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罪の花  作者: 藤野玲
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西ノ宮

 夜八時、冴子は白いコートに身を包み、夜の新宿を歩いていた。普段殆どしない化粧をし、髪をセットした冴子は、普段の素朴な可愛らしさは消え、どこか怪しげな魅力をたたえていた。すれ違った人間は、男女問わずその数秒、冴子に眼を奪われた。けれども冴子のほうはその視線が煩わしいとでもいうように、美しい顔を曇らせ、足早に夜の街を突き進む。そして冴子の足は、天高くそびえる高層ビルの前で止まる。ホテルオークラのスカイレストラン、そこが今日の『デート』に指定された場所だった。

エレベーターに乗り、50階のボタンを押す。最新のエレベーターなのか、わずかな振動をともなうことなく、どんどんと上へと上っていく。

 冴子は高いところが好きではなかった。相手はそれを知っているのに、あえてこの場所を選んだことに、内心大きく舌打ちをする。相手のことは嫌いではないが、いい年をしてこういう嫌がらせをするのはいかがなものだろうか。

 エレベーターの扉が開くと、ボーイがうやうやしく頭を下げて「いらっしゃいませ」とで迎えた。冴子はいつものように、送られてきたカードをボーイに渡した。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

ボーイの後についていくと、新宿の街が一望できる特等席に、自分を呼びつけた人物の姿を確認できた。幸いなことに今は夜。街の明かりは明るいものの、したがはっきり見えるわけではない。昼間でなくて良かったと冴子は心から安堵した。

「西ノ宮お連れ様がお越しになしました」

ボーイが一礼して去っていくのを見て、冴子は空いている正面の席に腰を下ろした。

「やあ、久しぶりだね……うん、やはり君には白が似合う。今日の君は一段と美しい、若かりし頃の夕菜さんにそっくりだ」

コートを脱いだ冴子を見て、西ノ宮は賞賛を贈る。冴子は西ノ宮の送った白いパーティドレスを着ていた。腰の黒いリボンを除けば、まるでウエディングドレスのような純白のドレス。膝丈のスカートとノースリーブで、そのドレスに勝るとも劣らない白く細い手足が惜しげもなく晒されていた。

「でも白は嫌いです」

「どうしてだい?」

西ノ宮は意外そうな口ぶりで、愉快そうに口の端をあげて言った。

「わかっているくせに」

「おやおや、まだそんな考えを持っていたとは。冴子、君は自分が思っているよりずっと綺麗だ。まあ、敢えてそうでない部分を挙げるすれば、その白い手だけは数多の人の血で汚れているな」

西ノ宮は、流れるような動作で冴子の手を取り、その甲に軽く口付けた。冴子は頬をうっすら朱に染め、急いで手を引いた。

「……あなたは、私をからかうためにここに呼んだんですか」

数回、小さく深呼吸して平静を取り戻した冴子は、相手のペースに飲まれないよう、勤めて淡々と話を切り出した。冴子の問いに、西ノ宮は先ほどまでの軽薄さを潜め、少しばかり真剣な口調で言った。

「まあそれはそれで楽しいが……、それがメインというわけじゃない」

西ノ宮はそこで言葉を切り、さっと手を挙げる。その合図で、一人のウエイターが音もなくワインボトルを持って現れた。

「2000年のロゼでございます」

ワインはそれぞれのグラスに注がれ、ウエイターはボトルをテーブルの上において下がっていった。

「君の父上に」

西ノ宮はそういってグラスを高く上げた。10年前、冴子の父が死んだ年だ。冴子も西ノ宮に習ってグラスを手に取った。

「父に」

チン、とグラスの合わさる音が響く。一口口に含むと、若いとも言えず、熟しているとも言えない味が口に広がる。

「それで、用件はなんですか」

「最近、ぺティ・リッパーというのが世間を騒がせているらしいね。知っているかい?」

西ノ宮はごく軽い調子で話していた。しかし冴子は、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。知っている、この男はなにもかも知っていて、私を試して楽しんでいるのだ。

「……ええ、まあ。ニュースくらいは見ていますから」

「まったく物騒な世の中になったものだね。君も夜道には気をつけたまえ。まあ君の場合、相手を返り討ちにしてしまうだろうから、私はむしろその犯人を心配するがね」

西ノ宮はボトルを手に取り、空になった自分のグラスに注ぐ。冴子は今すぐこの場を去りたい気持ちを抑え、テーブルのしたで強く拳を握った。

「はっきりおっしゃったらどうです? 何もかもわかっていらっしゃるのでしょう? ですが私は、止めろと言われても止めるつもりはありませんから」

冴子は駆け引きが得意ではなかった。特にこの男相手にそんな芸当できるはずもない。相手のペースに巻き込まれる前に、自分から終わらせたかった。西ノ宮は冴子の言葉に、さすがに驚いたような顔を見せた。やや経って、西ノ宮は顔を伏せたかと思うと、何かをこらえるように肩を震わせ、そして次の瞬間声を上げて笑い出した。

「ははは! 冴子、君はやはり涼にそっくりだな。べつに君を止めようなんて思ってはないさ。六花に迷惑かけない限り、なにをしようとそれは君の自由だ」

「じゃあ、どうして……」

父の名が出たことにも、西ノ宮が突然笑い出したことにも、冴子は戸惑いを隠せずに、西ノ宮を射ていた鋭い視線をわずかに弱めた。昔から、この男だけはなにを考えているかわからない。出会ったときから、今までずっと。

「まあ聞きなさい。裏の世界は、広いようで狭い。君が先日殺したチンピラ、じつはうちのお得意様の息子さんでね。話を聞いて、ぴんと来た。こりゃ冴子の仕業だなってな」

「先方は息子を殺したやつを絶対見つけ出して私刑にするって、それはもう烈火のごとく怒っていてね。俺のことも疑っている。しかしこちらとしても、冴子を差し出すわけにはいかないんでね、代役を立てることにしたんだよ」

「代役……」

「そう、代役だ」

そう言って冴子に微笑みかけた西ノ宮に悪意は感じられない。それが逆に恐ろしかった。冴子の代役になるということは、つまり。

「まあ、君は心配しなくていい。こちらですべて手配済みだ。だがしばらくの間は、おとなしくしてもらわないとな」

「私に、そこまでする価値が?」

人の死など、もういくつ見たか忘れてしまうくらい見てきたけれど、自分の犯した罪を、なんの罪もない人がかぶって死んでいくのは、納得できなかった。冴子は自分のふがいなさに唇をぎゅっとかみ締めた。西ノ宮はそんな冴子を見て、ふっ、と眼を細め、やさしく微笑んだ。

「冴子、君は確かにビジネス上なくてはならない存在だ。けれど私は、それ以上に君を本当の娘のように思っているのだよ。娘を助けたいと思う親心を理解してはくれないか?」

冴子は困惑して西ノ宮を見た。父の親友だった男、かつては自分も、父の次に大好きだった人。

「……私の父は、たった一人だけです。昔も、今も」

冴子は席を立った。西ノ宮は冴子の無礼な振る舞いを気にも留めず、優雅にワインを飲んでいる。冴子は鞄とコートを掴んで、無言で席を離れた。

数歩歩いたところで、冴子はひたと足を止めた。

「……今回のことは、感謝します」

冴子は振り返ることなくそう言った。西ノ宮に聞こえているかはわからない。けれど冴子は振り返り、確かめることもなく、レストランを去っていった。



 「まったく、前菜もこないうちに帰るなんてなぁ」

残された西ノ宮は冴子の去っていったほうを見つめ、その場にはそぐわない、楽しそうな表情を浮かべていた。そこにすっとウエイターが近づいて言った。

「お料理のほうはいかがいたしますか? 西ノ宮さま」

「すまないが、私ももう帰る、また改めて食べにこさせてもらうとするよ」

「承りました。またのお越しをお待ちしております」

ウエイターが去っていくと、西ノ宮は先ほどの冴子の言葉を反芻した。

「感謝します、ね」

西ノ宮はあと一口ほどが残ったワイングラスを高く持ち上げ、きらびやかに輝くシャンデリアにかざす。

「もう少しだ、涼」

その呟きは、たちまち人々の談笑とナイフとフォークの合わさる音が響く店内に吸い込まれ、それを耳にしたものは誰もいなかった。


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