仕事
その日、郷田元義は至極上機嫌でクラブ「Maria」に訪れた。店のものに誘導されるまでもなく、いつもの指定席に腰を下ろす。そこに、着物を着た一人の女性と、その後ろに煌びやかなドレスと装飾に身を包んだ若い女が二人近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
「おおママ、相変わらず美人だねぇ」
舐めまわすような郷田の視線を意に介す様子もなく、ママと呼ばれた女性は口元に手を添え、上品に笑った。
「まあ社長ったら、そんなこと言ったってなんにもでやしませんよ。さ、貴女たちもご挨拶して」
「ユウナです」
「サエコです」
後ろに控えていた二人がそれぞれ挨拶をする。二人の顔を見て、郷田はいやらしい笑みを浮かべ、二人を品定めするかのように交互に見やる。
「なかなかの上玉だな。しかし見ない顔だ」
「つい最近入った子達なんですの。可愛がってやってくださいな」
ママに促され、ユウナとサエコは社長を挟むように座った。
「じゃ、ママ、とりあえずドンペリとかシャンパンとか適当にだしてくれや」
「わかりました」
ママが席を離れると、すぐに郷田はサエコの肩に腕を回した。サエコは一瞬身をすくめたが、相手に気取られないように息をはき、体の緊張を解いた。仕事とはいえ、こんな男の相手をしなければならないのか。今夜限りだからいいものの、こんなこと毎日なんて身が持たない。サエコはこの店で働く女の子たちに密かに同情した。
「サエコちゃん可愛いねぇ、いくつ?」
「今年二十歳ですー」
「若いねー。サエコちゃんならすぐNo.1取れるよ。いや、おじさんが取らせてあげよう」
「まあまあ、社長ったら今日はずいぶんご機嫌じゃありません? 何かいいことでもあったんですか」
黒服を従えて戻ってきたママの言葉に、郷田は豪快な笑い声を上げた。耳元で大声を出され、サエコは思わず眉を寄せる。郷田はママとの会話に気を取られ、サエコがわずかに身を引いたのには気づかなかった。
「いやいや、今日は大きな取引がうまいこといったんですわ。おかげでがっぽり儲けさせてもらって、懐も暖かくなったところでママの顔見にきたんだよ」
「あらやだ、じゃあ今日はお祝いにシャンパンご馳走しちゃう」
「よっ、ママ太っ腹!」
何本もの酒瓶がテーブルの上に並べられ、ママがその一本を手に取り、郷田のグラスに注ぐ。サエコも近くにあった酒を適当に自分のグラスに注ぐ。
「じゃ、かんぱーい!」
「乾杯!」
郷田の音頭で、皆一斉にグラスを傾ける。サエコもその様子を横目で見ながら、自分のグラスに注がれたシャンパンを少し口に含んだ。あまり酒に強いほうではない。飲みすぎて、仕事に支障がでるようなことは避けなければ。
「ママ、吉田様がお越しです」
「わかった。すぐ行くとお伝えして頂戴」
黒服が一礼して去っていくと、ママは笑顔を浮かべて立ち上がった。
「じゃ、私はちょっと失礼致します。楽しんでってくださいね」
去り際、ママはサエコの肩に手を置き、耳元で囁いた。
(あとはうまくおやり)
(ありがと、ママ)
殆ど唇だけでそう答えると、ママは微笑んで席を後にした。
「サエコちゃん、なんか食べたいものあったら頼みなさい」
「じゃあこのフルーツ盛り合わせ食べたいなー」
*
「ういっ、今日は飲みすぎたなぁー」
「社長すごい飲みっぷりでしたもん。あたしびっくりしちゃったぁ」
深夜のタクシー。サエコは酔いの回った郷田を介抱するという名目で、郷田のマンションへと向かっていた。眠らない街といわれるだけあって、12時を過ぎてもその人の数は減ることを知らない。夜だというのに、狭い土地に詰め込むように建てられたビルから漏れ出す光が眩しくて目を細める。こんな異様な夜の街の明かりでさえ、私には明るすぎる。
「いやいや、まだまだ俺の酒豪ぶりはあんなもんじゃあないんだぜ、ひっく」
「あんまり飲みすぎると体によくないですよ?」
郷田の住まいは、店から二十分ほど走ったところにある高級マンションの最上階だった。足元のおぼつかない郷田を支えながらオートロックの暗証番号を聞きだし、エレベーターに乗り込む。最上階のボタンを押すとエレベーターは音もなく上昇を始めた。
冴子は頭の中でこの後の手順を復唱する。今まで仕事で失敗したことは一度もない。しかし一度の失敗も許されない仕事だ。
「さ、社長着きましたよ。鍵どこです?」
「んんー、背広の内ポケットに……」
言われたとおり背広の内ポケットに手を入れると、鍵は容易に見つかった。冴子は鍵を差し入れ、がちゃりと回す。
室内は男の一人暮らしらしく、雑然としていた。掃除はおそらく定期的にクリーニング業者にでも頼んでいるのだろうが、この散らかりぶりからすると、次来るのはもうまもなくに違いない、おそらく明日、明後日中。
「社長ここに座っててください。お水持ってきます」
冴子は郷田をソファに放るように置くと、台所に置かれていたグラスを手に取った。持っていたハンドバックから小瓶を取り出し、水を入れたグラスの中に中身をすべて入れた。そして冴子は何食わぬ顔をして郷田の元に駆け寄った。
「はいどうぞ」
「すまんな」
郷田はグラスを受け取ると、一気に喉に流し込む。とたん、眼を見開き、苦しそうに喉を押さえた。
「がっ、ぐ、ぐるじい、おまえ何を……」
「あんたが他人に与えた苦しみは、こんなもんじゃない。その罪、死を持って償いなさい」
冴子は郷田を一瞥し、何事もなかったように部屋を後にした。