アンダンテ
ピアノの音が、私の足を止めた。
アンダンテ
「ねえ、田中ってピアノ習ってるらしいよ」
「マジ? 似合わなーい!」
朝礼が始まる五分くらい前、突然後ろの席の女子たちがそんな会話をし始めた。
「田中ってあの田中でしょ? 田中敦」
「そうそう!」
「イケメンならまだしも、あんな地味メガネじゃねえ」
「ねー、ときめきも何も生まれなーい!」
「キャハハ!」
随分と失礼だなぁと思いながら、私は噂の渦中にいる田中君のほうを見る。
黒縁メガネをして、制服を着崩さずにきちっと着ている。髪も耳にかからないほど短く、色白で少しやせ気味の男子。それが、私たちのクラスメイトの田中敦だ。
「手がいいんだよなー」
聞こえないほどの小さな声で私はそう呟く。田中君は、後ろの席のほうで馬鹿騒ぎしている男子とは正反対の大人しいタイプで、いつも休み時間やこういった朝礼の前には高確率で何か本を読んでいることが多い。眼鏡の奥にある切れ長の目で文字を追うスピードは速く、さらさらとページをめくっていく。
そのページをめくる手が、仕草が、とても綺麗だと私は思う。
「また今回も田中が一位かよ」
「勉強以外何もやることないんじゃね?」
本人に聞こえる声で意地悪を言う男子の集団。そんな集団の声には耳を貸さないと言ったように、田中君は何も言わず、表情一つ変えずに席に座る。無反応な田中君を見て男子は心底面白くないと言った顔をする。
それでも、男子が直接田中君に危害を加えたりしないのは、きっと田中君が持つ真面目さの中にある人を寄せ付けないオーラを感じているからだろう。
涼しそうな顔をした、普段は目立たない優等生というのが、クラスメイト共通の、田中敦に対するイメージだと思う。
「うそ、まだ五時じゃん」
その日、いつも遅刻ギリギリな私は珍しく早く目が覚めた。家から学校までは徒歩五分という近距離で、始業時間の八時に間に合おうと思えば、七時半くらいまでは余裕で寝ていられる。ただし、急いで朝食を食べて、歯を磨いて顔を洗って着替える必要があるが。
早起きは三文の徳ともいうし、このまま起きてしまおう。ごろごろとベッドの端まで転がって行き、ゆっくりと足を床に降ろす。
「ちょっとまだ暗いなー」
カーテンから窓を開けて様子をうかがう。ゆっくり朝日は昇ってきてるようだが、まだほんのりとしか光は射していない。
カーテンをもとに戻し、リビングへ向かう。当然私以外はまだ誰も起きていない。
「今日はお弁当自分で作ってみよう」
そう思い立ち、キッチンへ向かう。卵焼き、ウインナー、野菜炒めを次々に用意していく。ご飯は昨日の夕飯の余りがあるので、それを詰めた。
テレビをつけると、アイドル並みのルックスを持つ女性アナウンサーが朝の交通情報を読み上げていた。
「あら由紀子! 珍しいじゃない。おはよう」
「おはよーお母さん。今日は何だか早く目が覚めちゃって」
「いつもそれくらい目覚めいいといいんだけどねぇ」
お母さんは前髪に着けていたホットカーラーを外しながら、私の隣にやってきた。テーブルに置かれたお弁当箱を見て少し驚く。
「お弁当、自分で作ったんだ? やるじゃない」
「まあねー」
その後、私はお母さんの分もトーストと目玉焼きも作り、二人で少し早目の朝食にした。食べ終わってからお父さんの朝食も作って置いておいた。
服を着替えて再びテレビを見る。時刻はまだ七時前。いつもならあと一時間半は夢の中だ。
「せっかくだし、早くいって自習でもしようかな」
「もう学校は開いてるの?」
「一応、七時からは開いてるから」
「そう、いってらっしゃい。気を付けてね」
「いってきます」
ドアを開けると、爽やかな秋の風が一気に吹き込んできた。もうそろそろ学校にある木々も、紅葉を迎えるだろう。
「もしかしたら一番乗りかも」
私は、誰もいない状態の教室を見たことがない。いつもギリギリのため、教室に着くころにはほぼ全員が席に座っている。
校門を通りすぎ、昇降口で靴を履き替えて教室へ向かう。廊下もまだ静まり返っている。
こんな静かな学校は初めてだと感動を覚えながら階段を上がり、右に曲がる。
微かに、逆の方向からピアノの音がした。
「先生が練習してるのかな?」
優しく響く音につられ、くるりと引き返して音楽室に足を進めた。
ゆっくりとした音に合わせるように、なぜか私の足取りもゆっくりになる。
やがて段々と音が近づいてくる。
音楽室の前まで来たとき、ピアノの音が、私の足を完全に止めてしまった。
こんなに上手なピアノの演奏、聞いたことがない。
私はピアノなんて習っていないし、音楽の才能があるわけではない。だから上手い下手を技術的に評価するなんて出来ない。けれど、このピアノの音は上手だと思った。曲名すらわからないこの演奏を、ずっと聞いていたいほど、心の底から好きだと思った。
そっと、気付かれないようにドアを少し開ける。細くて長い綺麗な指が見えた。
この手を、私は見たことがあった。いや、いつだって見ている手だ。
「田中君……?」
思わず声が出る。しまった、と思い手で口を覆ったが、遅かった。演奏がやみ、びっくりしたという顔で、演奏者は私のほうを向く。
「三条さん?」
それは、おとなしい田中君の、めったに聞けない声だった。声変わりの最中なのだろうか、少し声が出しにくいようだった。
「珍しいね、三条さんがこんな時間に学校にいるなんて」
くすくすと笑いながら田中君は言う。普段難しそうな本を、真剣な顔で読んでいる田中君とは違う、柔らかい表情だった。
「たまたま早起きして……た、田中君本当にピアノ習ってたんだね」
「うん、小四のころからね。まだ下手だけど」
「そんなことないよ! 私すごく上手だなって思った! いつも朝ここにいるの?」
「うん、先生に許可をもらってこっそりとね」
「そうだったんね! わぁ、それなら毎日早く学校来ちゃおうかな」
自分でもびっくりするほど興奮気味だった。田中君は、そんな私を見てまた笑う。
「ほんとに? お世辞でもうれしいよ」
「お世辞じゃないよ! ねぇ、今のって何て曲なの?」
「うーん」
いきなり田中君が考え込む。もしかして変な質問をしてしまったのだろうか?
それとも、これは有名な曲かなんかで、知らない私の無知さに声が出ないのか。
「実はこれ、恥ずかしいけど僕が作曲してる最中のやつなんだ」
「え!? 作曲もできるの?」
「初めてだけどね。やってみようかなって」
照れくさそうに田中君が言う。いつもの涼しそうなイメージが、段々と私の中で変わっていく。
「そうだ、三条さんがタイトルつけてよ」
「え? 私?」
「そう。初めて聞いてくれた記念に」
「うーん」
今度は私が考え込む番だった。音楽的知識も学校で習う程度しかないし、かといって何かネーミングセンスが自分にあるとは思えない。何かいい曲名は……。
不意に、さっき自分が曲を聴きながら歩く音がゆっくりになったことを思い出す。
「アンダンテってどうかな?」
申し訳ないほど音楽知識の乏しさを曝け出したような気がする。アンダンテは歩くような速さだったはずだ。本当にそのままの意味を、曲名に提案する自分が恥ずかしい。
「アンダンテ……いいかも」
「いいの!? ほんとに?」
「ほら、見て」
田中君が、自分で書き込んだ楽譜の右端を指さす。覗き込むと英語でAndanteと書かれていた。
「これを意識して弾いてたんだ。三条さんにもそれが伝わったのかな?」
「うそ……」
同じことを、少しでも田中君が思っていたと思うと少しうれしくなった。
「田中君って、手、綺麗だよね」
「そう? 言われたことないけどなあ」
まじまじと自分の手を見つめる田中君の姿に、笑みがこぼれる。
本をめくる手が、綺麗な旋律を奏でる手が、大好きだ。
昨日までは、その手を見ているのが幸せだった。
今はいつかその手に、触れてみたい。