52 : やさしい響き。
サリヴァンとの婚姻が、本当の意味で成立した。
ツェイルがそれを理解したのは、具合が悪いままサライとダヴィド大老になにやら言われた日の翌日のことだ。実はもう十日ほど経つらしいが、起きていることだけで精いっぱいだったツェイルには、それを理解するだけの思考力がなかった。
だから、理解した瞬間に驚いたのと同時に、喜びで胸を詰まらせた。
皇帝の婚姻は公式的に発表されることはなく、またサリヴァンがヴァルハラ公爵であることは伏せられていたが、ヴァルハラ公爵の婚姻は公式に発表されるという。
それはつまり、ツェイルの婚姻はサリヴァン自身とのものということを意味していた。
「ここまで騙しおおせたのが奇跡だ。いくらおれと兄上が似ているとはいえ、別人だからな」
シェリアン公国の問題を綺麗に片づけたら、サリヴァンは皇帝の座をサライに返し、ヴァルハラ公爵に戻ると言った。その後はツェイルを連れて、ヴァルハラ公爵家が治める領地の片隅に居を移すという。
サリヴァンがそれを決めたとき、その身には変化が起きていた。
「ああ……誤魔化せなくなってきたか」
それを見たツェイルに、サリヴァンは笑った。
「国主だと認めてしまったからな……その副作用とでも言えばいいか」
サリヴァンの淡い金色の髪が、いつのまにか金ではなく銀に輝くようになりつつあった。
「兄上やルカはおれが国を離れると心配しているようだが……無用な心配だ。こうなってはもう、おれは国から出られない」
「出られない……?」
「皇帝とは国の象徴……国主とは、国の礎だ」
「礎……」
「国の礎だから、ルーフを咲かせることができる」
ぽん、とサリヴァンはルーフを一輪咲かせ、いつかのようにツェイルの髪に飾る。
「おれはこの国の礎になった」
「……、え?」
「だからもう、国を出られない。兄上の身代わりも限界だ」
サリヴァンは微笑んでいた。しかしその笑みがなにを意味しているのか、ツェイルにはわからない。
「天恵を制御できている今のうちに、旅行でもしておいたほうがいいかもしれないな」
どこに行こうか、と訊かれた。
もう夏だから、北のほうにでも行ってみようか、と言われた。
「……サリヴァンさま」
「ん?」
「どういう、意味ですか」
「なにが?」
とぼけているのか、そうでないのか。
ツェイルはじっとサリヴァンを見つめ、そうしてサリヴァンが話してくれるのを待った。
ふと、サリヴァンはツェイルから視線を外す。
「言っただろう。国主の刻印に傷がつけられたせいで、作用すべき力の半分が失われたと」
「はい」
「おれが国主だと認めさえしなければ、おそらくそれは起きなかった」
「……それ?」
サリヴァンの視線がツェイルに戻る。困ったように、サリヴァンは笑った。
「代償の支払いだ」
「……え?」
「おれはじきに天恵を制御できなくなる……この髪が完全に白くなったとき、本来なら必要のない代償の支払いが始まるからな」
なぜ、という疑問が真っ先に浮かぶ。
「国主の天恵が正常であれば、代償など支払わなくてよかったんだ」
「正常……?」
「傷をつけられた、からな」
サリヴァンは、右腕を使えない。それは手のひらのほうにまで支障をきたしていて、筆や剣を一時的に握ることはできても、動かし続けることができない。だから大抵は左腕ですべてをこなす。左手で筆を扱い文字を書き、剣もツェイルが使っているような小ぶりなものであれば扱うことができた。
痛めつけられたサリヴァンの右腕は、そこにある刻印の作用まで狂わせ、挙句に代償まで求めようとしている。
「だからおれは、国を出られない。それが代償で、正常ではない天恵にしてしまったゆえのことだから」
髪の色素が抜けていくのは、その前兆だという。皇族特有の白金の髪を失い、国の礎たらんことのみを求められるようになるらしい。
つまるところ、サリヴァンの命は、国が左右するということだ。
「……どうして、サリヴァンさまばかり」
「先帝の愚行は、現帝が償わねばならない……それだけのことだ」
嘆く必要はないし、その理由もない。
サリヴァンはそう言う。
けれども。
どうしてサリヴァンばかり、とツェイルは思ってしまう。
どうしてサリヴァンばかりに、こんなにも重責がいくのだろう。
「そんな顔をするな、ツェイ」
「でも……っ」
「いいんだ、ツェイ。おれはこれで」
「サリヴァンさまは悪くない……っ」
「いいんだ」
いいんだよ、とサリヴァンは繰り返す。
「おれが国の礎になったことで、おまえの故郷を護ることができる。おまえの家族を護ることができる。おれのこの命が、この国を通して、おまえのために使われるんだ」
それはとても幸せなことだと、サリヴァンはただひたすら優しく微笑む。
「いつまでおまえといられるのか、それはわからないが……死ぬまで、そばにいてくれるだろう?」
当たり前だ、とツェイルは強く頷く。
死ぬまでではなく、死んだあとだって、ずっとそばにいる。生まれ変わることがあるなら、そのときだってずっとそばにいる。
「ありがとう、ツェイ」
ふわりと、頬をサリヴァンの手のひらが包む。
「おれと出逢ってくれて、おれのそばにいてくれて」
「サリヴァンさま……」
間近に迫ったサリヴァンの顔にどきどきしながら、それでもツェイルはその声と言葉を聞き洩らさないよう、必死になって耳を澄ませる。
「ツェイ」
ちゅ、と額にサリヴァンの口づけが降る。その柔らかさは、とてもくすぐったかった。
「愛している」
ああなんて、優しい響きだろう。
なんて、嬉しい音だろう。
「わ……わたしも、サリヴァンさまが、好き、です」
告白すると、一瞬だけ目をまん丸にしたサリヴァンは、しかし次には今まで見たこともないような幸せそうな笑みを浮かべた。
「知ってる」
そう言うと、ツェイルを深く腕に抱き込んで、首筋に顔を埋めた。
「もう二度と離れないから」
おれにおまえのすべてをくれないか。
そう囁かれた。