四ノ宮
都心から少し外れた場所にあるその屋敷は、訪れた人々を、まるで外界から切り離されたような気分にさせる、粛々とした雰囲気に包まれていた。美しく整えられた日本庭園には、ししおどしの落ちる音だけが響いている。冴子は案内された部屋の前に立つと、何も言わずにふすまに手をかけた。
部屋は広々とした和室で、奥に一人の女性が座り、両脇にはスーツに身を包んだ屈強そうな男が二人控えていた。冴子が近づくと、二人は冴子を警戒するように立ち上がったが、座っていた女性がそれを手で制し、言った。
「二人きりで話したいの。あなたたちは下がっていなさい」
男たちは迷うそぶりを見せつつも、その言葉に従って部屋を出て行った。部屋には冴子と女性の二人だけになった。女性は冴子に向かって笑みを向けた。
「お久しぶり、冴子。元気そうでなによりね」
「驚かないのね、突然訪ねてきたのに」
感情を感じさせない声音で冴子は言った。すると女性は口元を手で押さえて、可笑しそうに笑った。
「わたし、貴女のこと割と高く買っているのよ? 貴女にはすぐばれると思った。でも、下手人を殺さずに先にここに来たのは意外だったわね」
「……やっぱり、貴女の命か、四ノ宮沙羅」
冴子は苦虫を噛み潰したような顔で言った。沙羅と呼ばれた女性は、そんな冴子を見て冷酷な笑みを浮かべた。
「今回ばかりは、目をつぶっていただきたいものね。逆に感謝してもらいたいぐらい。あの男は、貴女のこと、ひいては宮家のことをこそこそと嗅ぎまわっていたねずみなのよ。口封じは、当然だわ」
「……他に方法はなかったの」
「はっ、貴女がそんなこと言える立場なのかしら?」
そう言った冴子に、沙羅は心底嘲るような視線を向けた。その視線の冷たさに、冴子は背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
「裏の世界には秘密が多いけれど、宮家はその最たるもの。それが崩れることは、裏社会の秩序の崩壊に繋がることぐらい、貴女も分かっているでしょう? そうなれば、もっとたくさんの人間が死ぬの。だから不穏の芽は、どんな小さなものでも完全に取り除く。それがわたしの役目」
沙羅は音もなく立ち上がると、身構えた冴子に近づいてその頬にすっと手を添えた。
「ねえ、ちょっと気になっていたのだけれど、貴女がそこまでこの男の死にこだわるのは、何故かしら?」
「あなたには関係のないこと。それより、彼を殺ったやつを教えなさい」
「知ってどうするの? 殺すの? けどそんなことしたら狭霧が黙ってない。貴女が殺した下手人を大切に思っていた人間が、貴女を傷つけるためにまた貴女の大切な人を殺すかもしれない。そしたら貴女は同じように、その犯人を殺すのかしら? 殺すのでしょうね。そんな殺しの連鎖は、ただただ不毛なだけだわ。貴女もそう思うでしょう?」
沙羅はただ淡々と語った。その顔にも、読み取れる表情は何も浮かんではいなかった。冴子を責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ事実としてのみそれを語ることしかできない沙羅を、冴子は哀れに思った。光の当たらない、闇の中で生きるしかなった彼女に、冴子は自分を重ねずにはいられなかった。冴子は、自分より少し低い位置にある沙羅の目を見て言った。
「大切に想っていた分だけ、失ったときの悲しみは大きくて、空いてしまった穴を埋めるために、何かせずにはいられない。人間って、そういうものだと思う」
「死んだ男は、貴女の大切な人だったの?」
沙羅の問いに、冴子は首を横に振った。
「死んだ男を、大切に思っていた人がとても傷ついている。私はその人が悲しむのを見たくないだけ」
「そして、代わりに貴女が傷つくのね」
沙羅の言葉に、冴子はどきりとした。動揺を知られたくなくて、冴子は無意識に手を強く握りこんだ。表情を失くした冴子を見て、沙羅は反対にふっと顔を緩めて、寂しそうに微笑んだ。それは今日冴子がここに来て、初めて見た沙羅の素の顔だった。
「いくら大切に思っていても、人なんて簡単に死んでしまうのよ」
もう少しで体が触れ合うところまで縮まっていた二人の距離は、沙羅が大きく一歩後ろに引いたことで畳一枚分ほど広がった。二人の間にできた隔たりが、冴子には埋められない二人の心の距離を表しているように思えた。
「私と貴女は、とてもよく似ているけれど、根本が違うと思うの。貴女は仕方なくこの世界に足を踏み入れたから、裏の人間のすることを憎む気持ちがあるのもしょうがないとおもう。ここでは人の命なんて、風に吹かれて散る花びらみたいにあっけなくなくなっていく。それが当たり前。でもね、私にとってはそれが普通なの。日常の出来事に、一々心を痛める人なんて居るかしら? 明日、大切な部下が大勢死ぬかもしれない。お母様が殺されるかもしれない。でも私はきっと何も思わない。ただ、そうかとしか思わないの。それを人は非道だと責めるのかもしれない。けれどそれを否定することは誰にも許さない。私は四ノ宮を継ぐときに決めたの。どうしようもないことなら、私はどこまでも、自分のために生きると」
それが、沙羅の答えで、それを否定する権利は誰にもなかった。冴子は、背筋をぴんと伸ばし、毅然と語る沙羅を綺麗だと思った。二人が出会った場所が、もっと日の当たる明るい場所であったなら、二人の関係も、今とは違うものになっていたのだろうとも思った。
「私はこの世界を否定するわけじゃない。ただ私は私のしたいようにするだけ。あなたは、あなたの思うとおりに生きればいい」
冴子がそういうと、沙羅は少し呆れたように笑った。
「生きたいように生きるのは、この世で一番難しいことだわ」
それから沙羅は手を二度鳴らして、先ほど控えていた男の一人を呼んだ。音もなく入ってきた男に沙羅は言った。
「坂下に自首させます。彼と四ノ宮との関係が一切分からないように手を打ちなさい。坂下には、あとで話があるから来るよう伝えなさい」
「承知いたしました」
男はまた来たときのように音もなく部屋を後にした。驚きを隠せない冴子は、そのまま自分も部屋を去ろうとしていた沙羅を慌てて呼び止めた。
「どうして」
「……さあ、どうしてでしょうね」
冴子の問いに、沙羅は自嘲的な笑いを零した。冴子に背を向けたままの沙羅の顔は見えず、声からも沙羅の感情を読み取ることはできなかった。沙羅は障子の取っ手に手を掛けたところで、ふとその手を止め、ぼそりと呟いた。
「私本当は、貴女みたいになりたかったのかもね」
そして沙羅は、今度こそ真っ白な障子の向こうに姿を消した。残された冴子は、その方に向かって黙って頭を下げた。