07 : 声にならない言葉。1
泣くというのは、とても疲れるのだと知った。体力をひどく消耗するのだと知った。
心を、思い切り曝し出すのだと、知った。
ひどい倦怠感と爽快な気分、どちらも味わった泣くという経験は、ツェイルのなにかを変えた。
夜襲され大泣きした日から二日。
後宮の端にあった居室から移動した先は、それまでの居室から見えた光景と変わりなく、露台の向こうには森のような強い緑が見える。違うのは、構造と広さ、そして住人である。
「リリ、茶」
午後も中頃、体調が万全になったらしいサリヴァンが、当然のごとくリリにお茶を頼む。そして当然のように、ツェイルの向かいの長椅子に腰かける。
「……、どうした?」
「いえ……」
この二日、ツェイルのそばにはサリヴァンがいた。政務で部屋を開ける以外、ほとんどその身をツェイルのそばに置いている。
ただし、なにかするわけではない。
ツェイルは立場上、一緒にいるという形にはなっているが、なぜサリヴァンがいるのだろうと思うくらいで、いつものように本から視線を外すことはないし、掃除をするリリに邪魔にされて部屋の隅でリリを眺めていたりする。サリヴァンは、そんなツェイルを見るともなく眺めていたり、目を閉じて転寝してみたり、手許に書類を持ってきて仕事をしていたりする。
つまるところ、ツェイルとサリヴァンには特に会話がなかった。それが気まずければ問題があるのだろうけれども、その気まずさも感じないくらいにふつうに互いを認識しているから、困ったものだ。
「おまえ、教師をつけられてないのか」
「……、はい?」
今日ものんびり本を手に読んでいたら、運ばれてきた茶を飲みながら、サリヴァンに話しかけられた。
「教師だ。ルカにつけられなかったのか」
「ここに来た初日にいろいろと質問されて、答えましたら、教師はいりませんね、と」
「生粋の貴族ではなくとも、作法は学んだか」
「得意ではありませんが、一通り。父がそこだけは厳しかったもので」
貴族特有の礼儀作法は、生粋の貴族ではないからこそ、厳しく躾けられた。しかしながら、付け焼刃であることには変わりないので、厳しかったとはいっても、猫被りする厳しさを教えられただけである。よく見れば至るところに襤褸がある。
特にツェイルは、完全なる猫被りだ。本来は部屋に引き籠もるのではなく、外で元気に走り回るか兄や弟と剣術に勤しむか、とにかく一日中身体を動かしているほうが好きなので、ここでの生活は正直きつい。リリの好意で服装が自由なところだけが、救いだった。
「……おれの前で、貴族の礼を取る必要はないぞ」
なにを思ったのか苦笑したサリヴァンにそう言われ、猫被りがばれた気がした。
「貴族の令嬢は、侍女に怒られて部屋の隅に逃げない。本を読むとき、椅子に両足を置かない」
「あ……」
「服装はもちろん礼装が基本であるし、いくら貧乏な貴族でも子女は下衣を穿かないものだ」
ツェイルは、自分が規格外の娘であることをわかっている。貧相な身体つきが天恵の代償ゆえのことであっても、それに似合った性格をしていると自負しているので、困ったことになったことがない。
しかし、今は困った。
サリヴァンがふつうにそばにいるものだから、うっかりふつうに過ごしていたのである。それにリリもふつうだったせいで、掃除を始めたときには手伝おうとしていつものように怒られ、いつものように部屋の隅に逃げた。あまりにもいつも通りに過ごしていた。
「今さら両足を椅子から下ろしても無駄だぞ」
ぎく、と身体が強張る。こっそり椅子から両足を下ろそうと思ったのに、先に言われた。
「おれに緊張するということがないらしいな、姫は」
「多少は、緊張して、いるのですが」
「そのわりには、自由だな?」
「……どれが不敬にあたるのか、実はよくわからないもので」
「おれが怒ったときに不敬だと思えばいい」
「それでは遅いかと」
「なら、おまえの心がけ次第だな。自分でこれは不敬だと思わない限り、それは不敬にならない」
いいことを言う。
なんて自分勝手な納得方法だ。
「……不敬ではないと、おっしゃるのなら」
「ん?」
「わたしを、妃候補から外してください」
この二日、考えていたことがある。
ヴァリアス帝国は、男尊女卑ではない。すべてがそうではないが、実力主義的なところがある。男女問わず、力にものを言わせることができる場合すらある。おそらくは天恵が、男女関係なく同率で出ることが関係しているのだろう。帝国騎士団、帝国術師団、どちらにも男女が同比率で在籍している。ただ、それぞれ心持ちが違うので、女性にそれらしさを求め、男性にそれらしさを求めるのは、個人の自由だ。
ツェイルが、自分が規格外の娘だとわかっていても平然としていられるのは、この国の風習のおかげだった。
だから、思うのである。
「騎士に、なろうと思うのです。陛下の騎士に」
「……おまえの場合、術師のほうだと思うが」
「どちらでもかまいません。わたしを妃候補から外し、騎士にしてください」
ルカイアに求められたメルエイラ家の力。
ツェイルが妃候補とされたのは、ツェイルが女だからという理由だろう。兄が近衛騎士団にいるとしても、ツェイルもその天恵を持っているわけだから、そばに置く措置として妃は妥当だ。サリヴァンは未だ婚姻どころか、側室すらいないため、そういう形になってしまったのかもしれない。
「……おれは、求めるつもりはないと、言ったはずだが?」
「自ら差し出すのなら、それは求められたことになりません」
「必要ない」
ばっさりと切られた。
しかし、めげてなどいられない。
サリヴァンがなにを言おうが、なにを思うおうが、ツェイルは家族を護りたい。サリヴァンの言葉や命令は絶対であろうけれども、同じくらいルカイアの言葉も絶対であろうとツェイルは思うのだ。
皇帝であるサリヴァンよりも、ルカイアのほうが恐ろしい。
そう思うのは、きっと、ルカイアのあの強い瞳を見たせいだろう。ツェイルが家族を強く想うのと同じくらい、ルカイアはサリヴァンを強く想っている。己れがそうであるから、ルカイアの気持ちがわからなくないのだ。
「わたしを、騎士にしてください。陛下を、この国を、護らせてください」
「おまえ……」
サリヴァンはうんざりとしたように、その綺麗な顔を少し歪めた。
「ルカに攫われるようにして連れて来られたくせに、なんで自分を売り込み始めるかな」
「護りたいからです」
家族を。
郷里となったこの国を。
「わたしには、護りたいものを、護れる力がある」
それを教えてくれた、サリヴァンを、護りたいと思う。
「天恵を使わずにいられるなら、それに越したことはありません。けれど、使えるものなら、使わなければ」
「おまえの代償は重い。国の犠牲になるな」
「陛下も、国の犠牲になっておられる」
サリヴァンの目が、細められた。睨んでいるとも取れたが、ツェイルは怯まなかった。
「わたしの天恵は、代償を支払わなければならないものです。けれど、だからといって、代償を支払っているのに使わないなんて、損をします。使わせてもらわなければ」
「……そういう考え方もあるだろうな」
「陛下は、おっしゃいました。ラーレに広がり散らばりし天恵に、忌避すべきものなどないと。わたしは自分の天恵が嫌いです。要らないと思っていました。けれど、この天恵がメルエイラ家を護ってきたのも確か、わたしが家族を護れるのも、確かなのです」
久しぶりに長く喋った。身体を動かすのは好きでも、声を出し続ける、或いは会話するというのがあまり得意ではないツェイルにしては、頑張ったほうだ。
だから、もう少し頑張る。
「護りたいものを、護れる力がある。陛下はそれを、気づかせてくださりました。だから、使えるところに行きたいと思います。わたしを陛下の騎士にしてください」
珍しく咽喉を酷使したせいか、咽喉が渇く。それともこの咽喉の渇きは、サリヴァンの返事にどぎまぎしているからなのか。
ふと、サリヴァンはツェイルから視線を外した。深々とため息をついて、椅子に深く埋もれる。
「……夜襲のことだがな」
「はい?」
「この前の、夜襲だ」
眠り続けたサリヴァンが、突如として起きて寝ぼけたまま刺客を退けた、あのときの話をするつもりらしい。
いきなりなんだろうと、ツェイルは首を傾げた。
「どうか、しましたか?」
「ツァインの仕業だ」
「……え?」
聞き間違いだろうか。今、サリヴァンは兄の名を口にした。
「ツァインが、おまえを連れ戻すために、一族の者をあそこに忍び込ませたんだ」
聞き間違いなどではなかった。
ツェイルは瞬間的に蒼褪め、瞠目した。
「兄が……まさか」
「おれは、ツァインならやりかねないと思っている。だから特に不思議には思わないし、ツァインが裏切りを働いたとも思っていない」
「しかし……っ」
「ルカがやらせたようなものだ」
「……ルカさま、が?」
なぜそこでルカイアが出ているのか、ツェイルは震えそうになる身体を、拳を強く握ることで耐えた。
「ルカの目的は、はっきり言って、おれにはよくわからない。だが、ルカが裏切らないことだけは、わかっている。もともと、おれとルカは互いに利害が一致しているだけの、そういう関係だからな」
その、サリヴァンの言い方は、ルカイアの想いを一切無視しているようで、しかしよくわからない表現だった。
「今回の夜襲、罪を問われるのはルカであって、ツァインではない。よって、ツァインはとりあえず、自宅謹慎にしている。投獄させた刺客はメルエイラ家の者ゆえ、治療したうえで送り返してやった」
ホッとすればいいのか、焦燥すればいいのか、迷ったせいか余計な言葉が耳に入った。
「治療……送り返し?」
夜襲の犯人は血だらけで、サリヴァンは返り血を浴びていたはずであるが。
「おれは剣が使えないんだ」
「は……」
「戦場において、おれほど役に立たない剣士はいないくらいに、使えない。いくら斬れ味のいい剣でも、おれが持てばなまくらになるぞ」
言葉もなかった。
あっさりしたサリヴァンの言い方のせいもあるが、それを語る瞳にも、ツェイルから言葉を失わせるだけのものがあった。
サリヴァンの瞳は、自分の命を投げ出していた。
「まあ、おれが剣を使えないことは、どうでもいい。とにかく、そういうことだ」
肩を竦めたサリヴァンを、ツェイルは見つめた。
護らなければならない。
この人は、護らなければならない。
「へいか……」
「ん?」
護らなければ、消えてしまう。
護らなければ。
強いその想いに駆られ、ツェイルは唇を震わせる。
兄がしたことを謝罪し、処分を受けなければと思うのに、そちらの想いのほうが強くて、上手い言葉が出てこない。
「わたしを、騎士に、してください」
「……まだ言うか」
サリヴァンが呆れたため息をつく。
「なんのために夜襲の件を報告したか、意味がないな。ツァインは、おそらくはルカの黙認をわかっている。だが、だからとて、それを利用したわけではないだろう。つまりは、それくらいおまえを想って、連れ戻したかったんだ。兄の気持ちを汲め、妹」
冗談なのか本気なのかわからない兄は、ことあるごとにツェイルを妻にしたがる。僕のお嫁さんになるんだよね、と、幼い頃から言われ続けてきた。だから、兄の極度な愛情はわかっている。夜襲を仕掛ける理由になる可能性だって、大いにあり得る。
しかし、たとえ兄がメルエイラ家の者を迎えにやっただけだとしても、それは夜襲で、刺客で、サリヴァンの命を脅かしたものだ。
「下手をすれば陛下は命を奪われていたのかもしれないのに、なぜそんなことが言えるのですか」
「死んだらそのときだ。臣民の総意であるとしか思わない」
なんて人だ。
「陛下とて、ひとりの人間でしょう!」
国主は国の護り人、皇帝陛下は国の象徴。国のために在り続けることは、なんら不思議ではない。
けれどもサリヴァンは、あまりにも己れのことを軽んじ過ぎている。
「おれは死ぬ。だが、皇帝は死なない。生き続ける」
「今の皇帝は陛下です。今の話をしているのです」
まるで自分をも道具みたいに言うサリヴァンに、腹が立った。ツェイル自身も道具として見ろとサリヴァンに言っておきながら、矛盾しているかもしれないけれども、サリヴァンにそれを言われるのはなぜか、とても腹が立つことだった。
睨むように見つめると、サリヴァンは深々とため息をついた。
「……おまえには、おれが見えるだろう」
「なんのことですか」
「おまえが言ったんだ。おれが、本当に皇帝陛下かと」
ハッと、ツェイルは初対面のときの、自分が吐いた失礼な言葉を思い出す。
「あのときは……失礼いたしました。無礼なことであったと、自覚しております」
「違う」
「……はい?」
「そのうち、おまえもわかる」
サリヴァンは目を伏せると、冷めたであろうお茶を一飲みし、それ以上の言葉を紡ぐことなく立ち上がると、椅子を離れた。
ツェイルはサリヴァンの言葉を噛み砕いて解釈することに手いっぱいで、サリヴァンが部屋を立ち去ろうとしているのに気づかなかった。ハッとして顔をあげたとき、目の前からサリヴァンの姿が消えていて、驚いて視線を彷徨わせ、その姿を扉の前に見つけて呼びとめる。
「陛下!」
「……時間に猶予をやる。よく考えろ。それでもまだ騎士になりたいと言うなら、ルカに言え。言っておくが、今この時点でおまえが帰らねば、おまえは後悔することになるぞ」
振り向かずに言ったサリヴァンに、ツェイルはそれだけは変わらない心を伝える。
「騎士になると決めたことに、後悔はありません」
「……どうかな」
はっ、とサリヴァンは嗤う。
「騎士になれたとき、それは皇帝の妃という名の騎士だぞ」
「いいえ。わたしは、あなたの騎士になるのです」
「……まあ、おまえがその気なら、この婚姻は成立するだろうな」
「婚姻?」
ちらりと、サリヴァンはその透明な瞳だけ、ツェイルに振り向かせた。
サリヴァンは笑ってなどいなかった。
冷たく、ひどく寒々しい眼差しをしていた。
「議会がおまえを承認した。おれの力は、これで効力を失う」
「……、はい?」
「帰れ。おれの力は、今日までの効力だ」
ツェイルが理解し終える前に、サリヴァンはさっさと部屋から出て行った。
ツェイルは呆然とし、けれども一つだけ、理解した。
「帰れと、言われても……どうやって帰れと」
ツァインが迎えに来られる状況でもなしに、ツェイルを連れてきた本人であるルカイアにも、それはできまい。
帰れと言われても、帰れない。
それに、自分から出ていくことは、したくもない。
ツェイルは、サリヴァンを護りたいと思った。護らねば、人として危うく儚げなその人は、本当の意味で壊れてしまうだろう。
護らねばと、強く思ったその心。
ツェイルは自ら、サリヴァンにその身を捧げようと、メルエイラ家の天恵を差し出そうと、思った。
きっと、サリヴァンだから、そう思った。