08 : 声にならない言葉。2
サリヴァンが去ってから数刻、小難しい顔をしたルカイアが部屋に訪れた。そろそろ眠る時間であったので、ツェイルは寝間着に着替えようと思っていたときだった。
「陛下は今日も、いらっしゃったようですね」
「はい」
「なにかお聞きしたのでは? たとえば、帰れ、とか」
やはりそのことで来たのかと、ツェイルは落ち着いてルカイアと対峙した。
サリヴァンが部屋を去ってから、サリヴァンが残した言葉を一つずつ考えてみたのだが、理解できたのは少しだけだった。
まず、兄が夜襲の犯人であり、けしかけたのがルカイアであること。兄はルカイアが黙認するとわかっていて、またルカイアも兄が行動にでることを黙認して、行動に出たこと。兄の気持ちを汲み、ルカイアがなにを言おうと、帰るべきであること。
サリヴァンが、己れを軽んじ、命を投げ出していること。
どうやら今帰らねば、後悔するようなことが起きるらしいこと。
わかったのはそれくらいで、サリヴァンの細かな動作、表情の一つ一つは、理解できないものが多かった。
「帰れと、言われました」
「……その時点で、わたしを呼ばなかった理由はなんでしょう」
ツェイルはじっと、真っ直ぐ、ルカイアを見つめた。
「あなたが、そう易々と、帰してくれるとは思えません」
言えば、ルカイアはゆったりと笑った。
「よく、おわかりで」
その笑みに、ツェイルは不気味さと似た、けれどもひどく強い想いを感じた。
「陛下……いえ、サリヴァンさまには、メルエイラ家の者を娶ってもらわねばなりません。そこにどんな感情があろうが、関係なく。ですから、あなたを帰すことは承伏しかねます。それに、あなたにはサリヴァンさまのことに手を尽くしてもらわねばなりませんから、心配であろうメルエイラ家の方々を、わたしが護らせていただくのです」
ああ、やはり。
ツェイルは、ルカイアに家族を盾に取られた。言葉を綺麗にしていても、それはツェイルにとって脅迫だ。拷問に近しい。
「どうして……メルエイラ家なのです」
「それは、天恵者という理由以外で、ということですか? それなら簡単です。サリヴァンさまに必要なのは、メルエイラ家だからです」
「だから、なぜメルエイラ家なのかと」
「それしか言いようがありません。サリヴァンさまには、必要なのです」
理由になっていない。それなのに、ルカイアはそれ以外の理由はないと言う。
「陛下は、望まれていないのに」
「関係ありません。言いましたでしょう、自分勝手だ、と」
「……そうですね。ルカさまの、身勝手です」
けれど、そこにある想いは、たぶんきっと、ツェイルと同じなのだ。
「わたしはあなたをメルエイラ家に帰すつもりはありません。もし帰るおつもりでわたしを呼んだのなら、忘れたふりをしているところでした。ですが、あなたはこの時間まで、わたしが自ら足を運ぶまで、帰ろうとも逃げようともなさらない。わたしはその理由を訊きたいのです」
「……それが狙いだったのでしょう、とお訊きしてよろしいですか」
「よくおわかりで」
ルカイアは笑みを深めた。
「あなたなら、サリヴァンさまのそれが、おわかりになると思いましてね」
「わからなかったら、どうするつもりだったのです」
「そのときは、そのとき。叛旗の疑いありと、メルエイラ家を取り潰すだけです」
思わず、その言葉にゾッとした。
やはりルカイアには逆らえない。下手をして家族を危険に曝してしまっては、ツェイルがここにいる理由もない。なんのためにここにいるのか、その理由を失ってしまう。
ツェイルにとっての生きる意味が、潰えてしまう。
それに、ルカイアのこの笑みに隠されたものは、たくさんあり過ぎる。
「……そこまで、メルエイラ家の力が、必要なのですか」
「もちろん。これでも、メルエイラ家の事情は考えていますよ。テューリさまは婚姻が決まっておられますし、シュネイさまはまだ幼い。婚約者がおらず、また婚姻の話も持ち込まれないあなたを、わたしは選びました。天恵者であったことは、偶然ですかね」
胡散臭い言い方だった。白々しいと思った。けれども、思っただけで、言葉遊びをしているのだろうルカイアに、なにも言えなかった。
「わたしは、騎士になりたいと、陛下に言いました。けれども、受け入れてもくれません」
「あなたに女性の魅力で誘惑しろとは言いませんよ」
「ではどうしろと? わたしにあるのは、天恵だけです。差し出せるものも、天恵とこの身のみ。受け入れてもくれない陛下に、どうやってわたしが嫁ぐのです」
「議会が承認しました。明日からあなたは妃候補ではなく、婚約者です」
「……婚約者?」
いつのまに、と思う。確かにサリヴァンも、議会がどうこうと言ってはいたが。
「サリヴァンさまはかなりご健闘なさりましたが、議会の承認を覆すには、猊下の一声がなければならない。しかし、猊下はなにもおっしゃらない。猊下も承認なされたことを、サリヴァンさまがおひとりで覆すことは不可能です。尤も、サリヴァンさまは猊下に逆らうことなどできませんから、猊下がなにもおっしゃらなかった時点で、議会の承認は取れたも同然でしたが」
「……猊下とは、どなたのことです? 祭神殿の神官長さまのことですか?」
サリヴァンもルカイアも、ことあるごとに「猊下」と誰かのことを出す。誰のことを言っているのか、ツェイルにはさっぱりわからない。
「この国では、猊下とお呼びするお方は、おひとりしかおられません」
「神官長さまではないと?」
「神官長よりも偉大です。古の王、聖王と呼ばれているお方のことを、われわれは猊下とお呼びするのです」
聖王。
それはお伽噺に出てくる、神々の長、天の王のことだ。子どもでもそのお伽噺を、伝説を知っている。幼い頃にその話を必ず聞いて育つので、ツェイルも知っていた。
しかし、お伽噺で伝説の聖王が、実在するとは誰も聞かない。
「おられる、のですか」
「この世にそのお姿を見せられた、と言ったはずですが?」
「ですが……お伽噺だと」
「長らくお姿がありませんでしたからね。もともと、人前に出てこられるお方でもありませんし、神ですから」
神がいる。
天恵は神の恩寵であるから、この国では神の実在が信じられているが、ツェイルは信じていなかった。天恵など要らなかったと思ったことがあるくらいなので、一時期は恨んだことすらあるからだ。
「サリヴァンさまのおそばにいれば、あなたもそのうちお逢いする機会がありましょう」
「わたし、などが……」
逢えようもない。ツェイルは神を信じていないのだ。恨んでしまうのは疲れるから、信じないことにしているのだ。
「あなたは明日からサリヴァンさまの婚約者、一度は猊下にお逢いせねばなりませんよ。あとの話は追々いたしましょう。或いはサリヴァンさまからお聞きください。今はとにかく、婚約なされたことをお喜び申し上げます」
にっこりと、白々しく祝辞を述べるルカイアに、ツェイルは呆然とした。
なんだか、ここに来て驚かせられることばかりで、どれから片づけていけばいいのかわからないほどに、情報を詰め込まれている気がする。まるでルカイアが、ツェイルを深みにはめて戻れなくさせているかのようで、その罠にツェイルは美事はめられたようなものだ。
今さら、引き返すことなど、できないのではなかろうか。
帰ることなど、できないのではなかろうか。
それに、ルカイアはなにか、まだツェイルに伝えていないものがある気がしてならない。隠しているかのようなそれを、ツェイルは知らなければならないものだと感じる。
帰ればよかったと、思ってももう遅い。
ツェイルはルカイアの策に乗せられてしまった。
帰りたい。
兄や姉、弟や妹に逢いたい。
あの頃の日常に、戻りたい。
その言葉は、声にならなかった。