裏と表
冴子は修一が店を出て行く音を聞いて、力が抜けたように床に座り込んだ。ぼんやりと宙を見ながら、修一を店に招きいれた自分を強く呪った。相手は気づいていなかったのだから、自分も気づかないふりをしてそのまま立ち去ればよかったのだ。けれど、冴子にはできなかった。なぜか、と聞かれても言葉では説明できない。気づいたら声をかけていた。
冴子はドアの前に立つ男を見た瞬間、すぐにそれが修一だとわかった。背は少し伸び、顔立ちも高校生のときに比べ子供っぽさが抜け、大人の男に近づいていた。それでも、彼の眼を見た瞬間、目の前の男と高校生の修一が重なった。あの純粋で、まっすぐな眼――
冴子が好きだった彼の眼は昔と何一つ変わってはいなかった。
冴子はのろのろと立ち上がると、店のカウンターに置いた子機を手にとって、どこかに電話を掛け始めた。
「もしもし。ええ、そうです。はい、予定通り今日。え? はい、はいわかりました」
二言三言言葉を交わし、電話を切る。そしてまた別の番号を押す。
「……あ、もしもしママ? うん、今日入るからね。……大丈夫、心配しないで。ママには迷惑かけないから。うん、うんありがと。じゃあ今夜」
電話が切れると、冴子は深く息を吐き、沈みこむようにカウンターの椅子に体を預けた。この椅子は、硬すぎず、やわらかすぎないものを、冴子自ら何軒もの店を回ってようやく手に入れたものだ。椅子だけではない、ガラス張りの棚に並ぶカップも、テーブルクロスもスプーンもフォークも、どれも冴子のこだわりが詰まったものだ。冴子にとって、この店は自分自身だった。愛すべきわたしの「表」。
しばらくそうしていると、手に持ったままだった子機から、着信をしらせる無機質な電子音が発せられ、しんとした店内に響いた。きっかり十回なったところで、電話は切れた。冴子は、子機を元の場所に戻し、眼をつぶった。そして彼女が眼を開けたとき、さっきまでの津見冴子は、もうどこにもいなかった。