第1話「追放ログ」
[再現手順] 追放/[環境] 辺境の仕様/[Hotfix] 井戸
追放の印は、冷えた鉄の輪郭で皮膚に沈んだ。
ギルドの石壁に反響する声は驚くほど淡々としていて、事件のログの最終行みたいに、音だけが静かに終了を告げる。
「決定。リオ=アーデン、勇者一行および中央ギルド支援班から除籍。理由は──」
読み上げ役の書記官は、紙をめくる指を止めずに続ける。
「功績の不明瞭、報告書の冗長、実戦における戦果の欠如」
ざわ、と端で笑いが起こった。
ヴァルド──いまや“勇者”の呼称で呼ばれる男は、口の端を気取って引き上げ、肩越しに視線を投げてきた。
「仕方ないよな。攻撃も回復もできないと、足を引っ張る」
俺は何も言わなかった。代わりに、胸の奥に薄く浮いたウィンドウを閉じる。
〈通知:所属タグ “勇者補助班/環境最適化” を剥奪〉
〈権限:王都中央ギルド回線へのアクセスを制限〉
〈備考:退職金 0/審査完了〉
それで全部だ。
俺の職業は【デバッガー】。この世界の裏側──法則や確率、環境の閾値に生じた“ほころび”を見つけ、修正する裏方の仕事。
派手じゃない。だが、街道の遭遇率が抑えられて商人が通れるのも、井戸の濁りが一定で止まって疫病が広がらないのも、氾濫する魔物の産卵周期が落ち着くのも、誰かが裏で“正しい動作”に寄せているからだ。
「リオ」
副隊の女魔法士が一瞬だけ目を伏せ、何か言いかけてやめた。
俺は微笑みに見えない程度の笑みを浮かべ、軽く会釈して、ギルドを出た。
◇
辺境までの街道は、憔悴した色をしていた。
木々の葉は鈍い緑のまま風に揺れ、道の縁の砂利は雨に抉れて穴を作り、そこに濁った水が溜まっている。
脳裏のログが騒ぐ。
視界の端に半透明の注釈がポップアップしては、消える。
〈街道ノード:メンテ周期 180日 → 720日(設定値不正)〉
〈ドロップテーブル:雑魚魔物の出現確率 2.4 倍/商人遭遇率 0.3 倍〉
〈水脈:乱数揺らぎ係数 1.7(閾値超過)〉
追放された俺に、王都へ戻る家はない。
足は自然と、最後に受けた辺境派遣の村へ向いた。
ここの“仕様”は壊れている。直せそうなものが、いくらでも転がっている。
裏方は、仕事がなくなると死ぬのだ。
村の入口に小さな木の門が見えた。門と呼ぶには頼りない、二本の柱に横木を渡しただけのそれ。
門の陰で見張りをしている青年が、俺を見るなり目を細め、慌てて駆け寄る。
「リオさん! 本当に戻って──」
そこまで言って、彼は言葉を飲んだ。俺の胸元の、追放の印を見つけたのだろう。
その表情には哀れみも、軽蔑もなかった。ただ、心配があった。
「どうした」
「……井戸が、死んじまったんです」
青年は唇を噛み、広場の方角をあごで示した。
視界に、赤いエラー表示が一瞬、走る。
〈警告:共同井戸 “ソース#3” の水質指標 臨界〉
〈症状:濁度上昇/腐臭/微生体の異常繁殖〉
〈原因候補:水脈ノードの乱数揺らぎ/衛生プロトコル破損/供物儀式の手順逸脱〉
「見せて」
青年の背中を追い、村の中心の広場へ走った。
井戸は石組みの上に木蓋がかけられている。蓋の隙間から、ぬるい腐臭が漏れた。
周りに集まった村人の顔は青ざめ、二人の母親が桶を抱いて立ち尽くしている。彼女らの目の下には泣き腫らした跡。
「領主代理様を呼んでこい!」
「いや、その……お忙しくて……」
誰かの呟きが耳に入る前に、俺は蓋に手をかけた。
ぎ、と古い木が鳴る。
鼻を刺す臭い。黒い藻が表面に浮き、底の方で泡が弾けた。
「危ないよ!」
「触るな、毒だ!」
叫び声を、軽く手で制す。
俺はゆっくりと目を閉じ、井戸の上に指先をかざした。
「再現手順は?」
呟く。問いは自分自身に向けたものだ。
ウィンドウが静かに開く。
〈事象:共同井戸の汚染が進行し飲用不可〉
〈再現手順:
1. 供物儀式の簡略化(司祭不在)
2. 乾季の長期化(気候プロトコル調整不足)
3. 上流の土壌流出(治山施策未実装)〉
手早く、しかし慎重に。
俺は井戸の縁に刻まれた古い術式に触れ、そこに“差分”を書き込んでいく。
〈衛生プロトコル v0.9.2 → v0.9.3〉
〈変更点:
- 水脈ノードの乱数揺らぎ係数 1.7 → 1.2(β)
- 微生体増殖制御フラグを再起動
- 儀式簡略化による負債を、地域通貨“祝言”で一時補填〉
もちろん、即時修正は副作用の温床だ。
恒久修正は儀式や手順を踏んで、検証して、はじめて適用できる。
今は“ホットフィックス”。あくまで応急処置。
「Hotfix、当てる」
井戸の口に、薄い光が落ちていった。
次の瞬間、俺のこめかみの奥に、冷たい指で撫でられるような痛みが走る。
〈コスト徴収:寿命 2 日分/記憶断片 0.1%〉
記憶のどこかがざらりと削れ、遠い誰かの笑顔がぶれて見えなくなる。
けれど、目の前で、別の何かが鮮明になる。
水が、動いた。
底から澄んだ流れが立ち上がり、表面を満たす黒い藻を、静かに押しのける。
腐臭が、薄くなる。
母親のひとりが、信じられない、といった顔で桶を差し出した。俺はうなずき、桶を浸すのを手伝う。
桶が上がり、光を受けて水面がきらめいた。
「……透き通ってる」
誰かが、そう言った。
広場のざわめきが変わる。
不安と怯えでざらついていた音が、驚きと期待の柔らかさへと、ほんの少しだけ質を変えた。
「飲む前に、煮沸を。今日はこれで凌いで。恒久修正は、明日やる」
言いながら、俺は蓋をもう一度かけ、手のひらをそこに置く。
冷えた木の質感が、心を落ち着けた。
「あなたが……やったの?」
背中に声が落ちた。
振り向くと、革のジャケットにズボン、髪をひとつにまとめた女が立っていた。
鋭い目だが、人を値踏みする冷たさではない。実務の現場で鍛えられた、短く的確な視線。
彼女は人垣をかき分けると、躊躇せず井戸の縁に手を置いた。
「ミナ=ロウ。辺境領の代理を務めてる。あなたは──」
「リオ。職はデバッガー」
「噂は聞いていた。世界の“裏側”を触る、と」
ミナは短く頷き、周りに指示を飛ばし始める。
「飲用は煮沸必須! 子どもと病人を優先! 今日の夕方、広場で説明会をする! ──あなたも来て」
「わかった」
実務が早い人は、好きだ。
俺は息を整えながら、広場の端に退いた。
人々の視線が、露骨に変わる。
信じたい気持ちに、疑いと恐れがまだ縫い付けられているが、それでもさっきまでの絶望の色ではない。
ふと、脳裏にノイズが走る。
白い木漏れ日の中で、湯気の立つカップを差し出す、誰かの手。
温かい紅茶の香り。
……思い出せない。顔が、霞んでいる。
俺はこめかみを押さえ、深呼吸をひとつ。
〈副作用監視:軽度の記憶欠落(経過観察)〉
「大丈夫?」
ミナが戻ってきて、訝しげに眉を寄せた。
「平気。修正のコストで、ちょっと」
「コスト?」
「寿命か、記憶の断片」
ミナの目が、わずかに見開かれる。
彼女は言葉を選ぶように一拍置いてから、静かに頷いた。
「……ありがとう。払わなくていいものまで、払わせてしまっているかもしれない」
「選んで、やってる。俺の仕事だから」
「その仕事、まだある?」
「次から次へと、ね」
二人で井戸から離れ、村の外れへ歩く。
風に乗って、酸っぱい匂いが流れてきた。
「穀倉?」
「カビ。冬が越せない」
ミナの顔に一瞬、疲れが滲む。
俺は頷き、足を速めた。
◇
穀倉は、川沿いの低い土地にあった。木の壁板は湿気を含み、黒い点々が広がっている。
扉を開けると、むっとした空気に鼻孔がつんとした。
袋の表面に斑点、積み上げた隙間に白い綿のようなもの。
ログが溢れ出す。
〈倉庫ノード:換気プロトコル停止/乾燥フラグ偽〉
〈収納:麦袋配置が非最適(間隔不足/床直置き)〉
〈川沿い:洪水時の逆流チェック無効〉
「これは、すぐの恒久修正が必要。Hotfixで“匂い”だけ誤魔化すと、もっと悪くなる」
「何をすればいい?」
「倉庫の床を浮かせる。下に乾燥風を通すための“風道”を刻む。袋の配置を見直して、間隔をあける。……治具が要るな」
「大工のガロがいる。呼ぼう」
ミナが合図を飛ばすと、ほどなく太い腕の男が現れた。
髭を生やし、いかにも木と鉄の匂いをまとった男だ。俺を見る目は用心深く、しかし、仕事に対しては素直そうだ。
「デバッガー、ってやつか。木は魔法みたいに瞬時には動かねえが、段取り次第で速くできる」
「なら、仕様の共有から」
俺は倉庫の床に膝をつき、木炭で簡単な図面を描いた。
床下に“風の道”を通すための溝、袋同士の間隔、壁面に開ける吸排気の孔、その孔に取り付ける簡易の“風向板”。
ガロは唸りながら見て、二度、三度と頷く。
「やれる。材料はある。人手は……なあ、ミナ」
「出す。今日中に、最低限のラインまで」
段取りが決まると、現場は一気に動き出した。
若い男たちが板を外し、女たちが袋を運び出し、子どもたちが小さな手で釘を運ぶ。
俺はログのオーバーレイを見ながら、指示を飛ばす。
「その間隔をもう一握り広く。……いい。吸気孔は川上側に、排気は川下側。風向板は斜め四十五度──そう、それ」
汗が背中を伝う。
手を止めない。
世界は、手を止めると元に戻ろうとする。
〈環境パラメータ:倉庫内湿度 88% → 73%〉
〈微生体増殖指数:低下傾向(予測 12 時間後 安定圏)〉
数字が落ち着いていくのを確認して、俺は少しだけ息を吐いた。
ミナが水を差し出してくれる。
井戸の水だ。
湯気は立っていないが、鍋の跡がある。煮沸してくれたのだろう。
口に含むと、さっきの腐臭はもうない。
冷たさが喉を落ちていく。
「ありがとう」
「こちらこそ」
短い会話の間にも、ガロの手は止まらない。
木槌が小気味よく響き、風の道が倉庫の下を走り始める。
俺は最後に、倉庫の梁に手を置き、目を閉じた。
〈恒久修正:倉庫換気プロトコル v1.0.0 導入〉
〈条件:
- 風道の清掃を週一で(作業者指定:交代制)
- 収穫時の乾燥儀式(省略可だが、代替タスク“火の見回り”を追加)
- 洪水時の逆流チェックを自動化(警鐘音の設定)〉
「コミット」
指先で、透明な封印に印を押す。
淡い響きが梁の中に消えた。
〈適用成功/リスク:低〉
「これで、冬越えの見込みが少し、戻った」
ミナの声に、広場の向こうから小さな歓声が上がった。
さっきの母親たちが、穀倉の前まで来て、子どもを抱きしめている。
泣いてはいない。涙は、たぶんさっき全部流し切ったのだ。
彼女らの頬の色が少し戻っているのを見て、俺はようやく肩の力を抜いた。
◇
夕刻、広場の中央に長机が出され、村の者たちが集まった。
ミナは簡潔に状況を説明し、これからの作業の分担と、儀式の省略と代替の意味を伝える。
俺は横で、必要なときだけ補足した。
「“儀式をやらないと罰が当たる”って言い伝えは、半分は本当、半分は嘘。罰は“欠けた作業”が巡り巡って出す不具合の別名。省くなら、別の形で手間を払ってください。人の手でね」
ざわめきの中に、納得のため息が混じる。
世界の裏側の話は、言葉だけだと胡散臭い。だから、目の前の変化で示す。
井戸の水。倉庫の匂い。風が通る音。
気づけば空は茜色に染まり、鳥がいつもより低い位置を飛んでいる。
説明会が一段落すると、ミナがこちらに近づいてきた。
「明日、税の件で話がある。王都の役人が、意図的に“バグ”を作ってる。証拠は薄いけど、匂いがする」
「匂い?」
「金と権力の匂い。あなたが裏側を見られるなら、見てほしい」
俺は頷いた。
その瞬間、広場の端から馬のいななきが上がり、伝令が駆け込んできた。
泥にまみれた若者が息を切らして叫ぶ。
「商隊が──! 街道で、魔物の群れに囲まれた! 大きいのが混じってる!」
ミナは即座に顔を上げ、人々に指示を飛ばした。
「男手は槍! 女手は子どもを集会所へ! ガロ、柵を! ──リオ!」
「遭遇率の地図、出せる。あと十五分、持ちこたえて」
俺は胸の奥で回線を開き、街道のノードにアクセスする。
半透明の地図が視界いっぱいに広がった。
遭遇率の赤い帯が、川沿いで波打っている。
そこに、商隊のアイコン。点滅する救難信号。
〈街道ノード:遭遇率 160%(上振れ)〉
〈群れ構成:灰狼×14/岩猪×3/変異種“大角”×1〉
〈救助推定成功率:初期値 42%〉
このままでは、間に合わない可能性が高い。
喉の奥が乾く。
熱に浮かされたみたいに、世界が透明になっていく。
「Hotfixで片側の群れの注意を逸らす。風と匂い。……ただ、コストが重い」
ミナが俺をまっすぐに見る。
迷いのない目だった。
「払うべきなら、払う。ここは、私の領だ」
俺は頷き、指先を空に走らせる。
〈一時修正:街道遭遇率補正 “風下フェーズシフト” 適用〉
〈効果:対象エリアの匂い流向を 90 秒間 180 度反転/狼群の注意を森側へ誘導〉
〈リスク:反動で逆側の遭遇率が一時的に上昇〉
〈コスト:寿命 3 日分/記憶断片 0.5%〉
「行く」
光が、風に変わった。
草が逆さに揺れ、狼の鼻先がぴくりと動き、群れの半分が森の影へ流れる。
商隊の進路に、細いが確かな“空き”が生まれた。
〈救助推定成功率:42% → 68% → 74%〉
ミナが槍を握った男たちとともに駆けだす。
ガロが柵の扉を開け放ち、背中で「戻ったら締めろ!」と怒鳴る。
俺は広場の真ん中に立ち、世界の縫い目に指をかけたまま、呼吸を整える。
遠くで、金属が打ち合う音。
誰かの叫び。
風の音が、耳の形を変える。
時間が伸び、そして、突然、戻った。
馬の蹄の音。
荷車の軋む音。
歓声。
商隊が、帰ってきた。
ミナの頬に、泥の筋。
彼女は笑った。
短く、強く。
救い上げられた子どもが母親の胸に飛び込み、母親の腕が子どもを包む。
俺はゆっくりと手を下ろした。
〈コスト徴収完了:総寿命 5 日分/記憶断片 合計 0.6%〉
〈副作用:軽度の味覚ノイズ/特定記憶の曖昧化〉
紅茶の香りが、また遠ざかる。
苦笑いが喉の奥で転がり、消えた。
「……裏方は、こういう時のためにいる」
独り言は、誰にも届かない程度の音量で。
でも、耳のいい人には届いたのだろう。
ミナがこちらを見て、短く頷いた。
「明日、恒久修正の準備をしよう。井戸も、倉庫も、街道も──そして税だ」
「ああ」
空には早い星がひとつ光り、村には灯が点る。
この夜を越えれば、少しだけ“正しい動作”に近づく。
そう思える夜が、辺境にもある。
俺は胸の奥で静かにログを閉じた。
〈セッション終了:辺境村 “ラデル”/達成:井戸 v0.9.3 Hotfix/倉庫 v1.0.0 恒久/街道一時回避〉
〈次回タスク:井戸の恒久修正/税のバグ調査〉
――――
後書き(次回予告)
次回は〈井戸の恒久修正〉と〈税のバグ〉の一次調査に入ります。裏側の“仕様書”を暴こう。
面白かったらブクマ・★評価・感想で“次の修正の燃料”をください! 次回は〈税のバグ〉にパッチを当てます。