた配管がひしめく狭い路地を見つけ、姿勢を低くして抜ける。配管の一部に入ったヒビから定期的に高熱の蒸気が噴き出していた。

 少女を追いかけていた男の一人が蒸気を直接胸の辺りに浴び、悪態をつきながら飛び退く。


「裏から回れ!」

「どうなってやがんだ、この路地は!?」


 旧市街に慣れていないのが如実にわかる男たちの会話に、少女はしてやったりと薄い笑みを浮かべた。しかし、薄桃色の唇が描いた弧は、次の瞬間に引きつったものに変わる。

 少女は目の前の道を塞ぐベニヤ板の壁を見て、目を見開いた。ある意味で新陳代謝の激しい旧市街の事、記憶の通りに道が通じているとは考えない方がいいと自覚していても、完全に道がふさがれているのは予想外だったのだ。

 ベニヤ板の向こうから上がる白い蒸気を見る。

 どうやら、路地を挟む民家のどちらかが蒸気機関で動く設備を足したため、むき出しの配管に悪戯されないようベニヤ板で囲ったらしい。私事で道を塞いでしまうとは、何とも旧市街の住人らしい身勝手さだ。

 仕方なく、少女は苦労してベニヤ板の壁を乗り越える事を決意する。後ろから配管を苦労して潜ってくる男たちの罵声が近付いてきているが、振り返る余裕はなかった。

 高熱の蒸気が通る安物の鉄配管は、迂闊に触れれば火傷するほどに熱い。小柄な少女ならば難なく通り抜けられた配管の迷路も、図体の大きい男たちにとっては悪質な罠と変わらない。

 しかし、足を完全に止められるほど優秀な罠ではない上、この路地を抜けた先に回り込もうとしている男たちがいる。少女は自然と焦燥感を抱きつつ、それでも手を滑らせない様にベニヤ板の壁を乗り越えた。

 身勝手な住人が増設したとは思えない素直な配置の蒸気管がベニヤ板の向こうに見えた事に安堵しつつ、少女は蒸気管の間を潜るようにして路地を抜けだす。


「出て来たぞ!」


 意外と近くから声がして、少女は反射的に飛びのいた。出口で待ち構えていた男の手が空を切る音を耳に捉えると同時に、少女は走りだす。

 これほど早く回りこまれるとは予想していなかったため、男の手を躱すことができたのは単なる偶然だ。

 どうやら、少女の記憶が当てにならないほど旧市街は様変わりしているらしい。

 逃げ込んだのは失敗だったと後悔しつつ、少女は記憶との差異に注意しながら走り続ける。

 しかし、旧市街に流れた時間は少女の前に袋小路となって立ち塞がった。

 直角に曲がった路地の先、少女の記憶では広めの通りに繋がっていたはずのそこは少女の身長の倍以上の高さを誇る壁で塞がれていた。

 今さら来た道を逆走しても、男たちと鉢合わせるだけだ。

 活路を探して視線をさまよわせる少女の耳に、男たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。

 思わず振り返った時、少女の視界に黒いレザーコートを着た人影が飛び込んできた。

 驚いて後ずさった少女は、人影が飛び降りて来たと思しき建物を見上げる。鉄格子の嵌められた窓はあるが、人が抜け出るような隙間はない。だとすれば、レザーコートの人物は二階建ての民家の屋根から飛び降りてきたことになる。それも、音も立てずに。


「――こっち」


 中性的な声でそう言って、レザーコートの人物が少女の手を掴み、走り出す。レザーコート以上に真っ黒な髪の隙間から見えた顔に、少女は唖然とする。


「……女の子?」

「早く」


 無駄口を叩くな、とばかりに睨まれて、少女はレザーコートの人物に腕を引かれるまま走り出す。しかし、その方向には高い壁しかない。

 少女が疑問の声を上げる前に、レザーコートの人物は民家の壁を片手でなぞり、べりべりと引きはがした。異様な光景に息を飲んだ少女だったが、月明かりに照らされた壁をよくよく観察すれば、色を塗っただけの薄い木の板だったと分かる。


「後に続いて」


 そう言って、レザーコートの人物は細い足で先ほど剥がした板の先にあった配管を足場にすると、民家の窓の鉄格子を掴んで上体を引き上げ、雨樋に手を伸ばす。

 崖登りかと言いたくなるような光景ではあったが、レザーコートを翻して雨樋を壁に固定する金具に足を乗せ、道を塞いでいた高い壁の上に見事、登り切って見せた。

 呆気にとられて一部始終を見ていた少女も意を決して配管を足蹴にし、鉄格子に手を伸ばす。

 しかし、先ほど見せられた軽業師のような動きを即興で真似る事などできるはずもない。手元も足元も覚束ない月夜の薄暗がりではなおさらだ。

 もたもたしている内に追手の声も足音も近付いてくる。


「手を伸ばして」


 見かねた様に、レザーコートの袖から革手袋に覆われた手を差し出してくる。

 意地を張っても良い事など何一つない、と少女はすぐに手を取った。


「ありがとう」

「さっさと上がって」


 感謝の言葉にそっけなく返されて少しむっとしたが、助けてもらっている以上文句など言えるはずもない。

 助けを借りて壁の上に立った少女は、これからどうするのかと疑問の声を発しようとして、口を閉ざした。

 目の前で、跳躍したレザーコートの人物が音も立てずに壁の向こうの非常階段に着地したのだ。


「ほら」


 両手を広げて迎え入れる体勢を整えられても、非常階段までは飛び移るのになかなか勇気のいる高さである。

 怯みはしたが、振り返ると追手はもう路地を曲がって少女の姿を捉えられる位置まで来ている。突如現れた袋小路に戸惑い、姿の見えない少女を探して路地の隅に目を凝らしているが、すぐに上を見るだろう。

 深呼吸して心の準備をする時間もない。

 少女は壁の天辺を蹴りつけ、非常階段へ跳躍した。


「うぐっ」


 飛び込んだレザーコートからは泥と機械油の臭いがした。それ以上に少女が悲鳴を漏らしそうになったのは、高い所からの着地でジンジンとしびれる足が原因だ。

 少女の表情から足がしびれている事は分かっているだろうに、レザーコートの人物はすぐに非常階段を降り始める。踊り場で一度少女を振り仰ぎ、手招いた。


「こっち」


 休ませてくれるつもりはないらしい。もっとも、壁一枚隔てたところに追手が迫っているのだから当然ともいえる。

 少女は非常階段の手すりを掴んで後を追う。人口の多い首都ラリスデンは人々の生活を支える蒸気機関も多く、霧の町などと揶揄されるほど湿度が高くなる。今は夜で気温も下がり、冷たい鉄の非常階段は夜露でずいぶんと濡れていた。

 足を滑らせないように慎重に、それでも急いで非常階段を下りると、壁の上から声がした。


「見つけたぞ。壁の向こうだ!」


 振り返れば、壁の上から追手の男が顔だけ出している。おそらく、数人で足場を作り、壁の向こうを覗いたのだろう。


「もっと高く持ち上げろ。登れな――」


 足場になっている男たちに指示を飛ばしていた男の声が途中で途切れた。レザーコートの人物が足元に転がっていた酒瓶を投げつけ、見事に命中させたからだ。


「回り込まれる。急いで」


 少女の手を掴んで、レザーコートの人物が走り出す。

 手を引かれるままにまっすぐ走ればすぐに袋小路に突き当たったが、そばの非常階段を軽い調子で駆け上がり、踊り場の手すりに足を掛けて跳躍、壁の向こうにあった布の天幕をクッションにして軟着陸を成し遂げた後、難なく道に降り立って疾走を再開する。

 道を塞ぐ腰丈の看板を軽々と飛び越え、そのままの勢いで金網につま先を突き込んで瞬く間に登り切り、少女に手を伸ばす。

 親戚に猫でもいるのかと問いただしたくなるような身軽な動きをするレザーコートの人物に、少女はふと既視感を覚えた。

 しかし、既視感の正体に辿り着く前に、目の前を疾駆していたレザーコートが風をはらんで膨らみ、足を止める。

 危うくぶつかりそうになり、少女は脚をもつれさせた。


「……ありがとう」


 転ぶ前に硬い革の感触に受け止められて、少女は礼を言う。しかし、礼を言った肝心の相手はまっすぐに進行方向を睨みつけていた。長い睫の下にある黒い瞳が月明かりの中で妖しく輝いているが、その中には警戒の色が見える。

 視線を追ってみると、長年の使用でくたびれた茶色のコートに茶色のつば広帽子という典型的な刑事の格好をした若い男が立っていた。


「ドラネコ、人を連れてるとは珍しいな」


 若い男が声をかけてくる。聞き覚えのある声に、少女は首をかしげた。しかし、ドラネコと呼ばれたレザーコートの人物の方が気になった。

 首都ラリスデンの旧市街でドラネコの異名を持っているのは少女の記憶が正しければただ一人のはずだ。


「若様こそ、一人で旧市街の夜道を歩いてるなんてどうしたんだよ。娼婦でも買い損ねた?」


 ドラネコが冗談か本気か分からない口調で問いかけると、若様と呼ばれた刑事はため息を吐いた。


「仕事だよ。そこのお嬢さんに用事があるんだ。僕の事は覚えてるかな?」


 刑事に声を掛けられて、少女は悩む事なく首を横に振った。見覚えはあるが、今の立場上刑事とお近づきになりたいとは到底思えなかった。


「……若様が出張ってきてる理由がちょっと分かんないなぁ」


 剣呑な雰囲気を出しながらも、口調だけは気安く返したドラネコが少女の袖を引く。いつでも走り出せるようにしろ、という合図だろう。


「ところでさ、おじさん、誰?」

「おじ――ちょっとまて。お前、まさか!?」

「わぁーへんしつしゃだー」


 馬鹿にするような棒読み口調で言い切ったドラネコがレザーコートのポケットから丸い金属球を取り出す。手のひら大のそれは少々歪な形状で、中央にはピンがついていた。

 若様と呼ばれた刑事が顔をひきつらせて飛び退くが、ドラネコがピンを抜いて金属球を投げつける方が僅かに早かった。


「消えろ、変質者!」

「てめぇ、覚えとけよ、ドラネコ!」


 刑事が罵声を飛ばした直後、ドラネコが投げつけた金属球から四方八方に蒸気が噴き出した。大量の蒸気は一瞬で刑事の視界を埋め尽くし、隙を生む。


「こっち!」


 目くらましが成功したと見るや、ドラネコが少女の手を引いて再び走り出す。

 刑事にあんなことをして大丈夫だろうかと思う少女ではあったが、そもそも刑事かどうかは本当のところ定かではないのだ。ドラネコが言う通りに変質者であるかもしれないし、両方を兼ねている可能性もある。

 それに、自身の状況を考えてみれば刑事に捕まるわけにもいかない。無事だけは祈りつつ、ドラネコに手を引かれるまま走り出す。

 どこをどう走ったのか、土地勘ともいえない昔の記憶だけが頼りの少女にはもはやわからなくなるほど走り回り、息も絶え絶えになったところでドラネコが足を止めた。

 暑そうにレザーコートを脱いだドラネコは脱いだそれを小脇に抱えて少女に向き直る。


「とりあえず、オレの家に案内するよ。それと、久しぶりだね、リネア」


 名前を呼ばれた少女、リネアはドラネコの顔をまじまじと見つめる。


「やっぱり、カミュ?」

「そうだよ。女の子じゃなくてごめんね」


 肩をすくめて皮肉を言うカミュだったが、その容姿は性別を間違えられるのも仕方の無いものだ。

 多少日に焼けてはいるがそれでも白い肌をしていて、目も大きい上にまつ毛が長く、黒真珠のような瞳に影を落としている。細い眉は可愛らしい弧を描いているし、旧市街育ちらしく栄養が足りなかったのか身長は平均的な少女であるリネアとそう変わらないうえ、肩も薄い。その癖、旧市街には少々不釣り合いなほど身ぎれいにしているのが肌の細かさや服の清潔さから分かる。


「なにじろじろ見てんだよ」

「しばらく見ない間に女の子になってたり、しないよね?」

「するかバカ」


 リネアの額にデコピンをしたカミュは、不機嫌そうに腕を組んだ。


「まぁ、リネアの方は少し女らしくなったかな? 胸はバリス通りの立ちんぼねえちゃんの方が大きいけど」


 今度はリネアがデコピンをする番である。

 額を押さえたカミュは苦笑気味にリネアを見て、口を開く。


「なんだよ。オレの事、分からなかったくせにさ。こっちは一目で気が付いたのに。でも、元気でよかったよ」


 そう言って、カミュはリネアに背を向けて歩き出す。家に案内してくれるのだろう。


「そういえば、アルトナンおじさんは一緒じゃないのか?」

「お父さんは去年の暮れに死んじゃったの」

「そっか。どんな風に?」


 人の命が安い旧市街育ちだからか、カミュは話を続ける。

 変わってないな、とリネアは苦笑する。


「肺炎をこじらせちゃって、そのまま」

「ふーん。墓は?」

「あるよ。……壊されてなければ」


 リネアは小声で続けて、背後を振り返る。

 父の墓を壊しそうな集団の一員である男たちの姿はなかった。完全に撒いたようだ。



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