Plus Extra : 系譜に名もなき皇族。
ユグド(近衛騎士隊のひとり)視点です。
騎士団に入隊した辺りから、追送録の終わり辺りまで、断片的な話になっています。
ユグド・コール・シュミッドが騎士になるために家を出たのは、十三歳のときだ。
子爵家の末子という微妙な貴族階級の者が騎士を目指すのは、これといって珍しいことではない。皇城に点在する騎士は、大抵がユグドと同じような立場の者たちだ。
ただ、ユグドは少し変わっていた。いや、変わっていたわけではないのかもしれない。
ユグドは剣を握ることよりも、書物を読むことのほうが好きで、強制されてもいないのに机に向かって勉強していることのほうが好きだった。騎士になったのは、立場が微妙だったことと、騎士になれば国が管理する城の蔵書が読み放題かもしれないという、下心からだった。
幸いなことにユグドは、べつに剣が握れないわけではなかった。兄弟姉妹の中では一番扱いが上手かったが、それが従騎士になるときに役に立ち、さらに騎士となる時間をも短縮させてくれたのである。
ユグドが騎士と呼ばれるようになったのは十七歳、ヴァリアス帝国で成人する年齢のときだ。その剣技と、もの静かさを買われて、聖騎士とも呼ばれる近衛騎士隊に所属することになり、皇族を身近で守護する騎士になった。
ただ、その頃は皇族に、不幸が続いていた。いや、もう二十年以上、皇族は不幸に見舞われていた。
たくさんの側妃がいたのにも関わらず、後継者が正妃の子ひとりだけだったこと、皇帝には妹しかおらず、皇妹の子もまたひとりだけ、皇族の血が流れているのは先帝の従兄弟であったダヴィレイド大卿とヴァルハラ公爵のみ、大卿と公爵には子息もない。
つまり、皇族である者、皇族であった者が、極端に少なかった。先帝の時代には華やかであった皇城が、寂れていたのである。
誰を護ればいいのだろう。
ユグドがそう思うのも無理はない。聖騎士とは名ばかりだ、という日々のおかげでユグドは念願の皇城図書館に入り浸ることができたが、つまりはそれくらい仕事が少なかったということで、武具を自己生産できる技術がある大国のおかげでわりと平和な国は、大規模な戦争すら起きなかった。少数の反乱や革命らしき動き、豊かな国ゆえの盗賊増加傾向は、ユグドが所属する隊を動かすまでもなかったのだ。
こんな国が、大国として名を馳せ、頂点に君臨していてだいじょうぶだろうかと、ユグドはよく思った。しかし、思ったくらいにして、とくになにもしなかった。
ユグドの目的は、皇城に眠る蔵書を読み尽くすこと、である。読み尽くすまで死ねない。その時間を邪魔されたくない。その時間さえ与えてくれるなら、それでいい。
誰を護ればいいのだろう、この国はだいじょうぶだろうか、と思い考えたところで、ただの騎士であるユグドにできることは限られている。それなら、できることをやるしかないのだ。
だからユグドは、その日、たったひとりの後継者である皇太子が病に倒れたとき、大きくため息をついた。城の蔵書はまだ半分も読んでいないのに、国が終わると思ったからだ。国政などユグドには関係ない。揉めようが争われようが、それは弊害でしかなかった。
皇太子が病に倒れたことは一部の者にしか知らされなかったが、その一部に自分が入っていても、ユグドは万事気にせず自分の思惟に忠実だった。
そのユグドの姿が、宰相補佐の文官の目にどう映っていたのか。
「ユグド・コール・シュミッド第二近衛小隊副隊長」
図書館からの帰り道、ユグドは聞き覚えのない声に呼び止められた。振り返ると、赤味の強い金髪の貴族が、両手を袖の長い官服の中に隠し、感情を読ませない表情でユグドを見つめていた。
すぐに上位貴族であろうことは把握できたので、非番であったが騎士には変わりないユグドは、廊下の隅に寄って頭を下げた。
「わたしになにかご用でしょうか」
「……こんなに騒いでいるというのに、随分とあなたは落ち着いておられるのですね」
厭味か、と思ったが、落ち着いているのは確かなので、否定のしようがない。手には図書館から借りた蔵書も持っていた。
「ついて来なさい」
有無を言わせぬ命令だった。明らかに自分より歳下であろう文官は、しかし上位貴族という権力を振りかざしているようには思えなくて、ユグドは首を傾げながらとりあえず彼について行った。
「わたしは、ルカイア・ラッセと申します。ルカイアと呼んでください、シュミッド副隊長」
最初は無言で歩いていた彼は、突如として名乗り、しかし本来なら家名で呼ぶ必要があるところを、名で呼べと言ってきた。
「わたしのこともユグドでかまいませんが」
「そうですか。では、そう呼ばせていただきます、ユグド」
なんだか自分と同じような匂いのする上位貴族だ、と思いながら、その背中は再び沈黙し、ひたすら歩く。どこまで行くのかと思うほどに、ただ歩く。
行き先が中央の棟だと気づいたときには、自分が騎士隊の制服を着ていてよかったと思ったほど、場違いな雰囲気に顔をしかめた。
「どこに行くのか、と訊かないのですね」
「答える気がないご様子なのに、訊いても意味はないでしょう」
「……素晴らしい態度です」
貶されているのだろうか、と思ったが、ちらりとユグドを眇めたルカイアの瞳は、なにも語らなかった。
ルカイアは、中央の棟のさらに奥へと進み、これ以上はなにもない行き止まりとなった壁の前で、漸く立ち止まった。
「見聞きしたものを公言しないと、誓えますか」
「命令であれば」
「では、命令します。ここから先、見聞きしたものは公言しないでください」
意味はわからなかったが、「御意」と答えた。言うなというだけのことなら簡単なのだ。親しい友人も、話し相手もいないユグドにとって、人生に必要なのは書物だけである。
ユグドの態度に満足したらしいルカイアは、壁に手をついた。その瞬間、ただの石壁であったそこに木製の扉が出現し、ルカイアの力によって開かれる。仕組みが気になって瞠目した。
「魔術ですよ」
と、ユグドの疑問をルカイアは答えてくれた。
「魔法ではなく?」
「魔術です。魔法と魔術は異なるものだと聞いています」
なるほど、と頷く。
古来、魔術は魔法と同一化されるが、本来は別ものであると書物に読んだ。魔法は個人が持つ陣が錬成できれば発動するが、魔術は個人が持つ陣を練成できなくとも、生み出された多様の陣によって発動する。どちらも魔力を必要とすることから同一化されるが、仕組みはまったくの別ものだ。魔術を扱う者が少なくなった今では、魔法と混同されてしまうのも無理はない。
珍しいものを見ることができた、と思いながら、扉を抜けたルカイアの背に続く。そこはまたも石畳の廊下で、しかしすぐ手前に部屋の扉があった。ルカイアはそこで立ち止まり、扉を叩く。
「ルカイアです。連れてきました」
それだけ言うと、中から扉が開かれる。促されて中に入って、思わずそこにいた面子に驚いた。
「あ、ユグド副隊長だ」
そう口を開いたのは、自分の部下。つまり第二近衛騎士小隊のひとりで、今年騎士になったばかりの青年だ。
「へえ、この人があの変てこな副隊長さんですか」
怪我をしているらしい頬に貼り薬をつけ、片腕を布で吊った天恵術師団の制服を着た青年は、ユグドに憶えはない。いや、皇族特有であるはずの淡い金髪の天恵術師の噂なら知っているが、異形であるらしいのでこの青年であるはずがない。
「まあそんなところに突っ立っていないで、こちらにおいでなさい」
ふたりを向かいにして、長椅子に腰かけている壮年の貴族にも、見憶えはやはりない。
しかし。
「久しぶりだのう、ユグド。相変わらず図書館通いか」
「さすがのわしも半分を読むのがせいっぱいだというのに、読み尽くしそうだな、ユグドは」
図書館仲間の老年と壮年の上位貴族は、このところ逢わなかったふたりだ。
老年の上位貴族は、アルヴィス・レイル・ヴァルハラ、ヴァルハラ公爵であり、壮年の上位貴族はエインズレイ・アイル・ダヴィレイド、ダヴィレイド大卿である。ふたりは数少ない皇族であった方々だ。
なんというか、どういう関係で集まった人たちなのかと、疑問になる面子である。
「ダヴィレイド大卿とヴァルハラ公はわかりますね。あれはあなたの部下であるツァイン・メルエイラですし」
「ああ、はい」
あれ、という扱いをされた己れの部下、ツァインだが、軽く肩を竦めたくらいにして、露台の窓辺に移動した。
「右手に座られているのは、モルティエ・メルエイラ伯爵。ツァインのお父上です」
見知らぬ壮年の貴族は、なるほど、ツァインと同じ髪色をしていた。顔はあまり似ていないが、そうだと教えられると納得できる雰囲気を持っている。
そういえばメルエイラ伯というと、皇帝の反感を買ってほぼ蟄居の状態ではなかっただろうか。成り上がり貴族としても有名であるが、先帝の時代には『皇の剣』と呼ばれていたはずだ。そもそもメルエイラ伯とは、先帝の時代に貴族となり、その所以は尋常でない戦闘力にあったようである。ツァインは言うほど強いわけではないのだが、なにか隠しているのだろうか。
「そこの術師は、ラクウィル・ダンガード。名前だけなら知っているでしょう」
怪我だらけの天恵術師は、やはり異形と噂されている人物だった。噂とは当てにならないものだ。自分より幾ばくか若そうな彼は、にこりとただ普通に笑んでいる。異形だと噂される要素が見当たらない。
その場にいる全員の紹介を終えると、ルカイアは部屋の中央に移動し、手前にあった椅子に腰かける。ユグドも、空いている椅子に座るよう促されたが、ここにいるほとんどが自分より身分が上の者たちだ。不敬をするわけにはいかないので、ラクウィルという天恵術師の隣に立って並んだ。
さて、この面子が集まっているのは、なんのためだろう。そこに呼ばれたユグドは、いったいなにをさせられるのか。
「この動乱の中、漸く好機を見つけることができたことに感謝しよう」
口火を開いたのは、ヴァルハラ公だった。
「イデアが死んで数十年、皇族の天恵が狂って久しい……だが、ヴァリアス帝国は終わらぬ」
ユグドよ、とヴァルハラ公に呼ばれ、顔を向ける。
「おまえの忠誠はどこにある」
「……直答をお許しください」
「許す」
「わが国にあるものと」
「なるほど、無難な答えだ。ではおまえのその忠誠を試させてもらおう」
試すほどのものでもないと思うが、とユグドは首を傾げる。
ヴァルハラ公とは、図書館でよく顔を合わせ、ときには会話も交わすことさえあったのだ。そこでユグドの姿勢を見ていれば、試す必要などない。
「陛下が病に倒れられた。そしてサライ殿下も」
それは聞き及んでいることだ。しかしユグドが動くところではない。いや、動けない。病を剣で斬ることなどできないのだ。
「陛下は長くないだろう。体力的な問題もあれば、あのお方には天恵もない只人だ。天は陛下を救わぬ」
それはつまり、ヴァルハラ公は皇帝を見限った、ということだろうか。ただひとりの皇太子を、その玉座に据えるということだろうか。
「陛下がお隠れ遊ばれたとき、真の国主をお迎えする所存である。ユグドよ、おまえはそのお方をお護りせよ」
「……わたし、ですか?」
「おまえ以外に誰ができる?」
巧みな言葉だ、と思った。そう言われては、自分を卑下する言葉しか返せない。ヴァルハラ公が求める返事は、そんなものではないだろう。
もうここから試されている、かもしれない。
「……わたしにできることなのであれば、全力を尽くします」
持っていた書物を抱え直し、手のひらを胸に当てて頭を下げる。
ユグドにできるのはこれくらいだ。上からの命令に背けるはずもない。やれと言われたらやるしかないのだと、ユグドは知っている。
「このことは他言無用。そのときがくるまで、おまえは平素と変わらぬ生活を保て、ユグド」
「御意」
「話はそれだけだ。わたしは本日を以って表から去る。あとのことはエインズレイかルカイアに訊くがいい」
緩慢な動作で椅子から離れたヴァルハラ公は、まるでその老体に鞭打つかのようにゆっくりと歩き出し、しかし途中で立ち止まるとメルエイラ伯を呼んだ。
「モルティエ、そこまで送ってくれぬか」
「ええ、喜んで」
指名を受けたメルエイラ伯はにこりと微笑み、ヴァルハラ公の歩を補助しながらふたりで部屋を出て行った。
僅かな時間、沈黙が続く。
「言いたいことは、アルヴィスがすべて言うてくれたな。わしからはなにもないわ。なんぞ訊いておくことはあるか、シュミッドの小僧」
沈黙を破ったダヴィレイド大卿の言葉に、ユグドはしばし考える。やれと言われたことはやるしかないが、気になることはままあった。
「わたしが護るべきお方は、どなたですか?」
「ほう……アルヴィスの言葉をきちんと理解しておるようだな。サライ殿下だとは思わなかったか」
「公爵は、真の国主、と。御名を明かされてはいません」
「なるほどな……」
ふふん、と愉快気に笑ったダヴィレイド大卿は、なにかを思案するように視線を窓の向こうに移し、一雨きそうな灰色の空を見つめる。
「逢えばわかろうよ」
「……逢えば?」
「己れの眼を信じるがいい」
それはどういう意味だ、と訊きたかったが、ちらりとこちらを眇めたダヴィレイド大卿の目は、面白がっているというよりも試しているようだった。
どうやら試され続けるらしい。
なんだかとんでもないことになっている、と気づいたときには、既に遅かった。
* *
「ユート?」
声をかけられて、ユグドはハッとわれに返る。
ユグドという名なのに「ユート」と呼ばれても反応できるようになった自分に、なんだか笑えた。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
「……やっぱり、我儘だったな。すまない、無理をさせた」
「いいえ。さすがに驚きましたが、ひとりで出かけられるという無謀をなさらなかったことには感謝しています。そう簡単に謝らないでください」
月明かりだけでは足許も覚束ない闇の中で、ユグドは護れと命令された青年とふたり、帰路についていた。
「今頃ラクは慌てているかもしれないな……まさかユートに頼むとは思わなかっただろうし」
「わたしは頭が固いらしいですからね」
「はは、だから融通が利かない。だが、おれはそこを突いた」
天真爛漫に笑ってみせる青年がなに者か、ユグドは知らない。ただ、皇族特有の色を持つこの青年が、自分が護るべきお方だというのは確信している。
ダヴィレイド大卿に「己れの眼を信じるがいい」と言われたが、信じた結果が目の前の青年である。
「どうしても逢いたかったんだ……公には、家名をいただいたから」
ユグドに、この青年を護れと命令してきたヴァルハラ公は、ユグドが青年に出逢ってまもなく病に倒れ、そして今日、危篤だと知らせを受けて駆けつけた青年に看取られて、亡くなった。
ヴァルハラ公は泣いていた。この青年に、自分たちが今までしてきたことを悔いて、泣いていた。青年はただ優しく微笑み、その手を握り、「ありがとう」と呟いていたが、ヴァルハラ公の涙は止まらなかった。それでも、それは救いになったのだろう。安らかな寝顔で、ヴァルハラ公はその生に幕を閉じた。
「こんな夜更けに、本当にすまなかった。ラクに言ったら、たぶん連れて行ってくれなかっただろうから、助かったよ」
「御身のことを考えてくだされば、わたしのしたことは愚行にほかなりません」
この青年は近い内に、その玉座に導かれる。皇帝崩御の報が流された瞬間にユグドの前に現われた、記録にない皇族の青年が、段階をすべて無視して、皇帝となる。
未だ病床から離れられない皇太子の身代わりとして、仮初めの皇帝となることを、青年は嬉しくもなさそうに了承した。
ただ、「死にたかったのに……」と小さく呟いていたことを、ユグドは知っている。
「ユートも厳しいなぁ……サライ殿下がいるんだから、おれの身なんか心配しなくていいのに」
「あなたも殿下です。いえ、陛下となられます。御身を大事にしていただかなければ」
「ユート」
振り向いた青年が、困ったように笑っている。
その顔は皇太子と同じだと、誰かが言っていた。影武者と言うにはあまりにも皇太子に似ていると、言っていた。その立ち姿には先帝の、いや、賢帝であった先々帝の面影すらある。それゆえに、その血筋が確かなものであることを、青年は口を開かずに証明していた。皇族であるはずがない、と言うには憚れる要素が、青年には多く存在しているのだ。
「ユート、国を想うなら、おれのことは大事にするな。おまえたちが護るべきは国なんだ。おれじゃない」
「……殿下は国の象徴となられるお方です」
「だから、おれのことは護らなくていい。おまえたちは、おれが間違った方向へ行かないよう監視し、サライ殿下にお返しするそのときまで、おれを導かなくてはならないんだ」
「それはもっともなことではありますが……」
「ユート、国を護ってくれ」
透明感の強い碧い瞳が、月の光りを吸収し、柔らかな色でユグドを見つめる。
「おまえのやり方で、国を、護ってくれ」
まるで、己れの死を願っているような、言い方だった。いざというときは殺せと、命じられているようだった。
「殿下……」
この青年は本当に、国を想っている。いや、想わなければならないと、押しつけられている。
青年はどうやってこれまで生きてきたのだろう。どういう環境の中にいたのだろう。
系譜に存在しない皇族の青年に、ユグドは強く興味を惹かれた。
* *
漸く皇城に眠る蔵書の半分近くを読み治めることができたとき、皇族の系譜に新しい名が加えられた。
サリエ・ヴァラディン・ヴァリアス。
ユグドが仕えるあるじ、皇弟の御名である。
突如として現われた皇弟に、臣民はもちろん動揺した。あることないこと噂立てる者もいた。根も葉もない脚色をつけて出生を語る者もいた。
しかし、民にとって皇族とは縁遠い存在であり、混乱はまもなく鎮静化した。代わりに、噂を信じ込んだ貴族らが、水面下でその動きを見せようとしていた。
「そう、そこで足を滑らせて入り込む。膝を曲げて……ほら、すとん」
「おお……っ」
「力なんか要らないでしょ?」
「これは面白いな、ツァイン!」
「殿下の場合、剣が握れないだけのことでしょうが。それならそれ以外の方法を用いればいいだけのことだよ」
部下だったツァインが上司になり、ユグドが隊の三席という位置に定着したこの頃、先の名残りか未だ「ユグド隊長」と呼ばれ、相変わらず「ユート」と呼ぶ人のそばにいる日々が続いている。
「ユート、漸くおまえを投げ飛ばせそうだぞ!」
「遠慮します」
「さあかかってこいっ」
戦う方法を憶えたばかりの皇弟殿下は、先日近衛騎士隊の彼らに遊ばれて以降、城への出仕を控え邸にいることが多くなった。その分、宰相であるルカイアが日中に訪れる回数が増え、邸で仕事をしていることが多くなったわけでもあるが、その傍らには必ず伴侶のツェイルを置き、ふたりでいるときをよく見かける。
仕事の合間にはこうして、ツァインと体術の稽古をしていた。
「殿下、殿下にユグド隊長はまだ早いよ」
「一回投げ飛ばせれば気が済む」
「できる実力を備えてから言おうね」
「う……ラクなら簡単なのに」
「あー……侍従長はねぇ」
「なんだ?」
「隙があるんだかないんだか……さすがに僕も平素では投げ飛ばせないからねえ」
「ラクはおまえのそれが読めないらしいが?」
「読まれないときにしかできないからだよ」
「……、なるほど」
「さて、じゃあ次行く? それとも終わりにする?」
休憩を挟んでもう一度、と答えたとき、露台のほうから「お茶にしませんかぁ」というラクウィルの声が響いた。
「ん、ちょうどいいな。ツァイン、ユート、お茶にしよう。シュベルツ、もう少しつき合ってもらうぞ。ナイレンは……どこに行った?」
「もうあっちにいるよ」
「……意外とちゃっかりした奴だな」
「レンは本来自由気儘な猫だから」
「猫……猫といえば、ユート」
お茶に誘われたのでそちらに移動しようとした矢先、くるりと振り返った殿下に呼ばれた。
「あの猫、精霊らしいな?」
どの猫だ、と一瞬だけ考え、そういえば殿下が拾ってきた精霊を世話していたなと思い出した。
「……ナイレンに聞きましたか」
「あんなにでかい猫はいません、と言われた」
「いませんね」
「……、どうりで人語を解すわけだ」
「その時点で気づいて欲しいところです」
「ラクが猫だと言ったんだ」
「まあ……見た感じは猫ですからね」
噂の猫、いや見た感じ猫な精霊は、今日ものんびり邸内の木の上で昼寝をしている。世話を任されているとはいえ、ユグドがすることはとくにない。せいぜいその巨体に櫛を通して毛並みを揃えてやるくらいだ。
「ふん、精霊……な。養父上の仕業か……いや、まさかな。だが……」
ぶつぶつと言いながら、殿下は露台に向かう。その後ろ姿を、ユグドは見送った。
「本当に気づいていなかったのか……」
「侮るなかれ皇弟殿下、実はとんでもなく鈍感なんだよ、ユグド隊長」
「……そのようだ」
不思議なもので、始まりは命令であったのに、気づくとユグドは国のために、そして国のために在ろうとする殿下のために、自らその思考を巡らせるようになっていた。あのときはただ命令であったから、やれと言われたからやるしかないと思っていたのに、随分と変わったものだと思う。
ふっと、笑いが込み上げた。
「このところのユグド隊長は、よく笑うね」
「わたしは隊長ではない。が……そうだな。自分で書物を書き記すのも悪くないと思っている。そのせいかね」
皇族の系譜になかった青年は、今もまだ、ユグドの興味を惹く存在である。
「そういえばいつも読んでばかりだね。どうして今まで書こうと思わなかったの?」
「残す必要がない物語ばかりだったからだよ」
「ふぅん? じゃあ今は、あるんだね?」
ユグドは目を細め、太陽の光を反射してきらきらと輝く銀を、眩しく思いながら見つめた。
小話の提案(リクエスト?)ありがとうございました。
楽しんでいただけたら幸いです。