Plus Extra : 宰相感懐録。4
ルカイア視点です。
リリが産気づき、子が産まれそうだと知らせを受けたとき、ルカイアは平素と変わらぬ執務の中にあった。
「行かねぇのか?」
訊いてきたのは、幼馴染でありサライの騎士であるジークフリート・レイル・カリステルだった。
「安産だろうというのは、エーヴィエルハルトから聞いています。とくに心配する必要はないと思いますが?」
「おまえ……それでも旦那かよ」
「行ったら行ったで、逆に驚かせて出産の邪魔になるだけでしょうし、行かなければそれで、文句を言うでしょうね」
「え? どうすりゃいいんだ?」
ルカイアの代わりに悩むあたり、ジークフリートに交渉術は向かないなと思う。
「産まれる頃に行けばいいだけですよ」
「……それでいいのか?」
「中途半端な頃合いですからね。驚く暇もなければ、文句を言う暇もありません」
「なるほど」
だいたい、産気づいて産まれそうでも、かなり時間をかけて子どもは産まれるものだ。数時間も前から動く必要はない。安産だとわかっていればなおのこと、たとえ難産であっても、そのときはラクウィルあたりが慌てて飛んでくるだろう。ルカイアが行ってどうにかなるものでもないが、それは産まれるとわかっている今でも同じだ。
「行ったほうがよいのではないか、ルカ?」
机に向かって筆を走らせていたサライが、心配げな顔でそう言ってきた。
「驚かせて難産にさせよとお命じならば、行きましょう」
「そ! そう捉えるのか、おまえは……」
ルカイアがそう捉えるのではなく、周りがルカイアの印象からそう結論づけるのだ。慌てるさまでも見たいのだろうが、無理な話である。
「わたしの子であることをお忘れなく」
「いや、それはわかっているが……」
「妻はそれほど弱くありませんよ」
「だが、不安はあるだろう?」
「わたしにはありませんね。わたしと妻の子ですから」
「おまえはそれでよいかもしれんが……」
妻を想うなら行け、ということらしいが、ルカイアからしてみればリリを想うからこそ行かないだけだ。たぶん、本当に、ふつうに驚くだろうから、それで邪魔するほうが危険だと考えている。
だからルカイアは、子が産まれるというぎりぎりの時間まで、仕事に専念した。
サライが出してくれた車が、邸の前で止まる。わざわざ車を出してくれたことに礼を言って邸に入ると、駆けつけていたアイゼン夫妻に真っ先に「遅い!」とやはり怒鳴られたが、すぐにサリヴァンが駆けつけてきて、ルカイアを引っ張っていく。
「そばにいてやれ」
それだけ言うと、ある部屋の前にルカイアを放置すると、自分はその隣の部屋に消えた。
少しして、瞬間的に空気が張り詰めた。
それに気づいたときには、耳を劈く鳴き声を聞いていた。
「……産まれましたね」
知らず、ほっと息をついていた。張り詰めていた空気も和らいぎ、漸く人の声らしきものも聞こえてきたとき、ルカイアはどうやら自分がかなり緊張していたらしいと知った。
がちゃ、と部屋の扉が開いたとき、そこから顔を出したのはリリが教育している娘だった。
「宰相閣下……っ」
「無事に産まれたようですね」
「は、はい! 男の子です!」
「そうですか……どうぞ、サリヴァンさまにも伝えてきてください。わたしが中に入ることは許されていますか?」
「ぜひ、どうぞ!」
「ありがとうございます」
娘が開けた扉を抜けると、見憶えのある顔が二つほどあった。医師のエーヴィエルハルト、その妻で薬師のテューリだ。もうひとり医師がいたが、その顔に見憶えはなく、ルカイアは三人に目礼すると寝台に歩み寄った。
「リリ」
声をかけると、汗で全身を湿らせたわが妻は、薄っすらと目を開けた。
「る、か……さま」
「お疲れさまでした」
そっと頬を撫でてやれば、リリはくすぐったそうに笑う。
傍らに腰かけて労ってやりながらゆっくりと撫でていると、「宰相閣下」と呼ばれた。
「閣下、御子息さまです。おめでとうございます」
エーヴィエルハルトが両腕に抱えているのは、とても小さな命。
ルカイアは立ち上がり、エーヴィエルハルトから小さな命を預かった。両腕にかかる僅かな重みに、目を細める。
これが、わたしの子か、と思った。
これが、リリの子か、と思った。
胸に渦巻くのは、言いようのない柔らかなもの。くすぐったいような、暖かいもの。
「ルカさま……」
「ええ、リリ」
わが子を抱え直し、ルカイアはリリの傍らに戻る。わが子を間に寝かせると、小さな手のひらが宙をさまよった。手を伸ばしてその小さな手のひらに掴ませると、ほんのりとしたぬくもりが伝わってきた。
「ルカさま、この子に……」
「ノアウル」
「え……?」
「ノアウル・ウェル・ラッセ。それがこの子の名です」
「……ノアウル」
嬉しそうにわが子、ノアウルを見つめるリリに、ルカイアも頬を緩める。全身を支配していた緊張も、このとき漸く解けた。
「ところでリリ」
「あ、はい?」
「わたしは娘が欲しかったのですが」
「え……」
「仕方ありません……次は女の子にしてください」
言葉もなく顔を引き攣らせたリリに、ルカイアは笑みを深めて、わが子ノアウルごと両腕に抱き込んだ。
耳許で囁いた言葉にリリが気絶しかけるのと、ノアウルが空腹から泣き出すのは、同時だった。
* *
たまには休みを取れ、と言われて無理やり休日にされたその日、けっきょく城から使いの者が来て、紙の束を渡された。それを一枚一枚確認していると、背中が急に重くなる。ついで胸のあたりも重くなる。
「どきなさい、ノア。邪魔です。カルアも真似しないでください」
と叱ってみるが、無言のわが子たちは離れようとしない。ぶらぶらと、ルカイアにぶら下がったまま、自分たちに目もくれない父親で遊んでいる。
最近は家にいると、こうしてわが子たちが張りついてくる。邪魔だといってもなにをしても離れずぶら下がっているので、疲れるまでは仕方ないので放置することにしていた。歩くときには邪魔であるが、おかげで慣れてしまった。
今日も今日とてわが子たちをぶら下げながら、ルカイアは家にまで来た仕事を片づける。半分ほど片づけると、それを使いに渡した。
使いを帰らせるとすぐ、アイゼン夫妻がサリヴァンの来訪を知らせてくる。
「相変わらず面白いことになっている」
と、笑いながら顔を出したサリヴァンは、その腕に二歳になったばかりの息子を抱えていた。護衛についている騎士はラクウィルではなく、ナイレンとユグドだ。しかもユグドのほうまで息子を連れていたので、一気に子どもの密度が高まる。
「ほら子どもたち、おれが遊んでやるぞ」
「殿下」
「いいから」
おそらくはそれなりに仕事の用事があって訪れたのだろうサリヴァンは、しかしルカイアに張りついていた子どもたちと、わが子、そして年長者ユグドの息子を引き攣れて庭に出てしまった。本当ならサリヴァンの身分を考えて行動させるべきなのだが、サリヴァン自身が子どもたちをかまいたくて寄って行くので、なにも言えないルカイアだ。
「なぜあなたまで子どもを連れてくるのですか」
ため息をつきながら、目は庭先に向けつつ、ユグドに呆れる。
「たまたまですが」
「狙ったかのように感じますよ」
「最近はラクウィルに剣の指導をさせていますから、あれはその生徒のひとりです」
「……そのうちわたしも世話になりそうですね、ラクウィルに」
目を細めて、サリヴァンに遊んでもらっているわが子ノアウルを見つめる。
このところ、ノアウルにはある兆候が見られていた。
「天恵者ですね、閣下の御子息」
「……ええ、どうやらそのようです」
ノアウルは、サリヴァンの息子を小さいながらも抱えて、にこにこしている。けれどもそこに混じる空気には、子どもらしからぬ警戒心があった。まるでサリヴァンの息子を護っているかのように、ルカイアには見える。それは騎士たちにも感じることのようだった。
「よもやわが愚息が、皇族をお護りする役目を拝命しようとは、思ってもみませんでしたよ」
「では、やはり……」
「明確なことではありませんがね」
そう、これはあくまで可能性だ。だからラクウィルに、世話を頼むことになるだろう。
新しい時代が育ち始めた。
そう思いながら、ルカイアはサリヴァンと遊ぶ子どもたちを、ただゆったりと眺めた。
Plus Extra『宰相感懐録。』はこれにて終幕します。
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読んでくださりありがとうございました。