丁(ひのと)
軽く店内の掃除をし、業者から届けられたコーヒー豆や紅茶の茶葉、ミルクや小麦粉などのケーキの材料を冷蔵庫にしまう。店で出すケーキや軽食はすべて冴子が自分で作っている。それを目当てにやってくる客も少なくない。開店の準備を終えると、店のドアに掛けてあるプレートをクローズからオープンに変える。
空を見ると、今日は雲ひとつない快晴だった。何にも遮られず直接地上に降り注ぐ光が眩しくて、顔を覆うように手を当てた。そしてふと、あの夕立の日を思い出した。
あれはもしかしたら、私の夢だったのかもしれない。日が経つにつれ、冴子はそう思うようになっていた。どちらにせよ、もう二度と彼と会うことはない。彼と私は、違う世界で生きている人間なのだから――
「あの」
後ろからかけられた声に、冴子ははっと我に帰る。振り返ると、高校生くらいの女の子が立っていた。制服を着ているところを見ると、今から学校に行くところなのだろう。
「なんでしょう」
「これ、さっきそこで会ったおじさんに、この店にいる冴子さんっていう人に渡してくれって言われたんだけど、あなた?」
差し出されたのは一枚の封筒だった。真っ黒な封筒に、表には白い文字で「津見冴子様」と書かれている。差出人の名前はないが、冴子はすぐにわかった。焼印された雪の結晶。
「ありがとう」
「それじゃ」
少女が走り去っていくのを見届けて、冴子も店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
昼の三時。店内は学校帰りの高校生や、買い物途中の親子で賑わっていた。ケーキやほかのデザート類は前の日に作り置きしておくので、開店中はそれほど忙しくはない。それでもドリンクは注文を受けてから作るので、一人で店を回すことはできない。最初は客も少なく、冴子一人でも事足りたが、しだいに人が集まるようになってからはそうは行かなくなった。今はアルバイトが二人入っている。
「梓ちゃん、ミルクティーとコーヒー、あとチーズケーキ二つね」
丁は人懐っこい笑みを浮かべて、伝票をカウンターに置く。今日はもう一人のアルバイトが休みなので、今日店に立つのは冴子と丁の二人だけ。
「丁」
「何?」
「梓って呼んじゃ駄目」
「なんで?」
「嫌だから」
本当は、丁が「梓」と呼びたがる理由を知っていた。知っていて、知っているからこそ、冴子はその名で呼ばれることを嫌った。
「いーじゃん、だってそっちのほうがトクベツな感じがするでしょ?」
「とにかく、私のことは冴子って呼びなさい」
冴子は丁との会話を続けながら、手際よくお湯を沸かし、バリスタでコーヒーを淹れ、沸いたお湯を紅茶の入ったポットに注ぐ。
丁は、幼い頃に親に捨てられ、身よりもなく孤児院に居たのを六花に拾われた。六花は丁にあらゆる知識を教え込んだ。基礎知識はもちろん、経済学、心理学、犯罪学、そしてありとあらゆる殺人術。丁は冴子の六つしたで、まだ十六歳だが、高校にはいっていなかった。幼い頃からの英才教育で、通う必要はもともとなかったが、本人が行きたがらなかった。
「はい、コーヒーとミルクティー」
「はーい」
ただ、と冴子は思う。今コーヒーとミルクティーを頼んだのは制服を来た高校生の二人組みだ。二人とも化粧をして、可愛いストラップをたくさんつけた携帯をいじっている。今時の普通の高校生。どうして丁は、そんな普通のことを経験しないまま、今を生きなければならないのだろう。私も決して普通の高校生とはいえなかったけれど、それでも休みには友達と出かけたことも何度かあるし、おしゃれだって好きだった。それらの何一つ与えられていない。けれど丁はきっと、それを悲しいとも思わない。冴子はそんな丁に少し同情した。そして同情などした自分に顔をしかめた。