理由
最後の客が帰り、店内には冴子と丁の二人だけになった。
「お疲れ様、ケーキ食べる?」
「食べる。僕チーズケーキがいい」
「了解」
冴子は冷蔵庫からチーズケーキを出して、カウンターに座る丁の前に置き、お湯を沸かして自分にコーヒーを入れた。
おいしそうにケーキを頬張る丁を眺めていた冴子は、ふと以前から持っていた疑問を口にした。
「丁は、どうして六花のところから出て行こうとか思わないの?」
冴子の問いに、丁は困ったように笑って肩を竦めた。
「なんで、って言われても、僕は生まれたときからこうで、この生き方しか知らないから。ほかのところにいったって、何にも変わらないよ」
「そうかな、丁は賢いし、それにまだ十六なんだから。そうしようと思えば、普通にだって生きていけるよ」
そういって、冴子は少し視線を落としてコーヒーを少し口に含んだ。一方丁は、冴子の言葉に驚いていた。冴子は他人以上の親しさを持って丁に接してはいたが、それは一種の義務的なものであることを、丁は知っていたし、冴子もそれを隠そうとは思っていないようだった。だからこんな風に、まるで仲の良い友達が、相手を心配しているような発言は、冴子にその気はなくとも、丁にとって少なからず動揺を与えた。
冴子が自分の心配をしている。一瞬浮かんだ考えを、丁は馬鹿らしいと自ら一蹴する。丁は知っていた。冴子は、もう誰かを大切に思ったりすることはないのだと。
「僕はね、冴子ちゃん。別にいやいやこの仕事をしてるわけじゃないんだよ。冴子ちゃんには冴子ちゃんの目的があるように、一応、僕には僕の目的があるからね」
「目的?」
冴子は首を傾げた。思えば丁とはこの手の話をしたことがなかった。初めて聞く丁の話に、冴子の僅かにある好奇心が話の続きを催促する。しかし丁はうっすらと笑みを浮かべるばかりで口を開こうとはしない。痺れを切らした冴子が尋ねた。
「なに?目的って」
「秘密」
予想外の答えに、冴子は思わず拍子抜けした。
「……なに、私には教えられないような酷い目的なわけ?」
「ちがうけど、冴子ちゃんには教えない」
「なによ、けち」
「ふふっ、起こった顔も可愛いねー」
「大人をからかうんじゃないの。だいたい、女の子に可愛いなんて言われたってうれしくないし」
僅かに頬を膨らませた冴子を見て、丁は笑みを更に深めた。こうやって話をしていると、よく姉妹と間違えられた。本当にそうだったらどんなによかっただろうと丁は思う。
「僕は、冴子ちゃんの笑った顔が好きだよ」
「丁? 急にどうしたの」
「冴子ちゃんには、いつだって笑っていて欲しい」
「そのためなら、なんでもするから」
「丁?」
独り言のように呟く丁は、先ほどまでの彼女とはまるで別人の雰囲気だった。そんな丁を心配そうに覗き込んだ冴子に、丁は急に我に返ったようにその眼に冴子を映し、小さな舌を少し突き出した。
「へへ、なーんて冴子ちゃん、男に言われたことなんかないでしょ」
雰囲気もいつもの丁に戻って、冴子はほっと息をついた。
「失礼ね、私、高校時代はそれなりにもてたのよ」
「ほんと? じゃあこんど卒業アルバム見せてよ」
「いやだ、だってすごく変な顔だもん」
二人とも、このひと時でさえ、見せ掛けの日常であることを忘れてはいなかった。しかし、どうして願わずにいられよう。そうしていればいつか、それが本物になると。願うことさえ罪なのだと知っていても。