2日目、侯爵家にて
黒髪のメイドが水差しを持って入室した。
風のない部屋でメイドの動きが空気を揺らし、蠟燭の火を揺らした。
部屋の中は分厚いビロードのカーテンが閉められていて、薄暗い。
「ステラ、お水を持ってきたわ。パンも」
メイド服姿のルーナが服の下からパンを取り出す。
「この侯爵家の使用人たちの管理ってユルユルよね。高位貴族の家なのに、雇用の時に使用人の身元確認をしないのだから。おかげでスンナリと私がメイドになれたけど」
「ありがとう、ルーナ」
パンを受け取りつつステラが眉をさげる。
「ごめんなさいね、ルーナはシルヴィア伯爵夫人なのに。瞳の色を隠すために眼鏡をかけて髪も染めてお化粧で顔の印象を変えて、メイドの仕事をすることになってしまうなんて……」
「気にしないで。自分で決めたことよ。この侯爵家、胸糞悪いのだもの。ステラの持参金を取り上げて、逃げられないように部屋に監禁するなんて下衆の極みだわ。こんな場所にステラを一人にはできない。シルヴィア伯爵である夫も応援してくれているし、家でメイドたちにメイドの仕事の特訓をしてもらったし。万が一を想定して護衛も侯爵家に入り込んでいるから助けてもらえるし。だいたいこの侯爵家って、侯爵夫人であるステラを侮辱しすぎだわ。ラヴァン伯爵家であったならばお母様が激怒して使用人たちは即刻ムチ打ちにして解雇よ」
ルーナが可愛らしく鼻を鳴らす。
「侯爵自身もステラとの婚約時代から態度が最悪だったけど、案じていた通り結婚したら最低になるんだもの。本当にクズ」
ふーっ、と怒りの感情を制御するように息を吐いて、ルーナが薄く微笑んだ。
「お母様からの連絡よ」
ルーナがステラの耳元で蚕が静かに糸を吐くようにヒソリと囁く。
「セラステス侯爵家の親戚の筆頭となるグレードス伯爵と手を結ぶことができたわ。お母様が伯爵夫人と親しかったの。伯爵も平民に夢中で領地経営を疎かにしている侯爵に見切りをつけようと考えていたらしいのよ。本家が傾けば、親戚も巻き添えになるものね。ましてや何か不手際があれば一族連座は当たり前、伯爵としても早めに対策を講じておきたかったみたいよ」
「他国で白い結婚をして妻を虐げていた伯爵家、え~とマイロス伯爵だったかしらが没落した話が最近流れてきて社交界で話題になったばかりだものね。なのに、この家の侯爵も白い結婚を宣言した。親族だって危機感で冷や汗を垂らすレベルよ、同じ過ちが心配だもの」
「侯爵は愚かよね。根拠もなく自分は大丈夫と自信を持つタイプだわ」
ルーナとステラのくりくりと丸い猫目が煌めく。ヘーゼルにグリーンやイエローが混ざったグラデーションが魅力的な瞳であった。
「侯爵って何でも望み通りに生きてきて、生きて来られてしまった貴族の典型よね」
「マイロス伯爵家は夫人の貴族籍を奪って平民の愛人に成り代わりをさせていたらしいでしょう? 自分は妻と白い結婚をして部屋に閉じこめているだけだから罪にはならないと侯爵は考えているみたいよ」
「そうね、白い結婚だけならば家の問題だから公的には罰にはならないもの。貴族家は家長の権限が強いから家長が決定したことには従うしかないし、ましてや家と家での契約で家長同士が納得しての白い結婚であるならば尚更に。でも、私は白い結婚とは知らなかった。そんな契約をお父様がしていたなんて。侯爵も神様と参列者たちの前で愛を誓ったのに、これは詐欺だわ」
「侯爵って若くで美しくて教養があって。でも、頭のいいバカだよね。罰せられないならば罰せられるように罪を作ればいいのよ。慢心していて、足をすくわれるなんて貴族の社会では有りふれた話なのに」
くふふ、ルーナが笑う。
「弱い者は歯向かわない、って貴族の傲慢よ。弱い者には弱い者の戦い方があるわ」
ジャンジャンジャン!
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 今日は『とある侯爵家の白い結婚』の2日目だよ。不幸な白い結婚をしたレリーヌの初夜の翌日の話だよ〜。なんと、なんと、夫の侯爵は初夜もせずに放置して、使用人にレリーヌを自室に閉じ込めるように命令を出したんだ〜」
弁士の口上は絶好調である。
昨日の『とある侯爵家の白い結婚』の1日目の寸劇が人気となって、見物料の計上が過去最高であったのでホクホクしているのだ。路上の短い劇なので見物料は芸人によって異なるが銅貨1枚から高くて5枚である。好評な劇は1日に何度も同じ内容を繰り返して公演するのだ。利益は少ないが多くの人に頻繁に見てもらって売上とするのである。
「夫の侯爵がそんな態度だから使用人もレリーヌを嘲笑って見下すんだ〜。死体蹴りだよね~。それで哀れなレリーヌは〜」
ガシャン。
「お食事です」
メイドが乱暴にトレーを床に置く。犬の餌のように。しかもトレーにのっているのは少量のスープとカビたパンが1個である。
「ひどい……」
「その食事、今日の1日分ですから」
「え……?」
「こっちは忙しいんです。侯爵夫人の役目すら果たせない役立たずの世話なんてする暇はないんですよ」
レリーヌの顔が羞恥で歪む。初夜のことをメイドまでもが知っているのかと思うと胸が苦しくていたたまれなかった。
「窓も扉も鍵がかかっていますから。逃げ出そうなんて無駄なことはしないでくださいよ」
バタン、と扉が荒々しく閉まった。
「うっ、うっ、うっ……」
頬に涙が伝った。
儚さアゲアゲのレリーヌ役の女優は、ガラス細工のように脆く壊れそうな表情で涙を流す。劇の中のレリーヌは弱くて無力であることが役割なので、間違っても拳を振り上げることはしない。泣く役が得意の女優にとって当たり役なのである。
か弱さがフィーバーしているので観客は哀憫の気持ちが抑えきれなくなって、すでにハンカチを握りしめている女性客もいた。
「お母様……、助けて……」
実家の伯爵家では、母親が屋敷をきちんと管理していたので主人家族を蔑ろに扱う使用人など一人もいなかった。
しかし侯爵家では、主人の侯爵が平民の愛人の虜となって屋敷の管理を疎かにしているので、務めを怠る使用人が横行していた。そもそも代理で家政を預かる使用人が屋敷の維持・生計費を横領しており、主人に忠実に仕えていないことにも原因があった。
主人がボンクラならば使用人もガラクタという見本みたいな屋敷なのだ。砂上の楼閣のごとく。見た目は立派でも基盤はグラグラな屋敷であった。
「ね、見た? 泣いていたわよ」
「見た、見た。おもしろかったわ」
「もっと虐めようよ。閉じ込められているから誰にも告げ口をできないし」
「肝心の夫に訴えることさえできないんだもんね」
「アハハ。夫に愛されない妻は惨めよね」
メイドたちがレリーヌを嘲笑する。
キャハハハハ、とメイド役の女優たちの笑い声が流れると観客たちが罵声を上げた。
「ひでぇ!」
「レリーヌ様がかわいそうだわ!」
「デルグトスって侯爵、最低な男だ!」
「どうなるのかしら、レリーヌ様。まだ結婚2日目なのに屋敷で虐待されて!」
「……なぁ、なぁ。最近さ結婚した貴族って、あそこだろ?」
「……あそこも侯爵家だし、あそこだと思う」
「……だよな。あそこ、確か数日前に結婚していたし。この劇の題名も『とある侯爵家の白い結婚』だし」
ジャンジャンジャン!
弁士が弦楽器を勢いよく弾く。
「さぁ、さぁ! 続きはまた明日だよ〜。皆の衆、哀れなレリーヌの物語を明日も見にきておくれ〜」
作中のマイロス伯爵家は、「ナイショで離婚しましたので、白い結婚が崩壊しました」のマイロス伯爵家です。
読んでいただき、ありがとうございました。




