Extra : 祈り。2
サリヴァン視点です。
ツェイルの姿を厨房でしばらく眺めたあと、サリヴァンは自室に戻った。ラクウィルに用意してもらった一輪差しの花瓶にツェイルが作った飴のルーフを飾り、それを卓に置いて見るともなく眺める。
しとしとと降り続ける雨音が煩わしい。腕は痛むし、刻印が疼いている感覚はあるし、なによりこんな雨の中にいたツェイルの姿を思い出すので、なんだかいやだった。
長椅子にだらしなく埋もれていると、こんこん、と扉が叩かれて、ルカイアが姿を見せた。
「失礼します、サリエ殿下」
「おれをそう呼ぶってことは、また兄上か」
この邸がルカイアの居住地で在る以上、サライの使いとしてルカイアが現われるのは日常茶飯事となっている。むしろサライの使い以外のことでサリヴァンのところへ訪れることのほうが、今や少ない。
「後宮の取り潰しが承認され、建て替えの着工が決まりましたので」
「それで?」
「私有地の森を一部改修し、繋げるそうです」
「だから、なんのために?」
「殿下の居城です。森の離宮、と命名されました」
やはりそれか、と思う。
ルカイアのこのところの訪問は、サリヴァンを城に戻すためにサライが行っていることの報告と、そのための説得である。そんなことをしている暇があるなら政務に勤しめ、と思うのだが、言っても聞いてくれない状態だ。
「諦めろ。おれは城に戻らない」
「困ります。この国には、城には、殿下が必要です」
「おれは、戻らない」
この会話は、いつも繰り返される。どちらも引くつもりがないために、延々と続くのだ。
しかし、今日は違った。
「では仕方ありません」
諦めたような言い方をしたのはこれが初めてで、サリヴァンは怪訝に思って長椅子から背を起こした。
「ヴァルハラ家所領地の剥奪をここに」
なに、とサリヴァンは瞠目する。
「ルカ、おまえ……っ」
「これはサライ陛下の勅令です」
そう言って、ルカイアは卓の上にその書類を置いた。目を通すと、国璽の印とともにその内容が書かれてある。
「おれは国を出ないと、出られないと、言っただろうが」
「殿下の安全のためです」
「おれにはラクとツァインがいる。ツェイがいる。これ以上ない安全圏にいるだろうが」
「それでも、なにが起こるかわかりません。どうか陛下のおそばに、そして猊下のお言葉を賜りたく、ここにお願い申し上げます」
そんなのは願いでもなんでもない、ただの脅迫だ。
「おれは、自由を望むことも……許されないのか」
「いいえ、殿下は自由です。ですが、その御身……皇族であるとご理解ください」
国の象徴とも呼べる花の、刻印がある。国主の天恵がある。それがここまで自分を国に縛るとは、思ってもいなかった。
「すべてが、縛られるのか……おれは」
ツェイルが現われるまで望みもしなかった自由を、天恵を認めることで得たつもりでいた。いや、得たと言えるだろう。国主の天恵を持ち、その刻印が身体に根づいている限り、サリヴァンはこの国の最高権力者だ。なんでも自由が効く。
けれども。
サリヴァンが欲しいのは、そんな自由ではない。
「諦めるのは、おれのほう……か」
どこか遠くへ行きたいと思った。それが叶わなくても、国中を見て歩いて、護るべきものをこの目で確かめたいと思った。
そのためには、サリヴァンは城に戻らなければならないらしい。
先帝の愚行によるその罪によって、次を恐れたサライやルカイア、重臣たちの思惑は、どうしてもサリヴァンを城に留めようとする。その姿を城で見なければ、安心できないのだろう。
「ご理解ください、殿下。サライ陛下は、不安なのです」
「……国主が消えることか」
「いいえ、ご自身の弟が、心配なだけです」
「十八年、おれの存在を知らなかっただろうに」
「だからこそです。おわかりください、殿下。殿下が国主であられることは議会も承知のことですが、それでも帝位を奪わんとしていると愚かな勘違いを持つ者もいます。サライ陛下は、それを危惧しておいでなのです」
「そのためにツェイをおれに嫁がせ、ツァインの弱みを握ったのはおまえだろうが」
「殿下をお護りするためです」
「おまえの目論見どおりになった。それでも満足しないか」
「足りないくらいです」
ルカイアは、国主を失うわけにはいなかいという考えが強い。
昔からそうだ。サリヴァンをサライの身代わりに仕立てあげるときも、国を護ることしか考えてない行動を取った。
国のために存在しているのは、サリヴァンやサライよりもむしろルカイアのほうだと、サリヴァンはいつも思う。
「……今度はなにをする気だ」
「はい?」
「断り続けて、それが通るとは思ってない」
利用できるものはすべて利用する、それはルカイアの持論のようなものだ。
「……そうですね」
ふと、ルカイアは視線を逸らす。少し考えたのち、にっこりとした笑みをサリヴァンに向けた。
「手足を潰しましょう」
それは、瞬間的にサリヴァンから血の気を引かせた。
「なんのことを、言っている」
「さあ。なんでしょうね」
誤魔化したルカイアに、気づくとサリヴァンは掴みかかっていた。
「ツェイになにかしてみろ……おれの狂犬たちは国を潰す」
「ツェイルさまにはなにもしませんよ。それがあなたの弱点だとわかっているのに、なぜそんな真似をしなければならないのですか」
安全は保証しますよ、とルカイアは笑う。つまり、そういう意味ではないということだ。逆を言えば、サリヴァン自身になにかするということでもある。
「わたしの目的はただ一つ……そして願いもまた、ただ一つです」
「国の安寧なら、おれが生きている限り、この天恵が皇族の誰かに引き継がれるまで、続くものだ」
「そうです。皇族のどなたかに、それは顕われます。そのどなたかが、あなたの御子かもしれません。あなたは国主であられ、そして皇族なのですから」
「兄上の御子かもしれない」
「それはわかりません」
先帝は、皇帝国主の刻印を持った弟を殺め、その座を奪った。そうして自分は、皇帝国主の刻印のある子どもをふたり儲け、ひとりを殺そうとした。
サライの子が、サリヴァンの子が、ふたりのようにならないとは限らない。なにせふたりに刻印があるのだ。どちらかが刻印のある子どもを儲けるかもしれないし、あるいはふたりと同じように産まれてくるかもしれない。
さまざまな可能性を、完全に否定することなどできやしないのだ。
「少しくらい、夢を見てもいいだろう……っ」
幸せ、というものが、どんなのものなのか、サリヴァンにはよくわからない。けれども、そうなりたいと願ってしまう。
だからツェイルに惹かれた。
ツェイルとなら幸せになれると思ったから、ツェイルだから幸せになれると思ったから、それを願い夢を見た。
愛する者と、笑いながら生きるその夢を。
「……その夢を、そばで確かめたいと思ってはいけませんか」
「え……?」
「わたしもサライ陛下も、国の中枢から離れることができません。だから、あなたにそばにいてもらいたいのだと……そう思っているだけですよ」
胸元を掴んでいたサリヴァンの手をそっと離すと、ルカイアは困ったように笑って、「それだけですよ」と繰り返す。
「今日はこれで失礼します。後日お迎えに上がりますので」
サリヴァンの意思を無視した言葉を告げ、ルカイアは背を向ける。そのまま部屋を出て行ったが、サリヴァンはなにも言えなかった。
あれが、ルカイアの本心なのだろうか。
そう感じたから、なにも言えなかった。
すとん、と長椅子に腰を落とし、頭を抱えて深く息を吸い、そして吐き出す。
呼吸のようにすべてが上手く流れてくれたらいいのに、と思った。
「失礼しますよ、サリヴァン」
と、ラクウィルが顔を出した。
「姫がいつのまにか出かけちゃいました」
「出かけた? どこに」
顔を上げてラクウィルを見ると、さあ、と肩を竦められた。
「雨降りですし、視界もあまりよくないですから、そんなに遠くへ行ったわけじゃないと思いますけど……」
「追いかけろ」
「そのつもりです。見つけたら天恵で飛ばしますか?」
「雨脚がひどかったら、そうしてくれ」
「わかりました。あ、サリヴァンはどうします?」
探しに行きますか、という問いに、少し考える。
「……ツァインと出る」
「ああ、そういえば姫が出かけるまでそばにいたみたいなんですよねぇ……まあ、とりあえずおれは先に出ますよ」
「ああ」
返事をしてサリヴァンは再び長椅子に埋もれると、煩わしく思う雨音を聞きながら瞼を閉じる。そうすると感じるものが、近くにあった。
ぱち、とサリヴァンは目を開く。
「行くぞ、ツァイン」
それだけ言って、長椅子から立ち上がる。薄手の上着を羽織ると、部屋を出て玄関に向かった。
「僕は行きたくないんだけれど」
玄関の扉を開けてすぐ、ツァインがそこに背を預けながら立っていた。
「ツェイの行き先を知っているだろう」
「……まあね」
「おれを連れて行け」
本気でいやそうな顔をしたツァインは、しかし無言でサリヴァンに傘を差し出した。