最終話「水路の記録」
[Audit] 王都水路ログ監査/[BellSpec] v1.0 採択/[Closure] “他”の縁取りと引き継ぎ
王都の朝は、石の匂いが冷たい。
記録域は浅く開き、紅茶の香りが針の先ほど近い。
俺たちは水路局の地下へ降りた。湿った階段、古い規格札、銅のバルブ。
ミナ、セィラ、星印の二人、そして水路局の老監督。
他の匂いは、昨夜より濃い。油ではない。無臭に近い“仕様嫌い”。
〈水路ノード:首都幹線A〉
流量ログ:欠損 17%(夜間)
弁規格:旧式 v0.7(記録札なし)
異常:逆位相の脈動/街区Bで濁り
推定:深層からの“無名パッチ”介入
「可視化で行く」
俺はSpec-Boardを蒸気管脇に立て、“今日の手順”を書いた。
《水路監査 手順(公開)》
BellSpec二打→冬至シフト(水版)+0.03
幹線Aの可視窓設置(透明板×3/光糸)
ログ同期:水位・流量・濁度→共同監査
弁交換(旧 v0.7 → 新 v1.0/記録札義務)
他の介入パターン採取(名前がないなら、形で記録)
セィラが小鐘を二打。地上の鐘楼と耳印が繋がり、地下でも微音が返る。
透明板を三枚据えると、水の糸が薄く縁取られ、脈動の逆位相が目に見えた。
「見える」
老監督が息を呑んだ。
ミナは頷き、星印に合図する。
アサは濁度の目盛りを書き、ベンは脈動に耳を当てる。
BellSpecの舞台時の規格に合わせ、地上の広場では震度板と同じ形の水度板が設置され、集まった市民が見える位置に立った。
「弁、開けるよ」
ガロのいない地下で、老監督が代わりに楔を回す。
旧式 v0.7 の弁が泣く音を立て、無名パッチの脈が揺れた——逆に強く。
〈警告:深層介入 強度↑〉
〈症状:逆位相を増幅/可視窓の縁にノイズ〉
〈推奨:BellSpec拡張——水路用“水鐘”の導入〉
「鐘を“水”に写す。BellSpec v1.0、ここで上げる」
セィラが頷き、俺はSpec-Boardに書く。
《BellSpec v1.0(拡張:水鐘)》
・一打=水位調整/二打=位相補正/三打=濁り緊急公開
・水鐘:水路局に小鐘設置(耳印付)
・震度→水度:透明板の青糸で表示
・公開:地上の掲示板に水度を同時投影
・ChangeLog:水路の意味変更は共同監査・王都掲示へ
小鐘が二打。
青糸がふっと揃い、逆位相が薄まる。
無名の手が、わずかに迷う。
「ここだ」
俺は胸の奥に指をかけ、寿命を削らない範囲で匂いを一滴だけ染める。
茶蒸気。
記録者の鍵へ通じる、温い媒介を水面に落とす。
〈媒介:茶蒸気→記録域浅層 同期〉
〈効果:無名パッチの形を抽出(輪郭)〉
〈持続:60秒〉
青糸の上に、形が出た。
名はない。
けれど、動作はある。
増幅→迂回→無効化のサイクル。
嫌うのは“手順の共有”。
好むのは“影響だけの上書き”。
「——記名できないなら、形で記録する」
ミナが地上の水度板に向けて言う。
広場の人々が頷き、筆を取る。
BellSpecの端に“無名形状A”が描かれ、ChangeLogへ番号が刻まれた。
・無名形状A:増幅→迂回→無効化(共有拒否)
「弁、新へ」
老監督が頷き、俺が刻んだ記録札つき v1.0 弁を嵌める。
刻印:製作所/焼成温度/交換予定日/耳印。
青糸が、静かにそろった。
濁りは退く。
地上の水度が下り坂を描き、拍手が地下に降ってきた。
〈適用:弁 v1.0/BellSpec v1.0(拡張)〉
〈同期:共同監査/王都掲示〉
〈“無名形状A”:採取 成功〉
他は、撃たない。
嫌いの形が可視になれば、威力は半分だ。
◇
地上へ戻ると、英雄伝達 v4.1(草案)の検討印が採用印に変わっていた。
功績配分も、わずかな修正の末に通る。
ヴァルドは総和の笑みを崩さず、台帳の枠に番号を書き加えた。
看板は看板として残り、中身は可視で続く。
セィラはBellSpec v1.0の紙に署名し、鐘楼の足元に震度板が固定された。
ミナは王都の水路図の端に耳印を描き、星印の二人が子ども枠の第一号として小さなサインを書いた。
「——留守番仕様 v1.0、王都にも置く」
「置こう」
俺はSpec-Boardの最下段に、最後の引き継ぎを書いた。
《引き継ぎ:現場仕様》
・公開の原則(隣に立つ)
・BellSpec v1.0(鐘/水鐘)
・ChangeLog(番号で話す)
・共同監査(署名で守る)
・耳印(音で見る)
・星印(子ども代表)
・無名形状の記録(名前がなくても、形で残す)
字を書きながら、胸の奥でノイズが一度だけ強くなった。
代償は、今日も削れている。
紅茶の香りは、もう——目の前。
そっと顔を上げると、広場の片隅に、あの古いカップ。
記録者の螺旋と羽根。
その横に、湯気の立つ新しいカップが置かれていた。
誰の手でもない、現場の手——たぶん、皆の手。
「——飲む?」
ミナが笑う。
俺は頷き、紅茶を口に含む。
温度と、苦みと、甘さ。
そして、少しだけ戻る輪郭。
誰と飲んだかの固有名は帰らない。
けれど、いまここの名前は増えた。
ミナ、セィラ、ガロ、アサ、ベン。
王都の水路局の老監督。
広場の子どもたち。
総和の英雄たち。
カップを置き、俺はChangeLogの末尾に最後の一行を書いた。
・終端仕様:現場に委ねる。公開で、可視で、継続で。
鐘が一打。
議題は、日常へ転換する。
弓の匂いはなく、水は澄み、パンの基準香が王都の風に混じる。
他は、形として残り、可視化の中で小さくなる。
俺はSpec-Boardを星印の二人へ渡した。
アサが抱え、ベンが紐を肩に回す。
看板は、現場の肩にあるのが似合う。
「行くの?」
ミナが訊く。
俺は笑って、首を横に振った。
「行かない。
——来るのを、待つ。現場で」
セィラが目を細めて頷く。
「呼ぶよ。仕様が必要な場所から」
それでいい。
仕様は、呼ばれたところで隣に立てばいい。
空が高い。
鐘の耳印が、微かに鳴る。
記録者の螺旋と羽根は、浅層で静かに光り、深層は遠くで眠る。
世界は、公開と可視と継続で、少しずつ動く。
俺は胸の奥で、最後のセッションを閉じた。
〈最終セッション終了:水路監査/BellSpec v1.0 採択/“無名形状A”記録〉
〈引き継ぎ:現場仕様へ/総和の英雄譚 記名〉
〈状態:継続〉
――――
完