Plus Extra : 宰相感懐録。2
ルカイア視点です。
失敗した、とルカイアが己れの判断に誤りを見つけたのは、サリヴァンが城を飛び出し、しかしサグザイール公爵の策によって邸に招くことができ、少し経ったときのことである。
サリヴァンが去った城は、すぐさまサライが入ったことで然したる混乱は起きなかったのだが、それでも混乱が起きなかったというわけではないので、ルカイアはリリに言っていたように邸へ帰る暇がなく、忙しさを極めていた。
漸く区切りがついたところで、リリが懐妊したことを報告していなかったことを思い出し、まずはサライに報告して祝いの言葉をもらったあと、時間を見てサリヴァンのところへ、わが家へ向かった。
「出かけられているのですか」
「はい。数時間ほど前のことになりますから、そろそろお帰りになると思います」
ルカイアを出迎えた侍従は、サリヴァンがもともとラクウィルと一緒にそばに置いていた者で、歳嵩があるため夫婦でサリヴァンに仕えてもらっていた。城では侍従だったが、ここでは家宰として、サリヴァンを支えてくれている。
「待ちましょうかね……時間には余裕がありますし」
「ではこちらへ。先日、侍従長が美味しい茶葉を手に入れてくださったので、それをお飲みになりながらゆっくりお待ちください。アイゼン夫妻を呼びましょう」
「ああ、そうですね。報告したいこともあるので、お願いします」
わが家なので遠慮することはないのだが、城からほとんど出たことがないサリヴァンのために一時的な措置として招かせてもらっているので、それまでこの邸を護ってくれていた老夫妻は、ルカイアの実家である本邸に戻っている。実の両親よりも長くそばにいてくれた老夫妻にはいろいろと面倒をかけさせてしまっているので、もちろんリリとのことでも世話をかけていた。
呼んでくれるなら幸いと、老夫妻のことを頼んで客間に通らせてもらい、見慣れた景色にホッと息をついたところでお茶が運ばれてくる。
「馬を走らせましたので、じきにおいでくださると思います」
「ありがとうございます」
「礼は不要です。宰相閣下には、わたしも妻も面倒をおかけしております。これくらいのことで、そう簡単に頭を下げないでください」
「サリヴァンさまについてくれる侍従が、あなただけだったのですよ。こちらこそ感謝しています」
「はは、わたしはサリヴァンさまをわが子のように思っていますから。おそばを離れるなど、考えられないだけですよ」
家宰は人がいい。にこにこと穏やかに微笑み、自分の心に素直な表情が出る。
だからサリヴァンも、ルカイアが彼ら夫妻ここへを連れてきたとき、なにも言わなかった。きっと安堵したのだろう。自分がいなくなることで、それまでとても身近にあった者たちにはひどい衝撃を与えることになるだろうと、サリヴァンは覚悟していた。再会に泣いて感激したこの家宰は、サリヴァンにとってラクウィルの次に身近な侍従だったこともあり、サリヴァンのその覚悟を少しでも救ったに違いない。
「これからもサリヴァンさまをお願いします」
「はい。喜んで、お受けいたします」
穏やかに笑んで頭を下げた家宰は、お茶を卓に並べると部屋を出て行った。
老夫妻が来るまで家宰とは積もる話をしたかったが、なにぶんこの邸にはもともと人がおらず、さらに言えばサリヴァンも周りに人を置きたがらないゆえに、使用人という枠に入るのはあの家宰夫婦とその娘、信頼している通いの料理人数名、そしてリリとラクウィルだけだ。どうやらサリヴァンの外出にはツェイルとリリも一緒のようなので、終わらせてしまいたいことが多くあるのだろう。あの家宰も忙しそうだ、と感じると、やはり早々にリリやラクウィルには教育をしてもらわなければならなそうだ。
「人選を急がねばなりませんね……」
使用人のことも然り、護りが薄いこの邸には騎士隊を置くべきだとルカイアは考えている。大まかな人選は終えているが、確立にはもう少し時間がかかりそうだ。それまではラクウィルひとりに頑張ってもらうしかない。
いろいろと対策を考えつつお茶を飲んでいると、老夫妻が到着した。
「若さまっ」
扉が開くなり飛び込んできたのは、老夫妻の妻のほうだ。夫のほうはゆったりのんびりと、「やあ若さま」と入ってくる。
「お久しゅうございます、若さま。お元気そうでなによりですわ」
「タキも元気そうですね。本邸で無理をさせられていないか、心配でしたよ」
「旦那さまはよくしてくださっていますよ。なにせ年寄りですから、あいたたた、と言うだけで楽ができますの」
「それはいいですね。その調子です」
「ところで若さま、リリはどこです? わたしはリリにも逢えるものだと思っておりましたが」
「どうやら出かけているようで……そのうち帰ってきますよ」
「若さま、あまりリリを虐めないでやってくださいましね。あの子は思い込みが激しくて、頑固なんですから、機嫌を損ねたら大変なんですよ。また家出されてしまいます」
痛いことを言ってくれるが、こんなことを言ってくれるのは老夫人タキだけである。
「おそらく家出はもうしないかと……賭けをしているようなものですが」
「賭け? 賭博がお嫌いなくせに、賭けですか?」
「ええまあ……子を、宿らせましたから」
「まあっ!」
タキが、ぱあっと顔を明らめる。両手をぎゅっと握られて、「おめでとうございます」と興奮気味に揺すられた。
「本当でございますね? リリは懐妊したのですね?」
「ええ。凡そ半年になります。気づいたのが最近でしたので、報告が遅れてしまいました」
「いいえ、いいえ若さま。タキは嬉しゅうございます。漸く想いが成就したのでございますねっ」
目に涙を浮かべて喜んでくれるタキに、ルカイアもふっと微笑む。
「成就したわけではありませんが」
「……、は?」
「あの娘は相も変わらずわたしの愛を欠片も信じないのですよ」
ふふふ、と黒く笑うと、タキの泣き顔に憐れみが含まれてくる。
「挫けないでくださいましね、若さま」
「ええ、もちろん」
挫けるならとうの昔に挫けていただろう。今があるのは、リリが少なからず自分を好いていると確証があるからだ。ただ、リリのほうはルカイアに愛されているという自覚がない。いや、自覚しようとしない。
「あの頑固さには敵いませんが、わたしのほうもかなりの頑固者ですから、手放しはしませんよ」
「若さま、タキは若さまの御子をたくさん見とうございます」
「ええ、家出する暇など与えませんので」
「それならよろしゅうございます」
「ただ……」
「ただ?」
「身篭ってなお家出されようものなら、どうしたらいいでしょうね?」
ふふふふふ、とさらに黒く笑えば、タキは悲しそうにふぅっと息をついた。
「足枷をつけて寝台に縫いつけるしかありませんわね」
「それは名案です」
手段がそれしかなくなったら、そうするしかあるまい。
本気でそう思ったところで、ルカイアとタキの会話をのほほんと見守っていたタキの夫、キリアンが突然大笑いした。
「若さまは相変わらずですなぁ」
「笑うところですか、キリアン」
「いやいや、ほれ、サリヴァンさまが呆けておられますから」
と、キリアンは扉を指差す。顔を引き攣らせた家宰と、吃驚、と顔に書いているサリヴァンがいた。
「おや……これは失礼いたしました、サリヴァンさま」
とくに慌てることなく礼をし、頭を下げたところで、サリヴァンがハッとわれに返ってくれる。
「今、物騒な話が……気のせいか?」
「なんのことです?」
「い、いや、気のせいだ。気のせいにしておく」
ぶんぶんと首を左右に振ったサリヴァンは、家宰を下がらせて部屋に入ってくる。
「アイゼン夫妻、再会を邪魔して申し訳ない。邸を借りているというだけでも申し訳ないのに」
「ああ、気にしないでくださいまし、サリヴァンさま。わたしも夫もルカイアさまに仕える身、ひいてはサリヴァンさまに仕える身にございます。この老体を気遣ってくださるだけで充分ですわ」
「そう言ってもらえるとありがたい。用事を済ませたらすぐにルカを返そう。少しだけいいか?」
「ええ、もちろんですわ」
別室に、と促されたが、べつに今日は仕事を持ってきたわけではないので、ルカイアは「このままでけっこうです」と答えた。
「報告に上がっただけですので、お時間を少々いただければ、と思います」
「報告?」
「はい。このたびわが妻リンリィが懐妊しましたので、その報告を」
言ったとたん、サリヴァンの目がまん丸になる。それはもう先ほどの驚きを通り越して、声もなく吃驚している。しばらく沈黙が続いたほどだ。
「それほど驚くことですか?」
思わず問うたとき、なぜかサリヴァンはビクッと震えて一歩後退した。
「お……おまえに子ができるとは思わなかった」
「わたしもひとりの男で、夫なのですが」
仕事一辺倒ではあるが、そうできるのもリリの存在があるからだと、きっと説明したところでサリヴァンは信じないだろう。なので、言わない。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「太ったわけじゃなかったんだな」
「失礼ですね、わが妻に対して」
祝いの言葉を述べた口でそれか、と思ったが、サリヴァンの様子から察するに、どうやらリリはまだサリヴァンに報告していないようだ。となると、おそらくツェイルにも報告されていない。
リリは、子を授かったことを、喜んでいないのか。
計算が裏目に出たかと、ルカイアは舌打ちしたくなった。
「そうか……ルカが父親かぁ」
「……ええ、そうですね」
感慨深く呟いたサリヴァンに、一瞬反応が遅れてしまったが、サリヴァンは気にした様子もなく微笑んでいた。
「いいな。おれもツェイとの子が欲しい」
「漸く手を出されましたか」
「あ……」
成人を気にしていた様子だが、どうやらやはり我慢が効かなかったようである。
正直に言うと、ルカイアはサリヴァンの伴侶に、ツェイルに女としてのものを期待していたわけではない。ツェイルという人間を盾に、メルエイラ家を掌握できればよかった。その目論見が、たまたま先代メルエイラ候と通じていたというだけのことで、結果的に考えれば同じことだっただけだ。
サリヴァンがツェイルに惚れた、というのは、実のところルカイアにとって予想外のことである。先代メルエイラ候に至っては、考えてもいなかったことだろう。
こうして目論見が半ば達成された今、サリヴァンの幸せそうな顔を見ると、ツェイルと引き合わせたことに少しだけ罪悪が募る。
わたしはあなたに、国を護るための犠牲を強いただけだった、と。
ルカイアは、サリヴァンの幸せを考えていたわけではなかったのだ。
サリヴァンを護ることは、国を護ることに繋がる。神と崇められる聖王に育まれし、神の子たるサリヴァンを、国は手放すわけにはいかないのである。
サリヴァンには、自分が神の子であるという自覚がない。言ったとしても、信じないだろう。拾われて育ててもらっただけだと、言うに違いない。
しかし、ルカイアにとってサリヴァンは、神の子だ。その出生からこれまでのことを公言してしまえば、誰もがサリヴァンを神の子として崇めるだろう。そうすればサリヴァンの立場は確固たるものとなり、皇族もかつての華やかさを取り戻し、国は安定しさらに繁栄する。
サリヴァンのことを語ることができれば、と幾度思ったことか。
行動に移せないでいるのは、サリヴァンのこの、幸せそうな顔を見てしまったからだろうか。
ツェイルと一緒にいるときのサリヴァンは、今まで見せたことのないさまざまな姿を、ルカイアに見せてくれる。ほっと安堵している自分に、ルカイアは「甘くなったものだ」と思う。
「い、いとしい者がそばにあって、冷静でいられるものか」
「ツェイルさまはまだ成人されていませんよ」
「可愛いんだから仕方ないだろうっ」
顔を真っ赤にするサリヴァンなど、ルカイアは見たことがない。いつだって冷静沈着で、ときには飄々として、感情を隠していた。
今はどうだろう。
実はこんなにも感情豊かな人だったのかと、ルカイアは驚いている。
「城にいたときはまだかと言っていたくせにっ」
「感情を抜いた行為にはいくらでも走られますからね」
「走るか!」
意外と純情だ、と思うのはルカイアだけではないだろう。くつくつと笑って、ルカイアは肩を震わせた。
「御子の誕生を楽しみにしておりますよ」
「う……」
もしかしなくても、皇族が増える。それは喜ばしいことだ。
「サライ陛下にも、縁談を持ち込まねばなりませんね」
「……候補の者たちはいるだろう」
「呼び戻さなくてはなりませんが……あれでいて女好きですからね」
「兄上のせいで後宮は大変だったんだ。どうにかしてくれ」
「どうにかできるものであれば、苦労はしませんよ」
どちらからともなく、小さなため息がこぼれる。揃ったそれに、互いに苦笑した。
「しかしリリが懐妊したというなら……ツェイの侍女がいなくなるな」
「そのことはリリに任せていただきますよう、お願い申し上げます」
「かまわないが……だいじょうぶか?」
「リリはツェイルさまを妹のように思っているところがありますから」
「そうか。じゃあリリに任せよう。ツェイにはおれから言ってもいいが……逢っていくか?」
「そうですね……タキ、キリアン、リリに逢っていかれますか?」
老夫妻は「もちろん」と笑顔で頷くので、ルカイアはサリヴァンと一緒に客間を出て、広間に向かう。
広間への道中は、サライの様子を伝えておいた。だてに五年も表から隠れていたわけでなく、その手腕は目を瞠るものであること、礼儀も振る舞いも皇帝そのものであること、入れ替わりがあったことすら感じさせない立ち姿であることを伝えると、サリヴァンも安堵したような微笑みを見せた。
しかしながら、そもそもサリヴァンは執務の間、サライそのものを演じていた部分が多いので、入れ替わっていると知っている者たちでさえそれが終わったのだと気づかないほど、内部に波紋は起きていなかった。
そんなこんな話をしながら広間を前に立ち止まったとき、扉の向こうからリリの悲鳴が聞こえた。