48 : 不確かなもので。1
目を覚ますとそこは真っ白で。
「ん? ああ、起きたね、イル」
聞こえた声は、弟トゥーラのものだった。
「イル姉さま、起きた?」
トゥーラに続いて妹シュネイの声も聞こえて、ツェイルは寝台から身体を起こすと、弟妹の姿を探した。
「食事する? それともまた眠る? どれでもいいよ、好きにして」
随分と冷たい言い方をするトゥーラだが、本当は優しいと知っているので、ツェイルはとくに気にもせず首を左右に振った。
「ふぅん? じゃあ、起きるの?」
こくん、と頷くと、トゥーラは読んでいたらしい本を閉じ、すたすたと部屋を出ていった。
「イル姉さまっ」
ひょこ、と顔を見せたシュネイに、その距離の近さに少し驚きつつ、ツェイルは首を傾げる。
「目を覚ましてくれて、嬉しいわ。あたしね、ウーラ兄さまと一緒に、イル姉さまの精霊にお願いしたのよ? イル姉さまを起こしてって」
にこにこと微笑んで言うシュネイは可愛らしくて、ツェイルは「そうか」と頷きながらぽんぽんとシュネイの頭を撫でる。くすぐったそうに肩を竦めたシュネイは、衣装に皺がつくのも気にせず寝台に上がってくると、ツェイルの前にちょこんと座った。
「綺麗になったわ、イル姉さま」
なにをいきなり、と思うが、シュネイはとても嬉しそうに笑ってばかりだ。
「素敵な人と、巡り逢えたのね。羨ましい。あたしにもそういう人、早く現われてくれないかしら」
うふふ、となにがそんなに楽しいのかと思うほどに、シュネイは可愛らしい笑みをこぼす。
「ねえ、イル姉さま。あたし、本当に嬉しいの。お胸がちっちゃいままなのは残念だけれど、イル姉さまが綺麗になって、すごく、嬉しいの」
だからね、とシュネイは続ける。
「あたし、幸せよ」
その言葉に、ツェイルは目を見開いた。頭が真っ白になるくらい、驚いた。
「ウーラ兄さまもね、無愛想で口も悪いけれど、すごく幸せだって言ってたわ」
あのトゥーラも、とさらに驚く。
「イル姉さまを一番に心配してたのは、ウーラ兄さまよ。アイン兄さまやユーリ姉さまもそうだけれど、ウーラ兄さまが一番だわ。イル姉さまはひとりでなんでも抱え込むから心配だって、いつも顔に書いてあるもの」
だから無愛想なのよ、とトゥーラの一面を、シュネイは教えてくれる。
もしかしたら自分たちきょうだいの中で、もっとも幼いはずの少女が、いちばん聡いのかもしれない。
「余計なこと言うな、ネイ」
「あら、本当のことを言っただけよ、ウーラ兄さま」
部屋を出ていったはずのトゥーラが、いつのまにか戻って来ていた。その手には随分と厚い本と、細かく切り分けられた果物を入れた皿を持っている。
「ほら、イル。これなら食べられるだろう」
果物はツェイルのために用意してくれたものらしく、トゥーラは皿をツェイルとシュネイの間に置くと、自分はシュネイの隣に腰かけた。
「それ食べたら、また眠ればいい。アインとユーリが来ないように、おれとネイで見張ってるから。ヒーデとガルデアも協力してくれる」
そう言うなり、トゥーラは親指と人差し指で切り分けられた果物を摘み、ツェイルの口に押しつける。
「食べろよ。数時間置きに、ネイが用意してたんだ。無駄にするな」
食べものを粗末に扱うな、と言われてしまったら、家訓にも等しいそれを反故にすることもできない。ツェイルはしぶしぶ押しつけられた果物をゆっくりと租借し、その潤いにホッとしながら嚥下した。
「全部食べろとは言わない。けど、せめておれとネイが安心するくらいは、食べろ」
二つだけとはいえ弟とは思えない口ぶりに、とても懐かしい気持ちが込み上げてくる。
二口めの果物は、シュネイに口まで運んでもらった。
「美味しいでしょう? ハクトウっていうのよ」
美味しい。頷けば、シュネイもトゥーラも、安心したように微笑んだ。
「あたしとウーラ兄さまにもちょうだい?」
「ネイ」
「いいじゃない。ね、イル姉さま」
あーん、と口を開けて待っているシュネイに、ツェイルは微笑ましく思いながらハクトウという果物の欠片を食べさせた。もう一つ手に取ると、トゥーラにも差し出した。
「……仕方ないな」
満更でもなさそうなトゥーラも、口を開けてくれたので入れてやる。
ふたりしてハクトウを租借すると、美味しい、と言ってまた微笑む。
そんな光景を見ていると、なんだかとたんにどっと安堵感が込み上げてきた。
「ん……イル?」
「イル姉さまっ」
ふたりが同時に驚いたので、どうしたのかと思って首を傾げたら、ぽたりと手の甲になにかが落ちた。視線を落とせば、ぽたぽたと手の甲に水たまりができていく。
ああ、もう枯れたと思った涙だ。
そう気づいたときには、こぼれた涙を止めることなどできなくなっていた。
「……あたし、イル姉さまの涙、初めて見るわ」
「……おれも」
「綺麗ね、イル姉さま」
そっと、シュネイの手のひらが、ツェイルの頬に添えられる。反対側の頬には、トゥーラの手のひらが添えられた。
「悲しいのね……でも、だいじょうぶよ。あたしとウーラ兄さまと、ヒーデとガルデアが、イル姉さまを護るから」
こつん、とシュネイの額が、ツェイルの肩に寄りかかる。
「心配するな……おれたちが、そばにいるから」
そう言ったトゥーラもまた、ツェイルの肩に身を寄り添わせる。
二つのぬくもりに、ツェイルはぼろぼろと涙を落した。
なんで声が出てこないのか不思議なほど、とても胸が絞めつけられて、涙を止められなかった。
だから、二つのぬくもりに、甘えた。
このぬくもりは誰かに似ている。
誰かに与えてもらったものに、とてもよく似ている。
その人を思い出すと、息もできないほどに、苦しくなった。それでも、苦しいばかりではないと、ツェイルは知っている。知っているから、ますます涙はこぼれ落ちた。
「泣き虫だったんだな、イル」
「ほんとね……もっと早くに、それを知りたかったわ」
止まらない涙を拭ってもらいながら、ハクトウを口に運んだ。食べながら泣くという、とても不細工な顔を曝しながら。
再び寝台に横になったとき、ツェイルの目は真っ赤になって腫れていた。それを冷やしてくれながら、シュネイが笑顔で話しかけてくる。トゥーラは持ってきていた厚みのある本を読みながら、ときおりシュネイに突っ込み、ツェイルに無愛想な顔を向ける。
どれくらいそうしてふたりと一緒だったのか。
いつのまにか眠っていて、ふと目を覚ましたとき、そこにはまだシュネイとトゥーラがいた。そばにいるから、という言葉に違わず、一緒にいてくれたらしい。
ただ。
「なにか来たな……ネイ、起きろ」
なにかの気配を警戒したトゥーラが、転寝していたシュネイを起こして、緊張を走らせる。パタン、と本を閉じると、寝台を離れて窓の向こうを確認し、警戒しながら戻ってきた。
「気配を掴めない。人間じゃないみたいだ。けど、悪い感じがしない……イル、わかるか?」
それはツェイルには感じられないものだったので、寝台から身を起こして首を左右に振った。
「イルにわからないなんて……なんだろう」
「ウーラ兄さま、精霊かなにかが迷い込んだのではないの? 悪いものではないんでしょう?」
「ああ。でも……気になるな。ネイ、イルから離れるなよ。ちょっと見てくる」
トゥーラがなにを警戒しているのか、ツェイルには本当にわからない。けれども、それだけトゥーラが気にしているのなら、ツェイルもそれに倣ったほうがいい。
なにか武器になるものを、と視線を彷徨わせて、ツェイルはそれを見つける。
「イル、無理するな。おれがどうにかするから」
「そうよ、イル姉さま。ウーラ兄さまに任せて」
トゥーラとシュネイにはそう言われたけれども、ツェイルは迷わずそれを手にした。
銀色に輝く、美しい剣。
柄の上部にある薄紫色の宝石は、角度によっては銀色のそれを吸い込み、白っぽく光った。
「仕方ないな……イル、無茶はするなよ」
その忠告に頷き、部屋の扉に向かうトゥーラの背を目で追いかける。
トゥーラの手が、扉に伸ばされた、そのときだ。
「猊下の魔術は便利だな」
そんな声が、どこからともなく聞こえた。
「っ誰だ!」
トゥーラが驚いてそう声を張り上げたとき、ツェイルはシュネイと一緒に、すでにそれを目撃していた。
「ツェイ」
部屋の中央で、淡く光った先から聞こえた、自分の呼び名。
光りが収束し、現われたなにかの陣の上に立つ、その、姿。
どうして、と思うよりも先に、喜びが胸に込み上げる。
苦しいと思っていたのに、それをも凌駕する歓喜に息が詰まる。
やはりこの想いはもう消せないのだ。
もうどうしようもないのだ。
「迎えに来たぞ、ツェイ」
にこりと向けられた、サリヴァンの微笑み。
ツェイルは大きく見開いた目から、涙をこぼした。
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