Plus Extra : 国を継ぐ者。3
サリヴァン視点です。
「ツェイ……ツェイ、やめてくれ……ツェイ」
どうか、諦めてくれ。子はおまえの命を吸う。生きんがために、母から力を奪う。
たとえわが子のことでも、ツェイルのほうが大事で、サリヴァンは閉ざされた扉に縋りながらツェイルを呼び続けた。
「いやだ……子なんか要らない……ツェイ、ツェイ」
本当に、子など要らない。ツェイルを奪われるくらいなら、欲しいなんて思わない。
「ツェイぃ……」
要らない。ツェイル以外に、欲しいものなんてない。
ああそうだ、いっそこの手で、ツェイルを奪おうとしているものを、消してしまえばいい。そうすれば誰にも奪われない。
ゆらりと顔を上げたサリヴァンの、その指先が花びらへと変化しようとしたときのことだった。
「やめておけ」
サリヴァンの視界を、誰かが覆い隠した。その誰かが、自分と同じように体温が低く、しかし人間という存在から離れてしまったひとであることは、すぐにわかった。
「養父上……養父上、ツェイが……おれのツェイがっ」
聖王であり神であり、そしてサリヴァンの養父たる猊下が、サリヴァンの視界を手のひらで覆い隠していた。
「あれは、産み落とされねばならぬ」
「ツェイの命が危ないのに……っ」
「天恵を所持した者だ。おまえの」
「え……?」
「ゆえに片翼から力をもらわねばならなかった。そうせねば生きられぬ。あれの母には、つらいことであろうがな」
頭が混乱する。思考が、停止する。
猊下の言葉を理解できなかったわけではない。
「国主の、天恵が……」
ツェイルに宿った新しい命に、国主の天恵が引き継がれた。そのせいで、双子で在った命は、生き延びるために片割れの命を奪ったという。
心の奥底から、どっと暗いものが、押し寄せてきた。
「なんで……なんでおれなんだ! 兄上が皇帝じゃないか! なんで…っ…なんでおれに出るんだ!」
国主の天恵は皇族にのみ発現する特殊な力だ。サリヴァンは皇族であるから、その力を受け継いだ。だが、同じように兄サライもその力を受け継いでいる。皇族はサリヴァンだけではない。
それなのに、なぜ、サリヴァンのほうにその力が受け継がれなければならないのだ。
「おまえもまた、皇帝になるべき人間であったからだ」
「違う! おれは……おれは、捨てられたんだ。死ねと言われたんだ。死ぬことがおれの役目だったんだ! おれは皇帝ではない!」
「サリヴァン」
ひどく優しく、名を呼ばれる。視界を覆われているせいか、その声は全身を癒すように浸透してくる。
だから、その優しさに、涙が溢れる。
「養父上…っ…ツェイを、ツェイを助けてくれ…っ…おれからツェイを奪わないでくれ」
縋らずには、おれなかった。神の力が、助けが、欲しかった。
「ああ……わたしは干渉できぬが、そのために来た」
「養父上……っ」
「アルト、行け」
猊下が、言った。聞こえた「御意」という声には聞き憶えがある。
「アルトファル……」
にこりと笑った顔が、ちらりと一瞬だけ見える。金髪に碧い瞳、優しげで慈愛に溢れた光りの最高位精霊、アルトファルだ。
「だいじょうぶ、わたしが行きますから」
ふわりとサリヴァンの頭を撫でたアルトファルは、閉ざされた扉の向こうに、すっと溶け込むようにして姿を消した。
「あれは癒しの力を持つ。足りぬものを補うだろう」
「足りない、もの?」
「あの娘に繁殖の能力はないに等しい。成長しておらぬからな」
思わず、絶句する。
ツェイルは天恵の代償で、肉体の成長を奪われている。もとから子を望める身体では、なかったのだ。
「アルトがそれを成長させる。無理やり、な」
「そんな……」
そんなことをしたら、ツェイルがどうなるか。
「案ずるな。子は産み落とされねばならぬ。娘から少しばかり力を奪うがな」
「ツェイに、負担は」
「ない、とは言い切れぬ。だが、アルトがどうにかするだろう。あれでも最高位精霊だからな」
この世界で、唯一癒しの力を持つ精霊、それがアルトファルだ。けれども、どんなものでも癒せるわけではない。
そこに、ツェイルが助かるという、確たる証はない。
「ツェイ……っ」
頭が、おかしくなりそうだ。
ツェイルのことしか考えられない。だのに、いくら考えても、心が暴れる。一度は治まりかけた暗いものも、溢れだしてくる。
どうしたらいいのかわからない。
「ツェイ、ツェイ、ツェイぃ……っ」
必要なら、この命を持って行け。
ツェイルがこの手に戻ってくるのなら、なんでもする。
ツェイルが助かるなら、なんだって、厭わない。
そう、子を殺すことさえ、厭わない。
「心を病ませるな、サリヴァンよ」
猊下の言葉が、耳に遠い。
なぜだ。
そんな問いが、ただひたすら頭に巡る。
「おれを要らぬと斬り捨てた国が……っ」
死を待つだけにさせたくせに。
その意思さえも奪うかのように、腕を使いものにならなくさせたくせに。
「おれからすべてを奪ったこの天恵が……っ」
認めさえしなければ、この心は救われただろうか。
「ツェイまで…っ…奪うのか!」
要らなかった。
天恵なんて、要らなかった。
国主の刻印なんて、必要としていなかった。
こんなものがあるから、こんなものを遺されたから、国は狂うのだ。
心の底からの叫びを、嘆きを、サリヴァンは猊下にぶつける。目許を覆う猊下の手のひらも弾き、そのせいでぶるぶると震え始めた右腕が鬱陶しくて、邪魔で、動く左手でその部分を強く握る。
痛みなんて感じない。
「ツェイを返せ……おれには、ツェイしかいないんだ……っ」
こんなものがあるから、ツェイルを失いかけている。わが子を失いかけている。
これがあれば国を、ツェイルを護れると思ったのは、幻想だったのだ。
愛する者ひとりも救えない力など要らない。
こんな自分は、無力でしかない。そのことが、ただただ悲しくて悔しくて、情けなかった。
「ツェイ……おれのツェイ……いやだ、ツェイぃ」
身体を深く折り曲げると、溢れだして止まらない涙が床にこぼれ落ちた。
こんなとき、どうすればいいかなんて、サリヴァンは知らない。猊下に頼り、ツェイルの無事を祈り、嘆くことしかできない。
なんて情けないんだ。
なんて無様なんだ。
生きているというのは、もうそれだけでつらいだなんて、考えたこともなかったのに。
「殿下」
その声と共に、ふわりと肩を抱かれた。
「ヴィーダヒーデが、ガルデアを抑えつけたよ」
「ツァ……イ、ン」
ツァインの、もっとも狂ってしまいそうな兄の、その冷静で落ち着いた声は、耳に届いた。
「僕はツェイルが子を宿していることに気づいていたよ。宿したその瞬間からね」
「知って……いた、のか」
「僕とツェイルの裡には精霊がいるからね。気づかないわけがない」
「なら、おまえ……っ」
ツェイルが子を望める身体ではないことに気づいていたのではないかと、サリヴァンは顔を上げるとツァインの胸倉を掴んだ。
「なぜ黙っていた! ツェイの命が危ないんだぞ!」
「……それでも、僕は、黙っているしかないからだよ」
「おまえだって、ツェイを失いたくないだろう!」
なぜそんな真似ができる、とサリヴァンは乱暴にツァインを揺さぶったが、ツァインは表情を変えなかった。
「テューリが怒っただろ」
「は……?」
「あれはね、わかっていたからだ。ツェイルに子どもは望めないって」
「……っ、わかっていながら!」
「ツェイルが欲しいって、泣いた。一度だけ、それを知って。一度だけ泣いたんだ」
まさか、とサリヴァンは瞠目する。
「ツェイも……わかっていた、のか」
「自分の代償くらい理解している」
がんっ、と殴られたような衝撃が、心を襲う。
ツェイルがあんなに必死に、泣きながら「ころさないで」と縋ってきたのは、だからだったのかと漸く理解できた。
「そうじゃなくても、ツェイルは月のものがくるのも遅かった。きてからも、不定期だった。年に二度か三度、くるかこないか……万に一つの可能性だったんだよ、子を宿せるのは」
「な、ら……」
「わかってたんだ。子どもは望めないだろうって。だから、泣いたんだ。肉体の成長が、そこまで奪われているなんて、悲しいだろう? 一生をメルエイラで過ごす掟があったうえに、それだ。悲しくて、嘆いていて……泣いた翌日から、ツェイルの心は消えたんだ」
ツァインの胸を掴んでいた腕が、ぱたりと落ちる。右腕の震えがひどくなったせいもあるが、それよりも、衝撃のほうが強くて力が抜けた。
「おれは……なんてことを……」
夢を語った。
ツェイルに、これからのことを、語った。
娘と息子、それからもっと多くの子どもを、という、暖かい家族の夢だ。
みんなで丸くなって食事をしよう、一つの寝台にみんなで寝るんだ、出かけるときにはそれぞれ手を繋いで、みんなではしゃぐんだ。
ゆっくりと語った夢を、ツェイルは幸せそうな笑みを浮かべて聞き、頷き、自分もああしたいこうしたいと、言ってきた。だから、たくさん子どもを儲けようと、笑い合いながら語った。壊れそうだと思いながら、たくさん抱いた。こんな身体でごめんなさいと泣きながら謝られ、そのいとしさから抱き潰して、寝込ませてしまったこともある。
おれはなんてことをしたんだ、と思わずにはおれない。
「勘違いしないでね、殿下」
「……おれは、ツェイに、ひどいことを……っ」
「違うよ、殿下」
「どこが、違う…っ…おれはツェイに」
ひどく悲しい夢物語を、聞かせてしまっていたのかもしれない。
「違うよ、殿下。僕はありがとうって、言いたい」
「礼など……っ」
「僕は言ったよね、ツェイルを幸せにしてって。殿下は、ツェイルに幸せを与えてくれているよ。望めないと思っていた子どもを、授からせてくれたんだから」
「だが今はツェイをっ」
ツェイルを、死に向かわせている。サリヴァンが宿らせた命であるから、その力が出現しようとして、ツェイルの命を吸っている。
もしサリヴァンに国主の天恵などなければ、今は一つしかないという命だって片割れの命を奪うことなく、成長してくれていたかもしれないのに。
「猊下、ツェイルを助けてくださるんでしょう?」
ツァインは猊下に、顔を向けることなくそう問うた。
「わたしは干渉できぬ。だが、アルトは違う」
「精霊だから、神ではないから、光りの精霊ならツェイルを助けられるんですね?」
「確証はない」
「でも、猊下はわざわざ来てくださった。それがたとえ殿下のためであっても、産まれてくる子が国のための子であっても、猊下はその命と、命を支えるツェイルを助けるために、光りの精霊を連れて来てくださった」
「……そういうことになるな」
猊下の素気ない返事は、しかしサリヴァンの耳に、心に、届く。
「養父上……っ」
縋るように猊下を見上げれば、いつものように表情のない美しいひとが、目を細めてサリヴァンを見下ろす。
「わたしにできることは、もうない。あとはアルトに任せよ。おまえは、少し休むがよい」
最初のように、少し冷たい手のひらが、サリヴァンの目許を覆った。その瞬間に襲われた眠気に、サリヴァンは抗う。
「いやだ、ツェイが……っ」
「初めておまえの、国と天恵を恨む心を聞いた。疲れたであろう、サリヴァン。わが子よ」
「やめ……っ」
「眠れ」
どん、と身体から、力のすべてが抜けた。
「ツェ、イ……」
傾いだ身体は、ツァインが支えてくれる。
「ありがとう、殿下。ツェイルはきみのおかげで、本当に幸せになれる」
その言葉を最後に、サリヴァンは意識を手放した。