最後の魔法が灯る日
魔法は、音もなく薄れていった。
ある朝、井戸の水を温めていた小さな火の呪文が、最後まで唱えられなかった。次の日、街路灯の光が一つ、また一つと消え、夜は夜の色を取り戻した。
エルディンは塔の最上階で、それを見下ろしていた。白髪は肩に落ち、指先にはもう、かつての熱はない。魔術師たちは皆、分かっていたのだ。世界から魔法が去ることを。理由は分からない。ただ、終わりだけが等しく訪れる。
弟子はとうにいない。最後の一人は三年前、農村へ戻った。魔法がなくても生きていける場所へ、と笑って去っていった。そう、魔法はもう必要ないのだ。エルディンは引き留めなかった。引き留める言葉を、もう信じていなかったからだ。
その日、塔の扉が叩かれた。
珍しい訪問者だった。
「先生」
細い声。振り向くと、少女が立っていた。外套は擦り切れ、手には古い杖――いや、ただの木の枝だ。
「魔法を、教えてください」
エルディンは首を振った。
「もう遅い。魔法は消えゆく。今日か、明日か、その程度の違いだ」
「知っています」
少女は即答した。
「でも、最後に魔法を見たいんです」
エルディンは少女を見つめた。瞳に恐れはなく、ただ、確かめたいという意志だけがあった。
「なぜだ」
「母が言っていました。技術は世界を便利にしたけれど、人の心を照らすのは、最後まで残るって」
エルディンは、思わず笑った。
それは、かつて彼自身が語った言葉だった。
塔の中央で、彼は蝋燭を一本立てた。
「よく見ていなさい。これが、最後だ」
呪文は短く、簡素だった。かつてなら、子どもでも使えた魔法。
指先に集まった光は、風前の灯火のように揺れ、それでも確かに、そこにあった。
蝋燭に火が移る。
小さな炎。
少女は息を呑んだ。
「きれい……」
その瞬間、光は霧散した。
エルディンの手には、何も残らない。
沈黙が落ちる。塔の外では、風の音がした。魔法のない、ただの風だ。
「先生」
少女が言った。
「今の、本当に魔法だったんですか?」
エルディンは答えなかった。代わりに、蝋燭の火を吹き消した。
そして、ポケットから火打石を取り出す。
――カチリ。
火花が散り、再び炎が灯る。魔法は必要ない。呪文を覚える必要もない。ただ石と石をぶつけるだけだ。
「これは、魔法ではない」
彼は静かに言った。
「だが、世界を照らす」
少女はしばらく考えた。母が愛した魔法はもうなくなってしまうのだ。剣と魔法の時代は終わるのだ。
彼女は礼をして、塔を去った。
エルディンは一人、空になった掌を見つめる。
魔法は、終わった。
だが、誰にも気づかれず、最後の嘘が一つ、この世界に残った。
――魔法は消えた、と。
それを信じる人がいる限り、世界はきっと、前へ進める。こんな老骨を置いていって。




