Plus Extra : 皇弟近衛騎士隊追送録。8
ナイレン視点です。
自分はけして愛されることはないとわかっていながら、それでも恋しい男のそばに在り続ける女がいる。その女は、「嫌われてないからいいのよ」と朗らかに笑ってみせた。寂しくないはずがないのに、彼女はいつだって曇りのない笑みを浮かべていた。
だから、彼女は今も、笑っている。
「ツェーイールぅ!」
「に、兄さまっ」
「ああ、今日も可愛いね、僕の可愛いツェイル」
愛している男が、最愛の妹に溢れんばかりの愛情を注いでいる姿を、彼女はひたすら笑顔で見守っていた。
そんな彼女、フィジスを、ナイレンはちらりと見やる。
「なんですの、騎士さま?」
「いや……」
ナイレンの視線にすぐ気づいたフィジスは、しかし笑顔のまま、ツェイルを抱きしめるツァインを眺めていた。
「嫉妬なんてしませんわよ」
「べつに、そういうわけでは……」
「羨ましいですけれど」
「……意味に違いはあるのか?」
「! あらいやだ……ありませんわね」
うっかり、とフィジスはナイレンを振り向いた。
「わたし、嫉妬しておりましたわ」
その顔で、と思う。どう見てもただ驚いている顔だ。
「わたし、意味のないことはしませんのに……いやねえ、不思議だわぁ」
無意識に嫉妬するのは、恋をすれば当たり前のことだと、ナイレンは恋人から聞いたことがある。フィジスのそれも、その類いだろう。
「あんたには悪いが、おれはアインの命令に従う。ツェイルになにかしたら死を覚悟しろ」
とりあえずそう言ってみたが、フィジスに堪えた様子は見られない。むしろ頬を赤く染めてみせた。
「アインさまに殺されるなら……わたし、幸せですわぁ」
やっぱり変な女だ、とナイレンは顔を引き攣らせる。
あのツァインに惚れている女はごまんといるが、その性格を知っていながらそれを口にできるのは、どこを探してもフィジスだけだろう。
ツァインが「たまに殺したく」なって、けれどもそうしないのは「フィジスなら本気で喜ぶから」と言っていた理由が、頷けた。
「ですがわたし、まだ死ぬわけにはまいりませんの。それに……」
まだ死ねない、と断言したフィジスの視線が、ツァインに抱きつかれて困っているツェイルに絞られた。
「可愛いわぁ」
なにかするつもりでは、と一瞬でも疑った自分に呆れた。
頬を紅潮させたフィジスは、ツェイルもその射程圏内に入れている。違う意味でツェイルを護らなければならないようだ。
「わたし、本当はあの子が欲しかったんですの」
「……、はっ?」
なんだと、とナイレンは大袈裟なほど驚く。あの子、というのは、目線がツェイルにあるから、ツェイルに違いない。
「女の子だったなんて……知りませんでしたわぁ」
残念、と肩を竦めたので、ナイレンとしてはホッとする。見てくれは少年なツェイルだ。兄弟が多いせいで、認識を誤ったのだろう。
「溺愛なさっているのは妹君と聞きましたから、あの子ならいいと思いましたのに……ああでも、女の子でもいいですわぁ」
「待てっ」
ふらふらとツェイルたちに歩み寄ろうとするので、慌ててツァインはその肩を掴む。
「あんたが好きなのは、アインだろうが」
「ええ。けれど、あの子も好きなのです。アインさまより先に、わたしはあの子に一目ぼれしましたのよ」
ツァインが、フィジスとの婚約をしぶしぶながらも承諾しているのは、援助云々より、フィジスのこの危険性を考えてのことではないかと、ちらりと思った。
「ツェイルは殿下の奥方だ」
「それが残念ですわぁ」
間延びした言葉は、真にその気持ちが込められているようには聞こえない。
「あんた正気か」
いや、ツァインの婚約者という時点で、変人であろうことは確定しているが、言いたくなるのだから仕方ない。
「そうですわねぇ……わたし、ほかの方と感覚が違うらしいというのは、自覚しておりますの。それを正気かどうかと訊かれますと、さあ、としかお答えできませんわねぇ」
ああ、やはり変人だ。
もしかすると、ツァイン並みに狂っているかもしれない。
思わずげんなりした。
自分まで感覚が狂い始めているのではと、その迷宮に迷い込みそうだ。
「アインさまぁ、わたしにもご挨拶させてくださいましぃ」
と、いつのまにかフィジスに逃げられた。慌てて追いかけるも、その速度に間に合わない。
「フィジスと申しますのぉ」
と自己紹介しながらツェイルに抱きついたフィジスに、ナイレンはいやな寒さを背に感じた。咄嗟に逃げを打つ身体を押さえつける。
「ああんもう、可愛いですわぁ」
「あ、あの、あなた、はっ」
「フィジスですわ、イルさま」
「ふぃ、ふぃじ、す?」
「ええ。アインさまと結婚させていただく罪な女ですわ」
フィジスはその豊満な胸を、ツェイルの顔に押しつけている。ツェイルが窒息しそうだ。
「フィージース?」
「あん、なんですのアインさま」
「死のうねっ」
恐ろしい笑みのツァインが、フィジスの襟首を掴んで、ぽいっと投げ捨てた。しかし、フィジスは強い。
「いやん、やめてくださいまし、アインさま」
なんて上手い受身なのだ、と感嘆したい。ころんと転がって上手く勢いを往なし、その反動のまま起き上がって再び突進していくのだ。
この変な女ならツァインと生きられる、とナイレンは確信する。
ツァインのあの、怪力にものをいわせて人を投げ飛ばす技は受身が取り難くて、部下たちはしょっちゅう投げ飛ばされては怪我をするのだ。あんなに上手く受身を取り、なおかつ起き上がって再び挑むなんてことは、皇弟近衛騎士隊にはできる者がいない。見習いたいものだ、と思ってしまう。
「なにごとだ」
という声に、ハッとわれに返る。振り向くと、驚いた様子のサリヴァンが、ラクウィルと帰宅したところだった。
「誰だ、あの娘は」
「フィジス・カルディナ、隊長の婚約者です」
「あれが……上手い受け身だな」
「……同感です」
視線を戻すと、投げられては転がり起き上がる、というフィジスが、未だそれを繰り広げている。ツェイルが困ったように、止めようとしている手のひらを宙に漂わせていた。
「おれ、ツァインのあの投げ飛ばし、唐突過ぎて避けられないんですけど」
「おれでも無理です」
「え? じゃああのお嬢さんだけの技ですか?」
「おそらく」
「ひゃー……すごいお嬢さんですねぇ」
ラクウィルの感嘆もわかる。ツァインに投げ飛ばされたことが数度あるらしいのだ。幸いにも怪我はしたことがないというが、それでも受身は取れないと聞いた。
「あれがツァインの婚約者か……なるほど、あれなら上手くいきそうだな」
眺めながらなにを感じたのか、サリヴァンは顔を引き攣らせつつも頷く。
「ところでナイレン、久しぶりだな?」
「は。長く御許を離れましたこと、お詫び申し上げます」
「いや、いい。だいじょうぶだったか?」
「傭兵上がりですから」
「苦労をかけてすまない……それと、あのときツェイを連れて来てくれて、ありがとう」
ぽん、と肩を撫でられて、その気遣いに心が癒される。判断を見誤らなくてよかったと、安心した。
「ツェイルはだいじょうぶですか?」
「とりあえず落ち着いてはいる。妊娠による情緒不安定ということだが……おれはツェイに、いろいろな負荷をかけているからな。耐えろとは言えないし、言いたくもない。またこの前みたいになったら、迷わずおれを呼ぶか、連れて来てくれないか」
「しかし……御身に危険が」
「いい。おまえたちの判断を鈍らせたくない」
「……御意」
今回のディアル国王弟のことで、露呈してしまったことがある。ヴァリアス帝国皇弟の妻が懐妊したという事実だ。隠し続けられるわけがないとは思っていたが、こんな形で露呈されるものではなかったと、ナイレンは悔しく思う。
「妃殿下はわれら騎士隊が、全力でお護りします」
「そう気張るな。ルカも策を講じると言ってくれたし、兄上は行動を慎むと仰せだ。だがまあ……ここもそろそろ安全ではなくなるな」
「結界がある限り、邸内に侵入されることはありませんが」
「それでも、確実なものではない。今回のように、邸から一歩でも出れば、危険が溢れている」
「あまり過保護なのも、ツェイルには酷なことかと……」
「そう……なんだよなぁ」
はあ、と長く息を吐き出したサリヴァンは、そのままふらふらと前へ歩き出し、ツェイルのもとへ行く。サリヴァンを見つけたツェイルが、その表情はナイレンには読み取れないが、パァっと明るんだのはわかった。駆け寄って抱きつき、抱きしめられる。
和やかな光景だなぁと、ナイレンはつくづく思う。
「わりと元気そうでよかったですよ、ナイレン」
「ん……ああ、あれくらいでくたばっていたら、アインとはつき合えない」
「でしょうね」
くすりと笑ったラクウィルも、相変わらずの笑みを浮かべているが、疲れているような顔つきだった。
「ディアルの王弟はどうなった?」
「まだ滞在中ですよ。そもそもあの王弟サマ、瀕死の状態でヴァリアスに来たので、怪我もまだ癒えてないんですよ」
「怪我?」
それは知らない情報だなと、ナイレンは首を傾げる。
「なにがあったのかは、サリヴァンしか知りません。ただ、ディアルも平和な国というわけではないようですね」
「まあ……あの捜索隊も、おかしかったからな」
「サリヴァンと姫は本当に巻き込まれただけですね。平和が続いているからこその、問題でしょう」
「他国に攻め込まれたら危うい、か」
「同盟がありますし、属国も多いですから、それほど心配はないでしょうが……サライがシエスタさまに見限られないのは、サリヴァンがいるからだというのにね」
「ヴェルニカ帝国に、その意思があるのか?」
まさか、大国に戦を挑まれるのだろうか。そう案じたナイレンに、ラクウィルは力なく首を左右に振った。
「サリヴァンがいる限り、ヴェルニカに攻め込まれることはありませんよ。それに、ヴェルニカにも猊下と呼ばれるお方がいます。もしヴェルニカが攻めてくるようなことがあれば、うちの猊下も黙ってはいないでしょう」
ふう、と息をついたラクウィルの顔は白い。ナイレンが罰を受けていた七日間、皇城では大変な混乱があったのだろう。大きな揉めごとにしないために、それはひどい緊張が続いていたに違いない。
「ああ、サリヴァンが倒れる」
「え?」
視線をサリヴァンに向けると、ツェイルを抱きしめたままだったサリヴァンが、ツェイルごと倒れようとしていた。慌ててナイレンは、ラクウィルとともに駆け寄る。
「サリヴァンを寝室に。姫、姫も一緒に休みましょうね」
床とサリヴァンが仲良くなる前に、ラクウィルがその身体を支えて、軽々と抱き上げる。唐突に意識を手放したサリヴァンに蒼褪めたツェイルも、ナイレンが支えた。
「ツェイル、歩けるか」
「サリヴァン、さまが……っ」
ただでさえ情緒不安定なツェイルに、サリヴァンのそれは追い打ちをかけたようなものだ。
「ナイレン、姫を」
「ああ」
いつかのときのように、ナイレンはツェイルを抱き上げてしまう。サリヴァンを抱えたラクウィルと共に、ふたりを寝室に運んだ。
その場を立ち去る前に、ちらりとツァインの様子を窺えば、複雑そうな顔をしつつも感情を見せないツァインが、なにがどうしたのだと慌てふためくフィジスを押さえつけていた。