Plus Extra : 皇弟近衛騎士隊追送録。7
ナイレン視点です。
ナイレンの処罰は、やはり延期されただけだった。しかし場所はメルエイラ家の邸地下ではない。
「こぉんな大きな檻、なにに使うのかと思ったら……あなた、確かアインさまの部下の方よねえ?」
まさに美女、という言葉が似合う女性が、大型の獣用に作られた檻に入っているナイレンを見て、心底不思議そうな顔をしている。
この檻に入って七日七晩めであるナイレンは、返事をする気力もなく美女を見やり、すぐに興味を失って視線を逸らす。
「アインさまぁ? このお方、とーっても無愛想ねえ?」
ナイレンの無気力を気にすることもなく、美女は仄暗いこの場所にはそぐわない明るい声で、不機嫌なツァインを振り向いた。
「きみには人見知りという言葉がないみたいだね、フィジス」
「あらん。そんなことないわよぉ? わたし、あなたの最愛の妹君にお逢いしたことがありませんから、これから逢えるのかと思うと畏縮してしまいますもの」
「……逢うのが楽しみで?」
「ええ、そうですのぉ」
誰もが見惚れる美しい笑みは、人見知りをしているようには思えない。ツァインの婚約者であるフィジスは、誰にでもその愛嬌をふりまき虜にする美女であるが、愛に蕩けた笑みはツァインにしか向けない商家の娘だ。
「フィジス、席を外してくれる?」
「ええ? このお方とお楽しみしてしまわれるんですの?」
「殺されたいのかな、フィジス」
「いやんもうかっこいいわぁ、アインさま。愛しております」
「明日には帰るから、ちゃんと車を手配しておいてね」
「もちろんですわぁ。わたしもご一緒するんですもの」
「来なくてもいいんだけれどね」
「今夜は来てくださります?」
「うん死のうね、フィジス」
「ああんかっこいいですわぁアインさま。ではわたしはこれで。騎士さま、ご養生くださいましね」
生死のやり取りをしている自覚があるのかないのか、はたまたナイレンのこの状態をどう受け取っているのか不明であるフィジスは、しかし満面の笑みでツァインに口づけするとさっと身を翻し、この仄暗い場所から姿を消した。
「……フィジス嬢とは相変わらずのようだな」
「たまに本気で殺したくなるよ、うん」
「それも相変わらずか……」
「殺さないけれどね。フィジスなら本気で喜ぶから」
いったいどんな仲なのだ、と言いたくなるが、ふたりは半月後にでも婚姻が成立するだろう仲であることは確かだ。
「それにしても、きみも相変わらずだね、ナイレン。その忍耐力と体力としぶとさには舌を巻くよ」
ナイレンはごろりと転がって、その視線を不服そうな顔をしているツァインに向ける。
「おれは傭兵だぞ。七日程度でくたばると思っているのか」
ツァインの命令で、牢ではないが檻に入れられて七日七晩めの今日、究極に腹は減っているナイレンだが、至って元気である。これが平気でなければ、そもそもツァインの部下などやっていられないのだ。
「きみは捕縛されるということをよく理解している。そして如何にして脱走するかも、よく心得た騎士だ。仕方ないから明日の朝にはそこから出してあげるし、食事も用意してあげる。帰路にも就かせてあげるよ」
不機嫌そうな顔のままツァインは笑ってもみせたが、この仄暗さではそれも曖昧に見える。さすがに目がいかれてきたかもしれないが、意識はしっかりしているナイレンだ。
「しかしね……きみにはもう一つ、処罰を与えなくてはならないな」
「なんのことだ」
「ツェイルに無理をさせた。おかげでツェイルは今、寝台から離れられない。どう責任を取る?」
十日前のことを瞬間的に思い出し、ナイレンは唇を歪める。
ディアル・アナクラム国の人間が起こした事件は、ナイレンがサリヴァンに進言したことがそのまま実現され、ツェイルを襲撃した者はディアル国の王弟が片づけた。どう片づけたのかその詳細をナイレンは聞き及んでいないが、おそらく無事に祖国へ帰ったわけではないだろう。事件を起こした原因ともいえる王弟は今もまだヴァリアスに滞在しているらしいが、王弟がヴァリアスにいることはディアル国やヴェルニカ帝国に報告され、その滞在を公式的なものにして改めて夜会が催されたとのことだ。
とりあえず目先の問題が片づいたので、ナイレンはこうして七日七晩の処罰を受けている次第である。
「おれは間違っていなかったと、確信がある。後悔はない。おまえの好きにしろ」
「そうだよねえ、きみならそう言うよねえ」
ツァインは微妙に怒っている。なぜ微妙かといえば、ツァインの報復はある程度達成されているからだ。ツェイルを襲撃した者のひとりは、王弟が片づける前に、ツァインが始末している。ナイレンと会話したあの魔法剣士だという男だ。しかし王弟にはサリヴァンの命令が思いのほか強かったために手を出せなかったので、微妙なのである。八つ当たりする場所を探しているようなものだ。
ついでにいえば、情緒不安定なツェイルを、ナイレンがサリヴァンのところへ連れて行ったことも、気に喰わないらしい。いや、気に喰わなくてどうしようかと苛立っている。
「ねえナイレン、きみにとっての罰は、どんなものかな」
本人にそれを訊くか、と呆れたいところだが、あらゆる訓練を幼い頃から受けているナイレンに、肉体的精神的苦痛を与えたところであまり効果が得られないことを、ツァインはわかっている。わかっていながら七日七晩、食事の一切も与えず暗闇に放置したのは、それが必要な処罰であったから、というだけのことだ。処罰、という名目が、近衛騎士隊に所属していることで必要性が生じただけであり、中身はどんなものでもよかったのだ。
「死ねと命じればいい」
本気でナイレンを罰したいならば、それしか方法はないぞ、とナイレンは肩を竦めた。ツァインはやはり不愉快そうだ。
「死にたいの?」
「べつに」
「生きたいの?」
「世界が面白いなら」
「はああ……きみの価値観はよくわからないな、ナイレン・ディーディス」
「おれもおまえの価値観はよくわからないな」
世界が面白いか、面白くないか、その基準で生きているナイレンと、最愛の妹ツェイル以外はすべてがどうでもいいと考えるツァイン。そこにある共通点は、互いに極端だというところだろうか。互いに互いの価値観がよくわからないのは、当然かもしれない。
「逆に問うが、おまえは死にたいか?」
「いいや」
「生きたいか?」
「ツェイルが生きているなら」
「おれたちの価値観は違う。そうだろう、ツァイン・メルエイラ」
「……もっともなことだね」
ツァインはふっと、皮肉げな笑みを浮かべ、檻の前にあった簡素な木椅子にどっかりと座った。そうしてどこからか大小の酒瓶を取り出すと、小さなほうをナイレンに投げて寄こした。それを空中で受け止めたナイレンは、小さく息をつきながらもありがたく頂戴する。
「中身は果実水だから」
「……ひどいな」
「いくらナイレンでも、呑まず食わずの七日間はきついだろうからね」
罰を与えるのはやめたのか、それともその方法を考えることに飽いたのか。どちらでもいいと思いながら、果実水だという瓶の中身をゆっくりと仰ぎ、咽喉を潤おす。さすがに七日ぶりの食事は美味い。
「ナイレンはしぶといよね、昔から」
「おまえのそばにいるからな」
ツァインという狂った男の部下で在り続けた結果が、ナイレンという人間を構築するのだ。文句があるならツァインに言え、と思うので、責任はツァインにある。
「あのね、ナイレン」
ふと、酒瓶を仰ったツァインが、その顔を小さく灯った明りに照らしながら、随分と真剣な声を出した。
「僕はフィジスと結婚するけれど、メルエイラ家はトゥーラに譲るつもりでいる」
「……、トゥーラに?」
いきなり飛躍した話題に、一瞬だが呆気に取られる。
「もちろんトゥーラが成人してからの話だよ」
「なんでまたそんなことを考えた」
「僕はツェイルのために在るから」
もっともな答えだ。ツァインの考えていることといったら、ツェイルが産まれたときからツェイルのことだけなのである。
「……フィジス嬢は?」
「わかっているよ。それなのに僕を愛していると口にする女だ」
「報われないな、フィジス嬢は」
可哀想に、こんな男に惚れて。と肩を竦めれば、ツァインも同じように肩を竦めてみせた。
「たまに殺したくなるけれど、嫌いではないよ」
「……それだけが救いだな」
本当にこんな狂った男のどこがいいのだろうと、思う。そんな男の部下である自分も同類だろうが、ツァインの「嫌いではない」という言葉は救いだ。ツェイル以外に感情を動かさない男に、きちんと認識されているのだ。最大級に喜んでいいだろう。
「それにね、トゥーラに譲るのは、それで僕ら一族が滅びるからだ。メルエイラは本当の意味で、故郷を得ることになる」
「つまり?」
「国外に網を張ろうとしたら、メルエイラの生き残りが思いのほか数を減らしていてね。この瞳の色を持つ者は、死に絶えていた」
それは、と言いかけて、口を噤む。メルエイラ一族に関わった者として、ナイレンにも感慨深く思うことはあるのだ。
「その色は、もうおまえとツェイルだけか」
「やっと滅びることができる」
「……喜ぶところか?」
「僕らの滅びを望んだのは世界だ。望みを叶えてやるんだから、喜ぶところだろう」
ナイレンは喜べない。ただ人よりも戦闘力に優れていた、いや身体能力が高かった狩人の一族が、偏見を持たれ迫害されて、逃れに逃れて辿り着いた帝国で、けっきょくは死に絶える運命にあるのだ。
抗い続けた意味はなんだというのだろう。
彼らの努力を世界は、神は、なぜ否定するのだろう。
なりたくて人殺しの一族になったわけではないというのに、その罪を押しつけるのはおかしくはないかと、ナイレンはたびたび思う。
「メルエイラという一族を助けるために現われた天恵、だと認識していたのだがな。おまえのその天恵は」
「最初はそうだったのかもしれないね。もしかしたら、今こうして僕が殿下に仕えているように、殿下の御許にいるためのものだったのかもしれない」
天恵は天の恵み、神の気紛れによって与えられるものだ。その現われ方は一様でなく、皇族やメルエイラ家がそうであるように血筋に現われる天恵もあるが、一般的に血筋とは関係なく個々に天恵は現われるものだ。
メルエイラが滅ぶのなら、それは神の意向であるかもしれない。それは否定できないだろう。ツァインやツェイルは、出逢うべくしてサリヴァンに出逢ったのかもしれない。
「殿下にはメルエイラの力が……おまえとツェイルの力が、必要だということか」
「これが宿命だなんて、閣下は気づいていないだろうけれど」
「それは殿下も同じだろう」
「まあ、そうだね。猊下も絡んでいるのだろうなぁと思うと、なにも知らない殿下や閣下が不憫に思えてくる。踊らされたメルエイラは滑稽だろうね」
「天に踊らされた?」
「実に滑稽だ。まあ裏を返して言えば、僕らメルエイラはこの国に必要な力だった、というところかな。あまり嬉しくないけれど」
「……国を護る力だろう」
「殿下を護るということはそういうことかもしれないね。でも、嬉しくはないね」
ツァインの口が、不愉快気に歪む。顔は笑っているのに、それは自嘲のようにも思えた。
「ヴァリアスを故郷にすることはできても、真の故郷はもう存在しないんだから」
悲しいのだろうか。寂しいのだろうか。それは哀愁なのだろうか。
ツァインの笑みは、その腹を読ませなかった。ただ、嬉しくはない、ということだけが、ツァインの真実ではある。
「宿命を呪うか、アイン」
「メルエイラの運命を知る者なら、呪うかもしれないね。けれど、僕には関係のないことだ。もう滅びるんだから、どうでもいいしね」
「トゥーラにそのことは言ったのか」
「いいや。メルエイラは、一族としてなら、僕の代で滅びる。トゥーラが知っている必要があるのは、その歴史だけだ。まあ地獄耳なトゥーラのことだから、教えなくてもわかるかもしれないね。けれど、それだけだ。メルエイラ一族は世界から消える。これからのメルエイラは、サリエ皇弟殿下に仕えるただの侯爵家だよ」
それは決意であるとか覚悟があるとかではなく、当然というものだった。当たり前というものだった。そうなることが確定されていたから、疑う余地すらないということだ。
寂しくも悲しくもないのか、と問おうかと考えて、やめた。ツァインなら「どうして?」と、心底不思議そうな顔をするだろうから、その意味は通じないのだ。
「まあ、おれはおまえたちを見ていられたら、それでいいからな」
「なにそれ」
「世界が面白ければそれでいい。面白くないなら潰して、面白くするだけだ」
「……はは、きみらしいね」
「おまえも似たようなものだろう」
「まあ、ね。ツェイルがいてくれるから、世界をいとしいと思える」
珍しい言葉を聞いた。ツァインが、ツェイル以外に対して「いとしい」なんてそんな言葉を使うなんて、今までにないことだ。
「この世界がいとしいか」
反芻するようにナイレンが口にすれば、明りに照らされていたその顔に、綻ぶような笑みが浮かぶ。
「いとしいよ」
たったひとりの少女のためにある感情は、少女を緩衝剤にして、ツァインの感情を世界に向けて突き動かしているように思えた。