46 : 悲しいというなら。3
ツェイルの日常は、単調だ。
起きたら眠るまでの間に、食事を摂り、勉強し、身体を動かし、読書をする。
いつもそうだ。変わることはない。
けれども。
「いつまで、そうしているつもりなの?」
起きてから眠るまで、ほとんど食事も摂らず動かず、なにをするわけでもなく寝台から動かないでぼんやりしているツェイルに、痺れを切らせたのは姉、テューリだった。
「なにが悲しいのか、言ってごらんなさい!」
怒られても、ツェイルはぼんやりとしたまま、テューリを見ることもなく窓の向こうに視線を向けたままだった。
「戻ってくるなり、それはなんだというの! 理由をおっしゃいなさい!」
うるさい。
相変わらずテューリはよく怒鳴る。美人で気品があって、腕利きの薬師という顔を持つくせに、すぐ怒るからそれらが台無しになる。
婚約者も大変だろうなと、余計なことを思った。
「いつまで黙り込みをするつもり、ツェイル!」
ああどうして、テューリはこんなに怒鳴れるのだろう。
どうしてこんなに、耳を劈くように喋られるのだろう。
今まで一度だって思ったことはないが、ツェイルはこのとき、とても不愉快な気分だった。
どうして放っておいてくれないのか、それがわからない。
放っておいて、とツェイルはテューリを無視し続ける。
そんなにがんがん怒鳴られても、喋る気力がないのだ。
動く気力も、なにかをする気力もないのだ。
むしろ、どうしたらいいのかわからないのは、ツェイルのほうだ。
「なにか反応を見せなさいと言っているのよ、ツェイル!」
うるさい。
うるさい。
うるさい。
そう思うことすら、面倒に思う。
すると、聞こえていたテューリの怒鳴り声が、とたんに聞こえなくなった。
ああ、静かになった。
ホッと息をつくと、ツェイルは寝台に転がった。
青い空が眩しい。陽を浴びた緑は美しい。あの中にずっといられたら、どれだけ幸せなことだろう。あの中に自分が溶け込むことができたら、どれだけの至福が得られることだろう。
いや、違う。
あの中が、幸せなのではない。
あの中と同じぬくもりに、幸せを感じていたのだ。
いったい、なんだっただろう。
ふと考えてみたが、それすらも面倒になって、ツェイルは瞼を閉じる。
なにも見えない、なにも聞こえない。
ああ、とても静かだ。
「ツェイル、やめろ」
いきなりそんな声が、真っ暗な中から聞こえた。
「それ以上は、おまえが壊れる。わたしでは、支えきれない」
どこから聞こえてくる声なのか。視線を彷徨わせていると、突然真っ白なものが浮かび上がってきた。髪も瞳も、着ている服も、肌の色以外は真っ白な青年だ。
「多過ぎる代償は、おまえを壊す。おまえが壊れるほどの代償は、支払う必要はない」
心配そうな顔をした青年には、見憶えがなかった。
いや、どこか見知った面影がある。
「戻れ、ツェイル。ここはおまえが来る場所ではない。来てはならない場所だ。この領域はわたしの……精霊の領域だ。戻るのだ、ツェイル」
なにを言っているのだろう。そもそも、どうして自分を知っているのだろう。
「ツェイル……頼む、戻れ。来るな。ここに降りてきたら、わたしだけではどうにもできなくなる。ヒーデを呼んでも、おまえを戻せるかわからない。頼む、今のうちに戻ってくれ、ツェイル」
ヴィーダヒーデの名で、もしかして彼はヴィーダガルデアだろうかと、ツェイルは思った。
「ああそうだ、わたしだ。わたしがわかるだろう、ツェイル。なら、ここがおまえの来るべき場所ではないことも、わかるはずだ。来るな、ツェイル」
やはりヴィーダガルデアのようだ。見知った面影があると感じたのは、ヴィータヒーデに似ているからか。
そうか、ヴィーダヒーデは妖艶な美女だが、ヴィーダガルデアのほうは青年だったらしい。こんな綺麗な精霊が自分に宿っていたのかと、驚いた。
「暢気なことを考えてないで、戻れ。こちらに来るな」
戻れ、来るな、と言われても、ツェイルは自室から動いていないし、今だって寝転がっているだけだ。
「違う。わたしに引きずられて、魂が閉じられようとしている。そんな代償を支払ったら、おまえは二度と戻れない。わたしにすべてを渡したら、おまえが消えてしまう。やめろ、ツェイル」
どこに戻れというのか。
いっそこのまま深い闇の中に堕ちてしまっても、かまわないというのに。
「やめてくれ、ツェイル。わたしはおまえが可愛い。わたしからおまえを奪わないでくれ。可愛いツェイル、わたしを悲しませないでくれ」
悲しませないで、と言われても、なにが悲しいのかわからない。どこにそんなものがあるのかわからない。
「ああ、だめだ……だめだ、ツェイル。やめてくれ……わたしからおまえを奪うな、やめてくれ……っ」
悲鳴のような、けれど弱々しい懇願に、ツェイルは首を傾げる。
「ヒーデ……ヒーデ、助けてくれ……ツェイルを殺してしまう、死なせてしまう……ヒーデ、ヒーデ、助けてくれっ」
それを求めたヴィーダガルデアの叫びは、やはりツェイルには理解できないものだった。
だから。
忽然とヴィーダガルデアが消え去り、また真っ暗となっても、とくに困りも驚きもしなかった。
けれども。
「だめよ、ツェイル」
いきなり耳許で聞こえた声には、吃驚した。
「そんな悲しいことはしないでちょうだい。お願いよ、あたしの可愛いツェイル」
ふわりと身体を包むぬくもりは、ヴィーダヒーデのものだった。消えたと思ったヴィーダガルデアも一緒になってツェイルを抱きしめていて、いったいなにがどうなったのかと、ツェイルはさらに首を傾げた。
「……そう。そんなに、いやになってしまったのね」
なにが、と思う。
「いいわ、可愛いツェイル。そんなにいやなら、それでいいもいい。けれど、あたしたちと一緒にいてくれるかしら。あたしもガルデアも、あなたのそばにいたいの。だから、一緒にいてくれるかしら?」
なにがなんだかさっぱりわからないが、ヴィーダヒーデの申し出は悪くないものだ。ひとりで暗闇にいるよりも、こうしてヴィーダヒーデとヴィーダガルデアに抱きしめられているほうが、安心できる。
「ありがとう、ツェイル。好きよ。愛しているわ」
ちゅ、と額にヴィーダヒーデの唇を感じたと思ったら、頭の天辺にもそのぬくもりを感じる。ヴィーダガルデアだ。
「あたしとガルデアがそばにいるわ。あなたを護るから、安心して眠って。もうだいじょうぶよ」
なぜだろう。
だいじょうぶ、と言われても、なにがだいじょうぶなのかわからないのに、ひどく安心した。ひどく安堵した。
長々と息をついて抱きしめてくれるふたりの精霊に身を委ねると、そのとたんに全身の力が抜ける。
ああなんて、心地よいのだろう。
ああなんて、こんなにも、空虚なのだろう。
もう自分でもよくわからないことを感じながらも、ツェイルはそれらすべてを遮断した。
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