桜子
「何度も申し上げますけれどね、刑事さん。そんな殺人事件なんかには、うちの娘たちは関わってませんよ」
六本木に店を構えるクラブ「Maria」のママ、桜子は愛用の煙管をふかしながら気だるそうに答えた。神谷はその態度に思わず顔を顰めたが、佐野は顔色を変えず同じ質問を繰り返す。
「そろそろホントのことおっしゃってください」
「ホントも何も、あたしはホントのことしかしゃべってませんけどね」
「へぇ……じゃあ、これもホントですか」
佐野は鞄を開け、中から分厚い紙の束を取り出して、桜子の座るカウンターのテーブルに乱暴に投げ置いた。
(ああ、佐野さんキレ始めてる……)
その様子を横で見ていた神谷は思った。佐野は言葉遣いこそ丁寧だったが、それとは裏腹に、発する気は怒気を多分に含んでいるのが、決して短くはない時間を佐野とともに過ごしてきた神谷には分かった。
「ここ最近の、ペティ・リッパーの犯行と思われる事件の被害者たちです」
「それが、今回の事件と何か関係あるんです?」
桜子はあくまでのらりくらりとかわす姿勢を崩そうとはせず、資料の一番上の紙を一枚指で挟み上げて、しげしげと眺めた。それが限界だったのか、佐野はカウンターをバンッと叩いて叫んだ。
「とぼけるのもいい加減にしろ! この中の半分以上が、殺される前にこの店に来てることは調べがついてるんだ!」
佐野はもう怒気を押し隠そうとはせず、たいていの人間なら恐怖で萎縮するような鋭い眼光を桜子に向けた。しかしさすがは六本木で長年夜の世界を生きてきただけあり、桜子は佐野の態度の豹変にも慌てた様子は見せず、大きくため息をつくと煙管をカウンターに置いた。
「そんなことまでお調べになられるなんて、刑事さんはとっても優秀な方なんでしょうけど……まあ、あまり取り調べには向いていらっしゃらないようですわね」
そこで初めて桜子は気だるい表情を払い、観念したように小さく笑った。
「まあ、刑事さんのおっしゃる通り、この方たちは確かにうちに来てくださったことがある方たちですわ。けれど、別に常連さんってわけでもありませんしね……。それにもし借りに、うちの娘たちの中に犯人がいるとしても、どうやってこの方たちを店まで引っ張ってくるって言うんです? うちはこれでも、毎日たくさんのお客様に来ていただいているお店です。ホステスさんは、外にでて、客引きなんてしている暇はないんですよ。そういうのは全部、男衆の仕事ですわ」
桜子はそれだけを一気に言い放つと、佐野に向かって極上の笑みを向けた。佐野は反論したくてもその言葉が出てこないことに苛立ち、こぶしを強く握った。佐野がここまで熱くなることはめったになかった。だが佐野にとって、この一連の連続殺人だけは、どうしても自分の手で解決したい事件だった。その思いが、佐野を焦らせた。
その様子に、桜子は笑みを引いて、代わりに少し憂いを帯びた表情を見せた。
「刑事さんは、犯人が分かればすべて解決するとお思いなのかしら? まあ、刑事さんならそう思うのはあたりまえなのでしょうけどね」
唐突な質問に佐野も神谷も、「は?」と呆けた声を上げる。桜子は二人の顔を見て悲しそうに微笑んだ。
「世の中には、知らないほうがいいこともあるってことですよ刑事さん。悪いこといいませんから、これ以上深入りしないほうがいい」
「やっぱり、貴女は犯人を知っているんじゃ……!」
桜子に詰め寄ろうとする神谷を、佐野が制する。神谷は反論しようと佐野を見たが、静かに首を振る佐野を見て、しぶしぶ引き下がった。
「今日はもうお帰りくださいな。そして、もういらっしゃらないでください。お話しすることは何もありませんから」
桜子は立ち上がり、店の出入り口に向かって優雅に手を挙げる。佐野は何も言わずに、カウンターの資料を集めて鞄に戻した。
「最後に一つだけ聞かせてください」
「なんでしょう」
「ぺティ・リッパーは、どうしてこんな事件を起こしているのでしょうね」
桜子は、佐野の問いの真意を測ることができなかったが、少しして、その重い口を開いた。
「それが……、それが、彼女の存在価値だから」
「彼女……」
佐野の呟きに、桜子ははっとした表情を見せた。意図して言ったのではなかったのだろう。僅かに動揺したようすの桜子に、佐野は一礼した。
「捜査協力に感謝します。神谷行くぞ」
「えっ? は、はい」
力強い足取りで店を縦断し、そして佐野と神谷は扉の向こうへと消えていった。
一人残された桜子は、その姿が完全に見えなくなってから、一気に緊張を解いてカウンターの椅子に座り込んだ。
「ごめんね、冴子」
桜子は、今日もまた、赤い血で手を染めるのだろう、子供のいない桜子にとっては娘同然の一人の少女が、どうか幸せになりますようにと祈った。
「死なないでね、刑事さんたち」
そしてまた、今日初めて会った刑事が、少女を血だまりの世界から救ってくれることを願った。どちらにしても、ハッピーエンドは望めないと知っていてなお。
桜子の呟きは、誰も居ない店内にこだまして、やがてきらびやかな装飾に吸い込まれるように消えた。