僕の叫び
ボクは、どこまで来てしまったんだろう。
ふと、柔らかかったこの手を思い出す。爪も割れてない、どこもひび割れてないこの手。
誰かが『大事にしなさいよ』と言っていた。気づけば、この手はもう、誰かの痛みを感じなくなっていた。かつて誰かを抱きしめ、誰かの痛みを和らげ分かち合ったはずのこの手は、力を求めるうちに固く冷たくなっていった。豆ができて、皮が剥けて血が滲んで。そしていつの間にか、その血が自分のものか他人のものかすら、わからなくなっていた。
命の重さに違いなんてなかった。それがどんな者であれ、伸ばされた手の重さは変わらない。この手は、ただ"拒むこと"に慣れすぎてしまった。守ることも、触れることも、忘れてしまった。この手で誰かを抱いた記憶は、遠く霞んでしまった。あの夜、泣く子の背中にそっと添えた掌も、その子が泣き止んで眠りに落ちたときのぬくもりも、確かな輪郭を持たない。この手は、もう人を慰めることができない。自分だって、満足に慰めることもできやしない。この手は、まるで鋳型に流し込まれたように硬くただ、押し潰すか、閉じるかそのどちらかしか知らない。
ボクは夢の中で思い出す。手を伸ばしても届かない誰かの背中。冷たい感触ばかりが手に残っていて、ぬくもりは、もうどこにもない。ボクは、何を守れたというのだろう。ボクは、何を手に入れられたのだろう?残ったのは、叫びか、あの冷たい称賛か。王から頂いた、あの青白く鈍く光る勲章、そんなものしか、思いつかない。ずっと昔のことだった。誰かが、ボクの髪を撫でて言った。『まるで太陽みたいね』と。
その言葉に、ボクはただ頬を赤く染めていた。『そんなわけないよ』、って。本当にそれが、ボクにとっての“本当の太陽”だったのか、今でもわからない。でも、その言葉と手のぬくもりは、確かにボクの中に、光を灯してくれた。その瞬間、ボクは、世界に受け入れられていた。ボクの存在に、意味があった。それは、確かだった。
けれど、いつからだろう?"太陽"は、ボクを拒むようになった。まるで、ボクが"影"そのものであるかのように。その光は、ボクを遠ざけ、焦がし、焼いた。傘を差しても。手で覆っても。それでも光は、容赦なく、ボクを照らした。そして、焼いた。ボクの髪を、ボクの名前を、ボクの居場所を。"光"は、すべてを焼き尽くした。ボクはただ、名前を待っていただけだった。未来を、ほんの少し信じたかっただけだった。けれど、その光は、ボクを選ばなかった。それどころか、ボクのすべてを拒絶していった。焦げる音がした。焼ける匂いがした。ボクの中にあった"何か"が、ひとつ、またひとつと剥がれていった。名前が焼かれる瞬間、誰かが、振り返りもせず。まるで当然のように"あちら"へと手渡したあのとき、世界は、ボクの存在を忘れることを選んだのだ。
本来、輝きを放つはずだった「ボク」の名は、ボクを拒絶した。まるで、初めからボクのものでなかったかのように。そのとき、ボクは、“ボク”ではなくなった。それでも、ボクは、生きている。誰にも気づかれなくて、ワタシの名前を呼ばれなくても。あの輝きを捨て、本来誰かが名乗り、輝きを放つはずだった名前を、奪うようにし 勝手に背負わされた。「ボク」という仮面を被って、ボクは、まだここにいる。この手は、もう痛みを分かつことができない。この髪は、もう誰にも美しいとは言われない。この名は、ボクのものではない。けれど、時折、仮面の裏から微かな声が聞こえる。
「ここにいるよ」と、消えかけた"ワタシ"が囁く。仮面は、最初は一時しのぎのはずだった。誰にも気づかれず、やり過ごすための道具だった。気づけばその仮面は、ボクの顔に張り付き、剥がれなくなっていた。鏡を見ても、映るのは“ボク”ばかり、"ワタシ"は、どこにもいない。その"ワタシ"がいなければ、ボクはもう立っていられなかった。それでも、ボクは、あの太陽に、魅せられてしまった。あの太陽は、ボクを照らした。けれど、照らしたまま、背を向けた。焼いたのは、知らずに差し伸べた手だった。優しさの形をした拒絶だった。だからこそ、ボクは、その光に向かって、滅びの火花を抱えて立ち続けた。決してなれないと知りながら、焼かれこの身が朽ち果てても、それでも、猛々しく進まなければならなかった。それだけがボクがこの世界に残された理由だったからだ。きっと、いつかボクが誰だったかなんて、分からなくなる。
"ボク"という、わけもわからない仮面だけが残り、その奥にあった“ワタシ”あの太陽でさえ、わずかな時間、光を託してくれた"ワタシ"。それは、誰にも知られず、静かに忘れ去られていく。それでも、いいんだ。ボクは、まだ、あの光り輝く"ワタシ"だった時間を、覚えている。たとえ声にできなくても、たとえ叫んで、誰もが耳をふさいでも。叫び続ける。あの光に焼かれる前、確かにあった。誰かに撫でられた髪と、誰かと交わした声。何かと繋がっていた"証"だけは、今も、胸の奥に、まだ残っている。あの光がもたらしたすべてを否定したくて、何度も"ワタシ"を投げ捨てようとした。でも、そのたびに、胸の奥で"何か"が叫んだ。
忘れるな。あの輝きを。忘れてしまえば、今度こそ"ワタシ"は消えるのだと。だから、ボクは問いかける。ボクが"ボク"でなくなっても。"ボク"という仮面に、すべてが飲まれて、あの太陽を焼き捨て、名を踏み潰しつくとしても。
私は、それでもまだ、"ワタシ"ですか?返事は、ボクを嘲り笑うように、光でボクを焼いた。




