第1話「雪原の慟哭と、奪われた温もり」
ああ、なんて温かいんだろう。
俺は全身を包み込む白銀の毛並みに顔をうずめ、深く息を吸い込んだ。陽だまりのような匂いがする。
「……アレン、起きなさい。日が昇りましたよ」
頭上から降り注ぐ、慈愛に満ちた声。
目を開けると、視界いっぱいに巨大な狼の顔があった。黄金色の瞳が、優しく俺を見下ろしている。
俺――アレンの前世は、日本という国の社畜だった。
月残業二〇〇時間。終電帰りは当たり前。コンビニ弁当とエナジードリンクで命を削り、最後はデスクに突っ伏して孤独に死んだ。
けれど、今の俺は違う。
気づけばこの雪深い森にいて、伝説の魔獣と呼ばれる「マザー・フェンリル」に拾われたのだ。
「くぅ~、あにき、おはよ~」
「おはよう、ルガ」
横から、俺の頬を舐めてくる小さな毛玉が一匹。
マザーの実子である子狼のルガだ。俺たちは種族こそ違うが、本当の兄弟のように育ってきた。
俺のスキルは【解析】一つだけ。戦闘能力は皆無の「ハズレ枠」だ。それでも、マザーは俺を息子として愛してくれた。
「今日は南の谷へ行きましょう。甘い雪イチゴが実る頃です」
「やった! 母ちゃん大好き!」
ルガがはしゃいで雪原を駆けていく。俺も慌ててその後を追った。
真っ白な雪、澄んだ空気。そして絶対的な強さと優しさで守ってくれる母。
ここには納期も、パワハラ上司もいない。
俺は心から思っていた。この幸せが、永遠に続くのだと。
――そう。あの瞬間までは。
ドォォォォォォォン!!
突如、鼓膜を破るような爆音が轟き、目の前の雪原が吹き飛んだ。
「きゃうっ!?」
「ルガッ!?」
爆風に煽られ、俺たちは雪の中に転がる。
何が起きた? 土煙の向こうから、複数の影が近づいてくる。
「おいおい、座標がズレてるじゃねえか。毛皮に傷がついたらどうすんだ、三流魔導師が」
聞き覚えのない、けれど酷く耳障りな声。
煙が晴れると、そこには煌びやかな装備に身を包んだ五人の人間が立っていた。
中心にいるのは、白銀の鎧を着た金髪の男。顔立ちは整っているが、その青い瞳には、爬虫類のような冷たい光が宿っている。
「……人間? ここは私の縄張りです。立ち去りなさい」
マザーが俺たちを背に隠し、低く唸った。大気がビリビリと震えるほどの威圧感。並の人間なら気絶するはずだ。
だが、金髪の男はニヤリと口角を吊り上げただけだった。
「立ち去れ? 笑わせるなよ。ようやく見つけた『極上の素材』なんだぜ?」
「……素材、だと?」
「ああ。俺の名はアルヴィス。Sランク勇者パーティ『銀の翼』のリーダーだ。お前のような伝説級モンスターの素材こそ、俺という英雄に相応しい」
アルヴィスと呼ばれた勇者が、剣を抜く。
その刀身から溢れ出る魔力を見て、俺は背筋が凍った。
――勝てない。
【解析】スキルが警告している。奴のレベルは桁違いだ。
「逃げなさい、アレン! ルガを連れて、早く!」
「母さん!?」
「いいから行きなさい!!」
マザーが咆哮と共に飛びかかった。
しかし、勇者の背後にいた魔導師たちが一斉に杖を掲げる。
「『重力枷』!」
「『絶対氷結』!」
幾重ものデバフ魔法がマザーの巨体を地面に縫い止める。
動けなくなったマザーの首元へ、勇者アルヴィスが薄ら笑いを浮かべて歩み寄る。
「でかい図体の割に脆いな。……ああ、いい毛並みだ。この純白、この光沢。間違いなく最高級のコートになる」
「やめろぉぉぉぉぉッ!!」
俺は無我夢中で駆け出した。
だが、勇者の取り巻きの戦士が、ゴミを払うように裏拳を振るう。
「がはっ……!?」
一撃で肋骨が軋み、俺は雪の上を転がった。視界が霞む。体が動かない。
遠くで、ルガが悲鳴を上げている。
「やめ……母さんに……手を、出すな……」
地面を這いずりながら、俺は見た。
勇者が剣を振り上げ、そして――。
ザシュッ。
鈍く、重い音が響いた。
真っ白な雪原に、鮮烈な赤が飛び散る。
マザーの咆哮が途絶えた。
その体から力が抜け、どうと崩れ落ちる。
「よォし、討伐完了! おい、すぐに解体班を呼べ。鮮度が命だ。皮を一枚も残さず綺麗に剥げよ?」
勇者はマザーの死体を踏みつけ、血のついた剣を満足そうに眺めた。
まるで、新しい服を買ったときのような気軽さで。
そこに「命」への敬意など欠片もない。ただの「物」を見る目だった。
解体作業が始まった。
俺とルガは、死んだふりをして、岩陰の雪に埋もれて震えていた。
声を上げれば殺される。ルガの口を必死で押さえ、俺は涙でぐしゃぐしゃになった顔を雪に押し付けた。
バリ、ベリ、と肉から皮が剥がされる音が聞こえる。
俺の頭を撫でてくれた温かい毛並みが。
俺を包んでくれた優しい匂いが。
勇者たちの手によって、無惨な「素材」へと変えられていく。
「へへっ、すげぇやアルヴィスさん! これで最強装備の完成ですね!」
「ああ。次の配信でお披露目だ。きっと視聴回数もスパチャも跳ね上がるぞ」
――配信? スパチャ?
こいつらは、母さんの命を、ただの見世物にするつもりなのか。
名声のために。金のために。
ただ穏やかに暮らしていただけの、優しい母さんを。
(許さない……)
奥歯が砕けるほど噛み締めた。
心臓の奥で、ドロリとしたどす黒い感情が渦を巻く。
(殺してやる。アルヴィス……お前だけは、絶対に。どんな手を使ってでも、地獄に叩き落としてやる!)
やがて、勇者たちは剥ぎ取った「毛皮」を満足げに掲げ、去っていった。
残されたのは、真っ赤な肉塊と化したマザーの亡骸だけ。
夕闇が迫る極寒の雪原。
俺はルガを抱きしめ、マザーの骸の前で泣き崩れた。
寒い。寒いよ、母さん。
温もりはもう、どこにもない。
俺の「解析」スキルはレベル1。
魔力もない。剣も振れない。
あるのは、尽きることのない殺意だけ。
でも、どうすればいい? Sランク勇者に、こんなゴミごときが勝てるわけがない――。
絶望に凍え死のうとしていた、その時だった。
カツン、カツン……。
静寂な雪原に、場違いなヒールの音が響いた。
顔を上げる。
視界の端に、漆黒のドレスの裾が見えた。
「――可哀想に。全てを奪われたのね」
鈴を転がすような、しかし氷のように冷徹な声。
そこに立っていたのは、この世の者とは思えないほど美しい、喪服姿の女性だった。
アメジスト色の瞳が、射抜くように俺を見つめている。
「復讐したい? 坊や」
その言葉は、悪魔の囁きのようであり、
同時に、蜘蛛の糸のような救いでもあった。




