51 : 侍女思慕録。
リリ視点です。
リンリィ、という名の本来の持ち主が、ある精霊だと知った日から、その名が嫌いになった。嫌いになったその理由はよく憶えていない。けれども、その精霊の名だから嫌い、ということだけははっきりとしている。
だから。
『……なにをしているのですか、リリ』
両親に早くに死なれて居場所を失った少女は、しかし誰の引き取り手もなく、両親と関係があったらしい人たちのところを転々としていた。どうやら家の爵位が問題であったらしいと知ったのは、ひとりで生きていこうと決めて居候先から飛び出したあと、その人に出逢ってからのことだった。
『……わたしのことですか?』
『おや……違いましたかね。わたしはあなたをリリだと、認識していますが』
リンリィだ、と言えなかった。言いたくもなかった。リリという愛称は、リンリィという名を嫌ってしまった娘のために、両親が呼んでいた名であったから、その名で呼ばれるのは久しぶりのことだった。
どうしてこの人は、その名を知っているのだろう。
そう思ったくらいにして、リリは名を訂正しなかった。
『どなたですか?』
『ルカイア・ラッセです』
『……ラッセさま、わたしになんの用ですか?』
『未来の夫に、ラッセさま、はないと思いますよ』
『……は?』
『迎えに来てみれば姿が見えず、まさか家出でもしたのかと探せば当たりとは……行動力があることはよいことですが、その軽装備で家出はやめておいたほうがいいですよ』
なにか変なことを聞いた気がしたが、ルカイア・ラッセと名乗ったその人の、呆れ果てたような声と表情がとても気に食わなくて、無視を決め込むことにして背を向けた。
けれども。
『……リリ?』
誰もその名で呼んでくれなかった。だから、呼ばれたことがとても懐かしく、思いのほか嬉しいものであり、そのため無視しようと思った矢先に、決意は挫かれてしまった。
『……放っておいてください……わたしはひとりでも生きてゆけます』
『……そうですか』
『では、失礼します』
持っていた僅かな荷物を持ち直して、リリは歩き出す。
誰でもいい、その名を呼んでくれる人がひとりでもいてくれるのなら、自分は大丈夫だと思った。
ルカイアが後ろをついて来なければ。
『……あの、ラッセさま?』
『ルカでいいですよ。その家名、わたしは嫌いなのでね』
『はあ……では、ルカさま。なぜわたしについてくるのですか』
『未来の妻に逃げられそうなので、捕まえておこうかと思いまして』
『……つま?』
そういえば先ほどは自分を未来の夫だとか言っていたような、と思いつつ、足をとめてしまったのが悪かった。
『帰りましょうか、リリ』
にこ、と笑ったルカイアに、リリの幼い身体は容易く抱き上げられてしまう。
『きゃあ!』
『帰りますよ』
『やっ……やだ、帰らない!』
『家出をするなら、わたしのところからにしなさい』
半ば強制的に、リリはルカイアに担がれて家出の延期を余儀なくされた。
降ろして欲しくて暴れても、リリのそれはルカイアに簡単に往なされてしまい、車に放り込まれたあとはぎっちりと手首を掴まれたせいで、逃げられなかったのだ。
『ここ……は』
『わたしの住まいですよ。これからはあなたの住まいにもなります』
連行された先は、こじんまりとした邸だった。いや、邸というにはあまりにも質素で、リリが両親と暮らしていた家よりも遥かに小さかった。
それだけでなく、どうやら貴族らしいルカイアのその邸には、なぜか使用人が夫婦一組しかいなかった。
『出て行きたければ出て行きなさい。ただ、あなたのような小娘がひとりで生きていけるほど、この世界は甘くありません。ひとりで生きていくと、そう豪語するのであれば、その程度に見合う力を身につけなさい』
邸に連れて来られた日、ルカイアにそう言われた。
自分の考えが甘かったとは思わない。けれども、ルカイアの言うことも正しいということはわかった。
だからリリはひとりで生きていくための力を、身につけることにした。
ただ、その力を試す日が来る前に、ルカイアからの頼みを引き受けることになっただけで。
『メルエイラをご存知ですか』
それは、ルカイアの下で、ひとり生きていくための勉強を始めて数年が経ち、侍女としても騎士としても生計が立てられるだろうというくらいになったときのことだ。そのときにはルカイアが公爵家の次男であることも、皇宮に出入りできるくらいの地位にあることも、すべて理解していた。
『メルエイラ……皇の剣であったメルエイラ家のことですか?』
『皇の剣をご存知なら、だいじょうぶですね』
『なんですか?』
『頼みたいことがあるのですよ』
『……ルカさまが、わたしに?』
ルカイアは、なにを考えているのかよくわからなかったが、リリを連れてきたときの言葉を違えず、リリがやりたいように、その力と知識を望むだけ与えてくれた。
頼みたいこと、という言葉は、そんなリリの日常の中で、とても不思議な言葉だった。
『あなた、侍女としてかなり優秀でしょう』
褒められているのだろうか、と疑問になる言葉だったが、比べる相手もいなかったリリは特に返事もしなかった。
『わりと剣の腕も立つようになってしまいましたし、適任だと思いましてね』
『適任、ですか……』
とりあえず侍女をしているリリだが、剣の腕もそれなりだ。ひとりで生きていくと決めてその勉強を始めてから、あらゆるものに手を出していたのである。皇宮務めだろうが傭兵だろうが、なんでもこなせる自信はある。
『陛下の妃に、メルエイラの娘を推挙しようと思います』
『……お妃さま?』
『ええ。あなたには、そのメルエイラの娘の侍女として、後宮に入ってもらいたいのです』
『わたしが、お妃さまの、侍女っ?』
そんな、と思ったが、そのときのルカイアの表情はとても冷たくて、そして同時になにかの炎を瞳の奥に隠していた。
『おそらく陛下はメルエイラの娘に見向きもしないでしょう。ですが、陛下にはメルエイラの力が必要です。なんとしてでも、メルエイラの娘には陛下のそばにいてもらわねばなりません』
『それは……わかる気もしますが』
ルカイアが誰を「陛下」と呼んでいるのか、リリは知っている。知っているからこそ、ルカイアのその目的もなんとなくわかってしまった。
『メルエイラの娘はわたしに従うでしょう。ですが、どうなるかはわかりません。そのときのために……あなたには侍女として、メルエイラの娘のそばにいてもらいたいのですよ』
『監視しろ、ということですか』
『それもありますが……いざというときは、娘を連れて国を出なさい』
『えっ?』
『メルエイラの力が手に入らなかったそのときは、この国も終わりですからね』
どういうことか、理解できなかった。
『……なんて顔をしているのですか』
『だ……だって、ルカさま』
ふっと、ルカイアは目を細めて微笑む。
『だいじょうぶですよ。わたしはずっと、あなたの夫ですから』
カッと、頬が熱くなる。
『そういうことではありません!』
夫とか妻とか、そういう言葉は出逢った頃に聞いたきりで、だから本気で言ったとも思えなくて、驚いた。
『そういうことですよ。わたしはこの国のために在りますが、あなたはわたしのために在ればいいのですから』
『ルカさまっ』
『今回ばかりは言うことを聞きなさい、リリ』
『説明してくださらないと、意味が理解できません!』
『そのままの意味ですよ』
そっと頬を、撫でられた。
『メルエイラの力が手に入らなかったとき、この国は神の加護を失い、滅びるでしょう。いえ、正確には皇族の方々から、天恵が失われることでしょう。先帝の愚かな行いのせいで、この国から真実の皇帝が失われるのです。わたしはそれを防がねばなりません。あの方々には……サライさまとサリエさまには、なんの罪もないのですから』
『……ルカさま』
『メルエイラにはサリエさまを護ってもらいます。娘はあなたが護りなさい、リリ。あなたはわたしの妻なのですから、夫の責任はあなたのものでもあるのです』
勝手な、と思った。まさかこのときのためにリリを養育していたのだろうかと、そうまで思った。
けれども。
なんの感情もなく、ルカイアのところにいたわけでは、ない。
『もしもの話をしてもよろしいですか』
『なんです?』
『もしこの国が滅びるときがきたら……ルカさまはどうするのです』
『わたしの責任は、先帝の愚行を止められなかったことです。この命は国のために、そしてサライさまとサリエさまのために、使わねばなりません』
『では、もしその逆の事態になったら?』
じっと、リリはルカイアを見つめた。
外では心を読ませない笑顔を振りまくが、家に帰ってくるとその笑顔が消えることを、リリは知っている。ここで暮らし始めてから、まともにルカイアの笑顔を見たことがないのだ。
だから、今このときのルカイアの微笑みが、嘘ではないこともわかる。
『あなたは二度と、家出などできなくなりますよ』
『……は?』
予想外な答えに、目が丸くなる。
確かに家出の常習犯ではあるが、なぜかその日のうちにルカイアに居場所を知られて、上手く言い包められ邸に連れ戻されてしまう。それでも家出を繰り返すのは、ひとりで生きていくと決めているからだ。
『きっとわたしは、誰よりも業が深いことでしょう。それでも、求めずにはいられない……可哀想に、リリ』
『……なぜ、わたしが可哀想なのですか』
『わたしに見つけられてしまったからですよ』
なんのことだろう。家出のことだろうか。
そう思ったが、その疑問を口にすることはなかった。いや、口にすることができなかった。
有無を言わさず口を塞がれたから。
暴れても泣き喚いても、離しませんよと、耳許で囁かれてしまったから。
わたしはこの人を拒絶できないのだ、と気づいたのは、己れの感情がやはりそうであったと、改めて思い知ったときだった。
「そういうわけなので、あなたにその娘の教育をしてもらおうかと思いましてね。近いうちに……おや、具合が悪そうですね」
「そう見えるのでしたら、座らせてください」
「どうぞ?」
「ありがとうございます」
はあ、と息をつきながら、リリは宰相の執務室にある長椅子に、不敬なことではあるが座らせてもらう。
「今頃ですか」
「なんのことですか」
「一度、エーヴィエルハルトの診察を受けなさい」
「なぜですか」
「おや……自覚がないのですか」
「はい?」
「わたしは、二度と家出などできなくなりますよと、言ったはずですがね」
それは半年前に聞いた言葉であったが、未だ理解できていないものでもある。
「まあいいでしょう。エーヴィエルハルトにはわたしから言っておきます」
「公爵さまに侍女の面倒など」
「彼は婚姻を機に子爵になります。地位的には、わたしよりも下ですよ」
「そういうことではなく」
家柄の問題もあるが、ハルトはサリヴァンの主治医だ。ただの侍女であるリリが面倒をかけられる人ではない。
「諦めなさい。あなたはわたしの妻でしょう」
「いつから妻に?」
「はて……いつでしたかね」
「え?」
婚姻の書類に名前など書いた憶えはないのだが、とリリはとぼけているルカイアを凝視する。
「確か、あなたが成人したその日のうちに、婚姻は成立していたと思いましたが」
「……うそ」
「本当ですよ」
しれっと言われて、頭が真っ白になる。
だが、考えてみると、いい歳のルカイアにその手の話が舞い込んでこないことに、合点がいった。
「だからあの日、あなたを抱いたわけですし」
「なっ……なんてこと言うんですか!」
「そもそも、サリヴァンさまにリンリィ・ラッセと呼ばれたそのときに、気づくものでしょう」
「だ……だって、それは、養子に入ったからと……っ」
「婚姻したからですよ」
「……うそ」
「本当ですよ」
やはりしれっとルカイアは言う。
なんだか言い包められてばかりのような気がするのは、きっと気のせいではない。
「エーヴィエルハルトの診察は受けなさい。わかりましたね?」
頷きたくはないが、頷いておいたほうがいいのかもしれない。本当にルカイアと婚姻したのなら、リリは侯爵家の妻だ。
「……わたしは、ツェイルさまの侍女を、やめたくありません」
「ええ、かまいませんよ」
「いいのですか?」
「家出されるよりましです」
やはり言い包められている、気がする。
「……あの」
「なんです?」
「わたし、ツェイルさまを二度も、攫わせてしまいました」
「そうですね」
「それでも、ツェイルさまをお護りしたいと、本気で思います」
「あなたがそう思っていることは、サリヴァンさまも承知ですよ。だからあなたはツェイルさまの侍女なのです」
「なぜわたしだったのですか?」
「言いましたでしょう。あなたが、わたしの妻だからですよ」
本当にそれだけ、なのだろうか。
眉間に皺を寄せて俯くと、その眉間をルカイアが指で突いてきた。
「ひとりで生きていくのは、難しいでしょう。ですがあなたの場合、決意が固過ぎる」
その言葉を、リリは黙って聞いていた。
「縛りたくなるのも当然と、思っていただきたいものです」
「しばる……?」
「わたしは優しい人間ではありませんからね。利用できるものはすべて利用します。わたしに見つけられてしまったあなたはには可哀想なことをしますが、まあ諦めておしまいなさい」
眉間を突いていた指が離れると、今度は手のひらがリリの頤を包み、緩い力で顔を上げさせられる。
「あなたがいるからわたしは目的を遂行できる。すでに共犯者であると、自覚なさいね」
「……閣下」
「ルカですよ、リリ」
「……ルカさま」
「なんです?」
「ルカさまの目的とは、なんですか」
問うと、にっこりと笑ったルカイアは、その手を離して窓辺のほうへと歩いて行く。
「この国を護ること、ですよ」
「本当に?」
「おや、嘘に聞こえますか」
嘘ではないだろう。どうしてそこまで、と思うくらい、ルカイアは国のためにばかり動いている。その姿を、もう幾年も見ている。
ルカイアは窓から外を、そして下のほうのなにかを見つめながら、目を細める。
「……ラクウィルが言うのですよ」
「……、侍従長?」
「あんたはそれでも人間ですか、とね」
「……なぜ?」
「さあ……目的のためならなにを犠牲にしようが厭わない、そんな性格のことを言っているのでしょうね」
だから、とルカイアは微笑む。
「わたしはすべてを護るだけですよ」
それができるのはきっと、自分だけだろうから。
リリにはそう聞こえた。
「ああ……今度はいかにしてサリヴァンさまを国に留めるか、考えねば」
「……サライさまがツェイルさまを攫ったのは、それが目的だったのでしょう?」
「サライさまは不器用ですからね」
くすくすと笑うルカイアが、見ているもの。それが気になって長椅子を立ったリリは、窓辺に歩み寄ってルカイアの隣に並ぶと、眼下を見つめた。
「幸せそうに笑っていらっしゃる……」
サリヴァンとツェイルが、手を繋いでルーフの中を歩いていた。
ルカイアはサリヴァンの微笑みを、リリはツェイルの穏やかな表情を、それぞれしばらく眺めた。
「……リリ」
「はい」
「護りたいと、思うでしょう」
「……はい」
あの微笑みを、あの穏やかさを、護りたいと思う。そこに嘘はない。
「わたしたちは、あの方々を護らねばなりません……なにも知らずにいた罪は、永劫なのですから」
ルカイアがその身にひとりで背負っているもの。
それをリリに分けようとしている。
いやではないと思うから、この感情は厄介だ。
「承知しております」
目を伏せて礼を取ると、ルカイアの手がリリの肩に回る。
「可哀想に、リリ」
それはなにに対するものなのか。
謝罪もなにもなく、ただリリを憐れむルカイアに、それでもリリは厄介な感情を取り払うことはできない。
身を寄り添わせながら、リリはルカイアと一緒に、幸せそうなふたりを微笑みながら見つめた。