抱擁
通夜が終わって、修一は一人夜道を歩いていた。御堂の両親に挨拶したかったが、母親のほうは気が狂ったように泣き続けていて、父親が彼女を優しく抱きしめて宥めていた。とても話しかけられる状態ではなかった。大切な一人息子が死んだ、しかも殺されたのだからそれも当然だと思った。
まるで、体の中身が空っぽになってしまったようだった。何も入っていない体の中を、ただ御堂と交わした他愛のない会話が何度も何度も繰り返し流れていく。悲しいとか辛いとか、そんな感情さえ、今はどこかに行ってしまっている。
あてもなく彷徨っていると、見覚えのある景色が現れた。修一は無意識に一軒の店に歩み寄り、住居用の呼び鈴を押した。しばらくして、階段を下りる足音がして、がちゃりとドアが開けられた。
「……いらっしゃい」
冴子はドアの前で佇む修一の顔を見ると、悲しげな顔で微笑んで、修一を招きいれた。
冴子は修一をソファに座らせると、二人分のコーヒーを淹れた。マグカップに入れて修一に手渡すと、「ありがとう」と覇気のない返事が返ってきた。
「大丈夫、じゃないよね」
冴子も自分のマグカップを持って、修一の隣に座る。部屋はとても静かで、時折、冴子がコーヒーを啜る音しか聞こえない。無言の時間を先に破ったのは修一だった。
「……あんまり驚かないんだね、突然来たのに」
「来るんじゃないかと思ってた」
「どうして?」
しかしこの問いには、冴子はただ悲しげに微笑んで首を横に振るばかりで何も答えなかった。修一は一口の口をつけていないマグカップを覗き込んだ。真っ黒な水面に自分の顔が映っている。ひどい顔だった。
「何か、私に話したいことがあって来たんでしょう?」
冴子はそう言った。その声はとても優しかった。何も知らないはずなのに全てを見透かしているような、どこまでも深い瞳に見つめられて、修一は促されるまま話し始めた。
「……友達、だったんだ。大学で、数少ない本当の友達だった。あいつは、普段はちゃらちゃらしてるけど、本当は誰より真面目で、正義感の強いやつだった。そういうところが好きだった。あいつと、どうでもいい話をするのが楽しくて、ほんとは昼休みが楽しみだったんだ。これからも、あいつと話したいことがまだたくさんあったのにっ……なんでっ、なんで死ぬんだよぉ、御堂!」
話しているうちに、空っぽだった中身が少しずつ埋まっていって、どこかに行っていた感情が関を切ったように溢れ出してきて、修一は思わず叫んだ。
「どうして、どうしてあいつが死ななくちゃならないんだ……」
気づいたときには、修一の頬は流れ落ちる涙で濡れていた。次々とあふれ出す涙は頬を伝って落ち、修一のズボンに染みを作っている。冴子は修一の姿に、一瞬辛そうに顔を歪め、無言で立ち上がると修一の正面からそっとその頭を包み込んだ。人肌の温かさに、また涙が零れた。
「甲斐くんが、高校のときよく私を元気付けてくれたの、覚えてる。甲斐くんに頭撫でられるの、恥ずかしくってあの時は嫌がってたけど、本当はすごく嬉しかった。あのとき、もし甲斐くんが辛くて、どうしようもなくなったときがあったら、今度は私が甲斐くんを元気付けてあげようって、思ってた」
抱きしめる力が緩んで、修一はそっと顔を上げる。冴子は小さく微笑んで、修一の頬に手を添えた。修一がぼんやりと冴子を見上げていると、すっ、と冴子の顔が近づいてきて、唇に何か柔らかいものが触れた。そのぬくもりが離れてから修一は、触れたのは冴子の唇で、自分は彼女にキスされたのだと理解した。冴子は少し恥ずかしそうに頬を染めていたが、しかしその表情は真剣そのもので、修一は冴子が今にも泣き出してしまうのではないかとさえ思った。冴子は修一に口付けた唇で言葉を紡ぐ。
「私でも、貴方の力になれるかな。貴方を救うことは、できるのかな」
「津見さん……」
修一は、今自分の目の前に立つ女性に、初めて会ったときの姿が重なって見えた。頑なで、人の痛みに敏感で、傷つきやすくて、そして誰よりも優しかった少女。冴子は今も、修一が好きな彼女だった。修一はその細い身体にそっと腕を回し、力強く抱きしめた。
目が覚めて、視界に映る天井が自分の部屋のものでないと、うっすらともやのかかったような頭で考える。それから昨日は冴子の家に泊まったのだということを思い出した。同時に、昨晩の出来事も蘇る。
昨日、修一は冴子を抱いた。冴子の透き通るような白い肌に、修一は何度も口付けて、抱きしめた。けれど、昨日の行為は抱くというより、むしろ抱かれているというほうがしっくりくると修一は思った。御堂の死に対する悲しみも怒りも、全部ひっくるめて冴子に抱かれているようだった。他人と抱き合う行為がこんなに幸せなものだということを、修一は初めて知ったような気がした。そこにいることを確かめるように、隣で眠る冴子をそっと抱きしめると、冴子は腕の中でくすぐったそうに身をよじった。
「ん……修一、くん?」
「おはよう、冴子」
まだまどろみのなかにいる冴子が、舌足らずな口調で修一の名を呼ぶ。修一もそれに答えるように、優しく冴子の名を呼んだ。
週末に会いに来るという言葉と、軽いキスを残して修一は帰っていった。修一の背中が見えなくなるまで見送って、店の中に入った。とたん、足の力がふっと抜けて、冴子はその場に座り込んだ。
冴子は、自分が幸せすぎてどうにかなってしまうのではないかと思った。幸せを水にたとえるなら、自分の幸せを入れるコップは疾うにいっぱいになって、水は止めどなく溢れているだろう。だからたとえ昨日、修一が自分に求めたのが愛情ではなく一時の慰めだったのだとしても、それでいいと思えた。修一が、自分を必要としてくれている。殺し屋としての自分ではなく、ただ一人の女としての自分を。それ以上のことを望むなんて、罰が当たるような気さえした。
冴子は固く目をつぶり、それからゆっくりと開けた。そこにはもう、修一を思って心を揺らす冴子はいない。今ここにいるのは、心を凍らせた、冷たい殺人者だった。冴子は立ち上がって、二階に上がった。寝室に置いていた鞄から携帯電話を取り出すと、登録していた短縮ダイヤルを呼び出してコールを鳴らす。数回のコール音の後、がちゃり、という音の後低い声で「はい」と答える声があった。
「もしもし、冴子だけど。ちょっと聞きたいことがあるの」