50 : 手をつないで。
ツェイル・レイル・ヴァルハラは、ヴァルハラ公爵家では目立ちもしない娘である。特出しているところは一つもなく、容姿はまあ見られなくもないふつうで、背丈もまあふつうだろうという、つまるところ目立つ要素が一つもない地味な娘だ。
ただ、社交界には姿を見せないという変わり者のヴァルハラ公爵に嫁いだ娘であるから、その一点でさまざまな噂が飛び交おうとしていた。
「頼みたいことがあるのだよ、ツェイル嬢」
アウニの森の中にある館の一室で、ツェイルは偉大なふたりを前にぼんやりとしていた。
「このたび、めでたくツェイル嬢はわが弟サリエと婚姻した。これを機に、サリエを皇佐として招きたいと思う。あれはいやがっているが、ツェイル嬢からの声があれば頷くだろう」
サリヴァンの兄であり、ヴァリアス帝国皇帝であるサライ・ヴァディーダ・ヴァリアスはそう言った。
「あれが国主である事実は動かんしのう。それに、サライだけで国は護れん。サリエの力も必要じゃ」
サリヴァンの後見、つまりヴァルハラ公爵家とも縁が深く、さらには皇族の親戚にあたるという大卿、エインズレイ・アイル・ダヴィレイド、ダヴィド大老もツェイルにそう言ってきた。
しかしながら、ツェイルはふたりの話を、ほとんど聞くことができない状態である。
「そういうわけでツェイル嬢、このことをサリエに……と、ツェイル嬢?」
「おや娘よ、どうした?」
自分たちの意見ばかり述べることに夢中だったふたりは、気づけなかったのだろう。
ツェイルは今、最高潮に具合が悪かった。いや、正確には体調不良なのではなく、ものすごい負荷が身を蝕んでいるせいで、ふつうに身動きもとれない状態だった。
「ジーク、ツェイル嬢の様子がおかしいのだが……なにかあったのか?」
ツェイルは、ぼんやりとした視界で、自分をここへ連れてきたその人影を見つめる。
ジークフリート・レイル・カリステル。
医師ハルトの兄であるらしいジークフリートは、ラクウィルが持っている《天地の騎士》という称号を同じく所持する、サライの騎士だという。前に一度アウニの館に来たとき、扉の前で控えていた騎士だ。あのときは特に気をつけて見なかったが、こうして間近に接すると、ハルトに似た雰囲気を感じる。
しかし。
「ふっつうに居室にいたから、連れてきただけだけど」
口は悪いがツェイル以上にぼんやりとした眼差しのジークフリートは、ツェイルを自身の天恵で強引に連れてきたときも、口調とは裏腹にやる気がなさそうだった。
目の前の光景が変わる直前、ジークフリートに連れ去られるツェイルをリリが目撃してくれていたので、今頃はツェイルがアウニの館にいることはサリヴァンに伝わっているだろうが、追いかけてきてくれるまでにはもう少し時間がかかりそうである。
サリヴァンが迎えに来てくれるまで意識を保てるだろうか、と思いながら、少しでも気を抜くと倒れそうになる身体を、ツェイルはひたすら抑えつけた。
「……、あ」
「なんだ、ジーク」
「姫さんの裡に、精霊がいるなぁ……気づかなかった」
「精霊?」
「攻撃性の強い精霊だなぁ……それも二対……ふむ、こりゃやべぇかも」
「……ジーク?」
「サライ、逃げねぇとやべぇぞ、たぶん」
「なんのことだ?」
「というか、そろそろ退避しねぇとサリエに……いや、ラクウィルだな。奴におれが殺される。おれ、まだ死にたくねぇから、逃げねぇと」
漸くツェイルの裡にいる精霊たちに気づいたジークフリートが、ぼんやりとした眼差しをひそめ、周りを警戒しはじめたが、動けないツェイルはなにもできない。
ツェイルは精霊、ヴィーダガルデアを単体で宿している状態であれば彼の力に己れの天恵を付加させて使うことができるが、ツァインの精霊であるヴィーダヒーデまで宿らせているときは、まったく天恵が使えない。むしろ、宿らせておくことが精いっぱいで、まともに歩くことすらできない。
この天恵封じはツァインにも適応するが、ツェイルと違ってツァインはふつうに成長した身体、いわば成体であるゆえか、僅かな時間でその状態から回復し、ふたりの精霊を宿らせておくことに慣れてしまう。
ツァインと身体の成長度が違うツェイルでは、この状態は天恵が封じされているだけでなく、身体をも拘束されているようなものなので、ツェイルが及ぼせる危険はなに一つとしてない。
ゆえに、サライやジークフリートが危惧すべき事態は、サリヴァンとラクウィルがここに駆けつけてきたときのみである。
ところが。
「こんにちはぁ、ジークフリート」
ツェイルが気づいたときには、鈍色に光った剣が、ジークフリートの首にぴったりと添えられていた。
「げぇ……最悪ぅ」
「おれにはあんたと同じ天恵があるんですよ、ジークフリートぉ? あっちこっち飛べちゃう便利な天恵がねえ」
「あぁあぁ……だぁからいやだったんだよー……こいつ、おれのことずーっと斬りたそうにしてるしさぁ」
非常に残念そうなジークフリートが、剣の持ち主であるラクウィルに恨めしそうな顔を向ける。
「どこから侵入した、狂犬!」
「おれはここに踏み入れることを許された天恵者ですよ、サライ。どの天恵も、ジークフリートみたく、使えちゃうんですよねえ」
にこぉ、と意地悪く笑ったラクウィルだが、その目は笑ってなどいない。サライは不気味そうにしていた。
ラクウィルが来てくれたということはサリヴァンも、とツェイルはその姿を探すが、どこにも見当たらない。どうして、とラクウィルを見つめると、ごめんね、とでも言うかのように苦笑された。
「連続で呼ぶことになっちゃうから、サリヴァンの負担がきついんですよ」
そういえば、本来はラクウィルが持つ限定の天恵であるから、その天恵がないサリヴァンが飛ぶのは負担が大きいと言っていた。アウニの森に初めて来たときも、ふたりを運んだサリヴァンはナサニエルに注意されていた。
サリヴァンが来られなかったことは残念だが、そういうことであれば仕方がない。
寂しいけれども、我慢である。
「おれは姫を取り戻しに来ただけなので、今日のところはこれで失礼しますね。ダヴィド大老、お戯れもいい加減にしませんと、サリヴァンに嫌われますよ」
「わしは大好きじゃから、問題ないのう」
「うわ傍迷惑。じゃ、そういうことで。……ジークフリート、次に姫を攫ったら、容赦しないので覚悟していてくださいね」
剣の柄で、ガツッとジークフリートの腹を殴ったラクウィルは、呻いて倒れた彼を放置して、ぼんやりと見守っていたツェイルに歩み寄ってくる。
「帰りましょうね、姫」
そう言って、恭しく手を握られる。
帰る、と頷いたときには、アウニの館に連れて来られたときのように、一瞬で光景が変わっていた。
「ツェイ!」
とたんに聞こえた声に、ホッとする。姿を探して視線を彷徨わせれば、どうやらサリヴァンの私室の居間であるらしいそこで、ツァインに羽交い締めされたサリヴァンを見つけた。
「離せ、ツァイン!」
「えぇー……楽しいのにぃ」
「楽しくない、離せ!」
じたばたと足掻いたサリヴァンを、ツァインはやや不満そうにだが、解放する。
「ツェイっ」
身体が自由になったとたんにツェイルに駆け寄り抱きしめてきたので、ツェイルはホッとした。
サリヴァンの腕の中は、とても安心できる。
「ヴィーダヒーデ、そろそろツェイルから出てきてくれる? 暴走していないときにきみが裡に入ると、ツェイルはしんどいからね」
サリヴァンにぎゅうぎゅうに抱きしめられていると、ツァインがそう言ってくれた。
「まだガルデアが不安がっているのよ」
するりと姿を見せたヴィーダヒーデに、ぽんぽんと頭を撫でられる。視線を上げれば、空中に漂うヴィーダヒーデと目が合った。
「……ガルデアをツァインに移動させたほうが賢明かしら」
「男なんてごめんだ!」
「精霊に雌雄はないわよ。外見はこうだけれど」
「見た目が男だ! いやだね!」
と、ツァインがヴィーダガルデアの受け入れを拒否するので、ヴィーダガルデアは常にツェイルの裡にいる、らしい。
「仕方ないわね……ツェイル、ガルデアを少し眠らせるわ。その間、力を貸してあげられないけれど、許してくれるかしら?」
特に問題はないので、こくん、と頷いた。
本来は精霊がいなくても、天恵は使えるものだ。それにたとえ使えなくても、ツェイルには剣がある。ヴィーダヒーデとヴィーダガルデアのふたりを宿らせておくよりも、ずっと楽なことだ。
ふわっとツェイルの頭を撫でたヴィーダヒーデは、そのままツァインのほうへと飛んでいく。
「おかえり、ヴィーダヒーデ!」
「……あたし、あなたのそういうところ、大好きよ」
「僕はツェイルの次くらいに、きみが好きだからね」
「そういう代償なのだけれど……その素直なところが、よ」
言いながら、ヴィーダヒーデがツァインの裡に帰っていく。
その姿が消えると同時に、ツェイルは身体が楽になったことに気づいた。
「また一段と小さくなったか……無茶をさせたな」
そう言ったのはサリヴァンだ。
「ツェイルがそうなったのは殿下のせいですから、僕は謝りませんよ。というか、僕が謝るところなんて一つもないですし? むしろ僕が殿下を責めたいですね」
「……ラク、追い出せ」
「あ、ひどっ! って、なにするんですか、侍従長!」
なぜか嬉々としたラクウィルがツァインを追い出しにかかった。それはほかの近衛騎士たちが響いた物音に驚いて駆けつけてくるまでの騒動に発展したが、ふたりの取っ組み合いを見て、なぜかナサニエルを筆頭にみんなが笑いながら呆れていた。
「おふたりとも、天恵は発動させないでくださいよー。もの壊したらラッセ宰相閣下が鬼になりますからー」
「今度また窓割ったら、そのときは隊長と侍従長の自腹らしいですからねー」
などと、近衛騎士たちは楽しんでさえいた。
少しだけ襤褸になりながらも、ナサニエルほか近衛騎士たちも手を貸して漸くツァインを拘束したラクウィルが勝利を収めたとき、リリの「静かになさってください!」の一言が部屋中に響いた。
「ツェイルさまは安静にしていなければならないのに、騒ぎ立てるとはなんですか! 遊ぶなら外で遊びなさい!」
それはもうルカイア以上の鬼であったらしいリリに、ラクウィルやツァインを始めとした近衛騎士たちは慌てて逃げていった。
「ご無事でなによりです、ツェイルさま。またわたしのいない隙を突かれて……申し訳ありません」
リリは、一度ツェイルが攫われたときから、張りつくようにしてツェイルのそばにいるようになっていた。それでも一瞬の隙を狙われてしまったことが悔やまれるようで、表情はいつも以上に硬かった。
しかし、今回はサリヴァンの兄サライとその騎士、そしてダヴィド大老によるものであったし、そうでなくともリリひとりでツェイルの世話をしているのだから、仕方のないことだ。ツェイルは首を左右に振り、サリヴァンもわかっているようで、責めるような雰囲気はなかった。
「……リンリィ・ラッセ」
「はい、陛下」
「おまえはこれの?」
「侍女です」
「おまえのほかには?」
「おりません」
「おまえひとりで、ツェイのすべてを世話できるわけではない。おれの事情を知り、かつ安心してツェイの世話を任せられる者はおまえひとりだ。それなりの責任は取ってもらうが、おまえひとりを責めるつもりもない」
「……ありがたきお言葉、感謝いたします」
「下がっていい。あとでルカから、話があるだろう」
「御意」
リリを下がらせると、部屋はとたんに静寂に包まれた。
ツェイルは、リリの責任とやらが気になり、サリヴァンの服を引っ張って視線で説明を促した。
「ああ……侍女がひとりでは、やはりなにかと不便だ。ルカもそれは感じていたみたいで、厳選した者をひとり見つけてきた。それの教育をさせるだけだ」
本当に、と念を押すと、サリヴァンはふっと微笑んで「ああ」と答え、いつか見せてくれたように、ポンと白いルーフの花を一輪咲かせた。
咲かせたルーフをツェイルの髪に飾ると、足許を確認しながら露台へと促される。窓を開けた向こうには緑と、そして一面の白いルーフが咲き乱れていた。
「これも見おさめだな」
え、と思って顔を上げると、ただ緩やかに微笑んだサリヴァンが、緑を見渡していた。
「兄上とダヴィド大老の暴挙……ジークフリートにツェイを連れ出させたのは、おれがこの城を去ると決めたからだ」
城を、去る。
その意味がわからないツェイルではない。ぼんやりではあるが、皇佐にする、力が必要だ、とサライとダヴィド大老の言葉を聞いたばかりだ。城から出ていかないようにして欲しいというようなことも、言われた気がする。
「もともと、限界がきていた……おれと兄上が似ているとはいえ、けっきょくは別人だからな。この五年、おれが兄上の身代わりであることを知られないようにするために、誰かに逢うのは極力避けていたが……ヴェルニカ帝国の国主には簡単に見破られた。あちらもおれと同じ国主で、確かな皇帝だから当然だ。弱みにはされなかっただけマシ……と言えるな」
戦争を吹っかけられないだけいいと、サリヴァンは苦笑する。
同盟が結ばれていることと、古来敵対しているのではなく協力し合い、共に成長してきた国同士であるから、むしろ心配されたという。
「ヴェルニカはいい国だ……シエスタは嫌いだが」
ヴェルニカ帝国がよい国であることと、皇帝シエスタが苦手であることは、また別の話になるらしい。
「ヴァリアスもいい国だ。おれの国だ。護りたいし、護らなければならない国だ。だが……おそらくおれは、じきに天恵を制御できなくなる」
右腕を前へと緩やかに伸ばしたサリヴァンは、ギュッと拳を握った。
そういえばツェイルは、サリヴァンが天恵者であることは知っているが、国主の天恵であるルーフの花を咲かせること以外、なにも知らない。
「猊下に言われたことがある……国主の証である刻印に傷がついたせいで、作用すべき力の半分が失われている、と。兄上と分割されているせいもあるだろうが、それでもおれの場合、国の加護がなくば力に呑み込まれる」
どういう意味だろう。
サリヴァンの場合、ツェイルのように精霊を宿したり、或いはラクウィルのように精霊と契約したりするような天恵ではないようなので、サリヴァンに働く天恵がどんなものか、ツェイルにはよくわからない。
制御できなくなる、呑み込まれる、というその意味がわからない。
「まあ、おれのほうに国主の天恵が出て、幸いだな。兄上では無理だ。この天恵は支えきれない」
ふっと苦笑したサリヴァンは、ツェイルの目には悲しく映り。
仕方ない、と肩を竦める姿が、寂しかった。
だからツェイルは、ぎゅっとサリヴァンの服を握って、ひとりではないことを主張する。
「ん……なんだ、ツェイ。このところはほとんど喋らなくなって……まあ、もともとおまえは喋るのは不得手だったか」
会話が苦手だった頃に戻ってしまっている。その自覚はあるので、こくん、と頷いた。
べつに声が出せないわけでも、言葉が思いつかないわけでもない。ヴィータヒーデとヴィータガルデアが裡にいたせいもあるが、そうでなくともその気力がなかったこともあり、そのままになっているだけだ。
「まあいいか……おいで、ツェイ」
喋らないツェイルを気にした様子もなく、こっちに、とサリヴァンに手を引かれて、露台を降りる。
手を繋いで、ただゆっくりと、ルーフの中を歩いた。