43 : 痛みを知らないから。4
サリヴァン視点です。
ラクウィルが珍しくわれを忘れて切れた。
サリヴァンにとってそれは久しく見ていないものだった。
「だいじょうぶか、ラク」
館からの帰り道、サリヴァンはずっと黙っているラクに声をかけた。反応しないところをみると、やはりそうか、と思えてしまう。
「おまえのせいではないぞ、ラク」
言うと、ラクウィルの足がぴたりと止まった。それに合わせて、サリヴァンも立ち止まる。
「……サリヴァン」
「ん?」
呼ばれたので返事をすれば、ラクウィルはくるりと振り返ってサリヴァンを見つめる。無表情だったが、しばらく互いに様子を見ていると、くしゃっとその顔が柔らかく崩れた。
「おれ、やっぱりサライ嫌い。痛みを知らないから」
笑いながら言うことか、と思ったが、自分でサライに言ったことを思い出して、口を噤む。
ラクウィルを狂わせたのはほかならぬサリヴァンだ。
「……好きにすればいい。おれはべつに兄上が嫌いなわけでも、好きなわけでもないからな」
「じゃあ、嫌ってください。おれが嫌いなので」
「はっきりそう言ったら、ルカに睨まれるだろうが」
「おれ、ルカイアもあんまり好きじゃないんで、べつにいいですよ?」
そういう問題ではないのだが、ラクウィルの捻くれ方は一般的な考えでは理解できないものなので、好きに言わせておく。
「ねえ姫、ルカイアのこと、好きですか?」
「え、わ、わたし?」
「ルカイアって、ころころ表情変えて、相手を惑わすでしょ? ほんとは腹黒くて陰険なくせに、そんなことないですよー的な空気出すの上手くて」
「……よく見ていらっしゃるのですね」
「あんまり好きじゃないから、なんでかなぁと思って、観察してみた結果です」
「……素晴らしい観察眼です」
「ありがとうございます。って、そうじゃなくてですね」
ラクウィルは、ツェイルを巻き込んで矢継ぎ早に質問し、返され、答える。
出逢った当初の頃は喋ることが得意ではなかった様子のツェイルも、ラクウィルやリリとの交流があってか、このところはよく喋るようになった。常から表情があまり変わらなかったが、最近ではふとした瞬間に笑顔を見せるようになって、まだぎこちなくはあるものの、感情が表に出るようにもなってきている。
ツェイルには嬉しい変化が見られるが、さてラクウィルはどうかと考えてみると、昔からなに一つ変わっていないように感じられた。
「ねえサリヴァン、最初に言ったのサリヴァンでしたよね?」
「ん……なんだ?」
いきなり話しかけられて、サリヴァンはもの想いに耽っていた思考回路を慌てて現実に引き戻す。
「ナナちゃんんことですよ」
「は?」
いったいいつそんな話になったのだ、と思う。
「ナサニエルさんを、ナナと呼び始めたのがサリヴァンさまだと」
ツェイルまでラクウィルの話にしっかりとついてきていた。ちょっと驚きだ。
「……おれが、ナナを?」
なんだって、と訊き返す。
「ナナと、呼び始めたのが、サリヴァンさまだと」
「ああ……そうかもしれないな」
いつのまにナサニエルの話になったのかは置いておくとして、サリヴァンがナサニエルを「ナナ」と呼び始めた張本人であることは、否定しない。
「サリエ殿下、今さらですがお訊ねしたいです」
「……ナナ」
「ナサニエルです」
「おれはサリヴァンだ、ナナ」
「ナサニエルです、サリヴァンさま」
なんでこんな話を、と思うが、理由を知りたがっていそうなツェイルの眼差しに負けて、サリヴァンは己れの汚点ともいうべきそれを口にする。
「発音できないんだよ、ナナとしか」
「ナサニエルで……、はい?」
サリヴァンは、ナサニエル、と発音するこことができない。できなかったから、ナナと呼んでいる。
「どういう意味ですか、サリヴァンさま」
「そのままの意味だ。……ラク、笑うな」
理由を知っているラクウィルが笑いをこらえていたので睨んみつけておいて、サリヴァンはふんと息をつく。
「……サリヴァンさま」
「ん?」
「ナサニエル、と」
「んん?」
「言ってみてください」
ひく、と顔が引き攣る。
いくらツェイルの頼みでも、それはちょっといやだな、と思う。
「サリヴァンさま」
「う……」
そんな可愛らしい目で見つめられたら、ちょっとくらいいいか、と思ってしまう。
「……なさにゃある」
言ってみた。
後悔した。
「はい?」
「だからっ、発音できないと言っただろうがっ」
言ってみるんじゃなかったと、つくづく思ったがすでに遅い。ツェイルはきょとんとしているし、ナサニエルは愕然としているし、ラクウィルに至っては「も、もうだめ……っ」と言いながら腹を抱えて笑っている。
できないことをするものではない。
サリヴァンは止めていた足を、再び前へと動かした。必然的に、手を繋いでいたツェイルを引っ張ることになる。
「さ、サリヴァンさま、え、待って」
「待たない。ラク、いつまで笑っているつもりだっ」
あっちへよろよろ、こっちへよろよろ、とふらつきながら笑い続けるラクウィルを恨めしく思いながら、愕然としたまま動けないでいるナサニエルにも「行くぞっ」と怒鳴り、サリヴァンは憤慨しながらアウニの森を突っ切った。
「ね、姫、おかしいでしょ? なんでかナナちゃんのこと、呼べないんですよ」
「……不思議です」
心の底から不思議です、なんて顔をツェイルにされては、込み上げていた羞恥もどこかへ飛んでしまう。
「でもね、サリヴァンって、自分の真名も発音できなかったんですよ」
「ラクっ」
余計なことを、と思うが、遅かった。ツェイルはしっかりと聞いていた。
「サリヴァンさま」
いやな予感がした。
「サリエ・ヴァラディン、と」
こんな状況でも、ちゃんと名を呼んでくれるのは嬉しいことだが。
なぜか遊ばれている気がするのは、気のせいだろうか。
「……ツェイ」
「言ってみてください」
いつのまにおれで遊ぶようになった、とツェイルに訊きたい。
「サリヴァンさま」
ああだから、そんな目でおれを見るな。
そんな目で見つめられると、つい応えたくなるからやめてほしい。
「サリエ・ヴァラディン、だろ」
言ってみて後悔するのに、ツェイルの眼差しに負ける自分はもう駄目だな、とサリヴァンは思う。
「言えるではありませんか」
「昔の話だ。今は発音できる」
さすがに自分の真名は発音できるようになった。
「サリエ・ヴァラディン・レイル・ヴァルハラだと、さっき名乗っただろうが」
「……それもそうでした」
ツェイルの目が泳いだ。
やっぱり遊んでいたか、と脱力する。
「……サリヴァンさま」
今度はなにをいう気だ、と小さく息をついたところで、ふと、ツェイルのそれは年相応なことなのではないかと感じた。
「ツェイ、と」
「ん?」
「ツェイ、と……言ってみてください」
なんの遊びの延長戦だ、と思ったが、サリヴァンは素直に「ツェイ」と、そのいとしい音を口にする。
言ったとたん、綻ぶような微笑みを見せられて、サリヴァンは息を呑んだ。
笑うようになったとはいえ、ツェイルの表情はまだぎこちない。
そんな中で、その微笑みはいつにも増して柔らかで、そして自然な優しい笑みだった。
だから、サリヴァンはふっと微笑む。
「おまえの名は、きちんと発音できるぞ」
「はい。ありがとうございます」
きゅっと、繋いだ手のひらに力を込めれば、同じ分だけの強さが返ってくる。
ほんわかと、胸が温かくなった。
じんわりと、胸に響いた。
「……ああ、そうか」
ふと、感じる。
「サリヴァンさま?」
「ん……今まで知らなかったことが多いなと、思って」
たとえば、この手のひらのぬくもり。
たとえば、この暖かでやわらかな気持ち。
たとえば、醜くも艶やかで必死な、心。
そのすべてはツェイルとの出逢いを経て、得たものだ。
「ああ……痛いな」
「え?」
きつく手を握ってしまったか、と焦ったツェイルに、サリヴァンは「違う」と首を左右に振る。
「今まで知らないでいたことが、痛いなと思って」
「なぜですか?」
「かっこ悪いだろ」
人間というものをいやというほど知っているはずなのに、基本的なこの優しさを、知らなかっただなんて。
けれども。
「まあ、ツェイに出逢えたこの人生が、おれには最高のものだからな……かっこ悪くても、いいか」
ツェイルに出逢えたこの人生、楽しまずしてどうする。
そう思えるから、まあいいか、と納得することができる。
「サリヴァンさま、かっこいいのに……」
ぽそっと、ツェイルが小さな声で呟いた。
「……え?」
聞き違いか、と思ったが。
「……、あ」
ぼっとツェイルは顔を真っ赤にした。
どうやらうっかり声に出してしまったらしい。
「……ツェイ」
「わ……わたし、今、なにを」
「おれは、かっこいいか?」
ぎくん、と明らかにびくついて動揺ツェイルのそれが、まさにその気持ちを表わしていた。
それがサリヴァンの姿を形容したものなのか、それとも生き方を形容したものなのか、どちらかはわからないものの、ツェイルに「かっこいい」と思われているらしいというのは、気恥しくも嬉しいことである。
「そうか……」
少なからず慕われていることは自覚しているサリヴァンなので、頬を赤らめたまま俯いたツェイルの頭をぐりぐりと撫でると、満面に笑みを浮かべた。
サリヴァンとツェイルの絵を、『みてみん』さまにのせていただいております。
よろしければご覧ください。