41 : 痛みを知らないから。2
アウニの森、と呼ばれる中を、奥に進んでいるのか手前に進んでいるのか。小道をただ進んでいるだけではその感覚を掴めない。
樹海のようだ。
「ここはおれの遊び場だった」
「遊び場?」
「ああ。ラクを拾ったのもアウニの森だ。十歳くらいだったな」
九歳でしたよー、とラクウィルの補足が入る。
「ん? あれ、おまえ、いくつだ?」
「おれですか? サリヴァンの一つ歳上ですよー」
「……いつのまにおれより歳上になった」
「そこはまあ、書類の関係上?」
「はあ?」
「ナナはまだ二十一歳ですもんねー?」
なぜそこでわたしがっ、と後ろでナサニエルが怒鳴る。怒鳴られてもやはりラクウィルは気にしない。
「術師団に入るには、歳が足らなかったんですよ」
「そうだったか?」
「最低でも十二歳、でしたから」
「……ああ、それだと無理だな」
「そうです。なので、歳上になりましたー」
ふたりのやり取りは意味がわからず、首を傾げると、サリヴァンが補足してくれる。
「時間の感覚がわからないんだよ、おれは」
「え?」
「歳も、数えたことがない。今はルカが数えているからわかるが」
「……ラクウィルさまも?」
はい、とラクウィルは前を歩きながら振り向く。
「おれ、平民出って、言いましたでしょ? しかも流浪の民だったので、生まれた月日なんて知らなかったんですよ。たぶんサリヴァンと同じくらいかなぁ、ということで、そういう年齢になったんです」
それなら誕生日はどうなるのだろう。
「サリヴァンさま、誕生日は……」
「ん? んー……ルカの話だと、年明けの冬終わり頃、だったな」
もしかして、祝ってもらったことがないのだろうか。そんな寂しいことが、あるのだろうか。
「ら……ラクウィルさまは?」
「おれですか? ルカイアが、あなたは夏生まれでしょうねって言ってましたから、たぶんそのあたりが書類に書かれているかと」
こちらも知らないのかと、ツェイルは驚いた。
「ツェイは?」
「先月の始めでした」
「なんだ、終わっているのか……なら、来年は盛大に祝おう」
「さ……サリヴァンさまも! ラクウィルさまも!」
「祝ってくれるのか?」
もちろん、とツェイルは大きく頷く。
「よかったなぁ、ラク。ツェイが祝ってくれるそうだ」
「そりゃ楽しみですねえ」
誕生日を祝う、ということがどういうものか、よくわかっていないようなふたりだったが、ツェイルはサリヴァンやラクウィルが生まれてきてくれたその日を感謝しようと、硬く心に決めた。
「ところで……どこに向かわれているのですか?」
ふと、今が夜更けであることを思い出して、ツェイルは周りを見渡した。先ほどから景色が変わっていないように思うのは、錯覚だろうか。
「アウニの森にある館だから、アウニの館、と呼んでいる。そこに向かっているところだ」
「アウニの館?」
「そろそろ見えてくるはずだが……ああ、そうだ。ツェイ、ここでは精霊を出せない。おそらく天恵も使えない」
己れの精霊は見たことがないので、出ることはない。だが、天恵を使えないというのは、どういうことだろう。
「おれとラクは、ここの領域に踏み入れることを許されているから別だが、ツェイはまだ許されていない。だから天恵は使えないと思う。ナナを連れてきたのはそういうことを含めたうえでのことだ」
後ろから「ナサニエルです」とまた聞こえたが、それは無視しておいた。
「天恵者ではないから、と?」
そう、とサリヴァンは微笑む。
「ここで最強になれるのは、おれだけだ」
「サリヴァンさま、だけ?」
「アウニの森は、猊下がおれのために張ってくれた結界に囲まれている。だからここはおれの遊び場なんだ」
淡の塔に幽閉されていても、フェンリスがよくアウニの森に連れて来てくれたからな、と教えてくれた。
「結界はおれを護るように作動するから、ラク以外の天恵者を受け入れない。天恵者がここで力を使おうものなら、結界にあてられる仕掛けだ」
「そう、なのですか」
けっこう危険な森、ではないだろうか。
「代わりに、物理的なものには弱くてな。ややこしい結界なんだ」
「わたしにはよくわかりませんが……サリヴァンさまを護るものなのですね?」
「遊ぶための場所だったからな。外に出てからは来ることも少なくなっていたが……」
不意に、サリヴァンの言葉が途中切れ、足が止まる。
前方を見ると、大きな館が迫ってきていた。
「あれが……」
「アウニの館……五年前、建立されたものだ」
「五年前?」
「おれが住むはずだったんだ」
過去形の言葉に、ツェイルは首を傾げる。
「どういう、意味ですか?」
「幽閉先だ」
「え……」
「ここに移動させられるはずだった」
サリヴァンを見上げると、自嘲気味に笑っていた。
「だが、運命や宿命、宿世は皮肉でな……」
サリヴァンの視線が、塔の入り口であろう大きな門の、ある一点に絞られる。ツェイルもそちらを凝視して、それを見つけた。
明りの中に、一台の車がある。
「……あれは」
車の周りには、数人の人影がある。よくよく見ると車には紋章があって、ナルゼッタ侯爵家の家紋だとすぐにわかった。
「わざわざこちらで回収せずとも、城に送ってくださればよいものを……」
サリヴァンが、ため息をつきながらそう言った。
行くぞ、とツェイルの手を引いて歩を再開させ、門前の人だかりへと足を進める。少しずつ近づくにつれ、人だかりが騎士団の人たちであることに気づいた。
「夫人は、元皇妹殿下だ」
「皇妹……では、サリヴァンさまの」
「叔母上、だ」
身内だったらしい。では、ツェイルを拉致したあの女性は、サリヴァンにとって従妹になるのではないだろうか。
「悪いが、おれは夫人を真に叔母と思ったことはない。私有地の森や夜会で幾度か見かけただけで、言葉を交わしたことは一度もないからな。そもそも、おれを嫌っていた」
「嫌って……?」
この人に惹かれない人などいるのだろうか、と思っていたツェイルとしては、叔母だという元侯爵夫人の気持ちが理解できない。
「当然だ。自分の知っている甥が、五年前にいきなりおれになって、帝位を預かったんだから」
「……どういう、ことですか?」
「夫人はおれが幽閉されていたとは知らない。だからもちろん、おれが甥であることも知らない。夫人にとっておれは、いきなり現われた帝位簒奪者というわけだ」
「簒奪……サリヴァンさまがそんな」
なんて恐ろしいことを、とツェイルは眉をひそめたが、サリヴァンの自嘲気味な笑みは消えない。
「似たようなものだ」
あっさりと肯定までして、皮肉げな顔で車を一瞥する。
「おれを見知らぬ者からすれば、おれは皇帝国主……だが、皇族を知りながらも真実を知らぬ者からすれば、おれは帝位簒奪者」
しかしな、とサリヴァンはその双眸を細め、ツェイルと繋いだ手に力を込める。少し震えているその手は、古傷を負っているほうの右腕が強張っているせいだと、ツェイルは気づく。
「しょせんおれは、仮初めの皇帝でしかない」
「……かりそめ?」
なにが、と思った。
「ツェイ……おれは、仮初めの皇帝だ」
だからどういうことだ、とツェイルは首を傾げる。
「前に、おまえが言ったことがあっただろう。あなたは本当に皇帝陛下ですか、と」
それは、出逢った頃にツェイルが口にした無礼極まりない言葉であるが、今ではサリヴァンに国主の天恵があることを知っている。その天恵を発動できる根源たる、右腕の刻印を見ている。
「サリヴァンさまは国主であられます」
誰も、サリヴァンのことは否定できない。否、ツェイルがそうさせない。サリヴァンはこのヴァリアス帝国を護れるただひとりの人だ。
「なら、ツェイ……おれが帝位を返上しても、おれのそばにいてくれるか?」
帝位を返上できるのか疑問ではあるが、ツェイルはサリヴァンを好いて、結婚の申し入れを受け入れている。サリヴァンがツェイルにそう想わせたことだ。サリヴァン以外の人であったなら、きっとツェイルは頷かなかっただろう。
だから、再び頷く。
「わたしは、サリヴァンさまのおそばにいます」
サリヴァンが国主だから、決めたのではない。
人間として危うく、儚く、壊れてしまいそうなサリヴァンが、ひとりの人間であり、優しいぬくもりを持つ人だと知ることができたから、ツェイルはサリヴァンを選んだのだ。
サリヴァンが皇帝であろうがなかろうが、簒奪者であろうがなかろうが、それは変わらない。
サリヴァンがサリヴァンであれば、ツェイルはそれでいい。
「……いいのか、ツェイ」
念を押すかのように訊いてくるその様子に、サリヴァンが不安に駆られているのだと、気づく。
「わたしはサリヴァンさまの剣。すべてから、サリヴァンさまをお護りします」
この心は、今やサリヴァンのものだ。
「そうか……ありがとう、ツェイ」
サリヴァンの両腕が、すがりつくようにツェイルの身を覆う。体格はサリヴァンのほうが上であるのに、まるで子どもを抱いているようだ。
ああ、怖かったのか。
ふとそう感じた。
なにが、とは言えない恐怖が、サリヴァンにはあるのだ。深く眠ることができないそれと同じものが、いや常にあるからこそ眠ることができないそれが、ずっとサリヴァンを苛んでいるのかもしれない。
それならば、ツェイルは、ずっとそばにいて支え続けるだけだ。
「サリエ!」
誰かを呼ぶ大きな声が、聞こえたときだった。
「あちゃー……やっぱり見つかっちゃいましたねえ」
その声に、気が抜けるような声を出してラクウィルが反応した。
「見つかりたくは、なかったがな」
サリヴァンがそう言った。
顔を上げてサリヴァンを見ると、なにかを恐れるように幾分か顔を強張らせたサリヴァンが、声のしたほうを見つめていた。ツェイルを抱く腕にも、力が増した。
「下がれ狂犬! 貴様に用はない。そもそも、いつまでサリエのそばにいるつもりだ!」
「そう言いますけど、おれ、サリヴァンの騎士でしてねえ」
「貴様のような狂犬が、未だサリエを護る騎士だと言うか。笑わせる!」
とても大きな声で、ラクウィルを詰りながらも近づいてきたその人影に、ハッと気づいて膝をついたのはナサニエルだ。それにラクウィルも、「ああうるさい」と言いながら、近づいてきた気配に膝をついた。
動かないのはサリヴァンと、その腕の中にいるツェイルだけだ。
誰だろうと振り返って、最初に目に入ったのは、群れを成していた騎士団の人たちが全員、膝をついて騎士の礼を取っている姿だ。
そして。
「え……?」
その姿の輪郭線はサリヴァンだ。いや、サリヴァンに酷似した輪郭線だ。
「サリエ! なんだ、その小娘は!」
びくっ、とツェイルは震える。
「相変わらずの女好き……よく姫が女だって気づきましたねぇ」
ラクウィルがそうぼやいたので、自分のことを言っているのだとわかった。
「おれの妻ですよ、兄上」
え、とツェイルは目を丸くする。あからさまな妻という単語も赤面ものだが、それよりも、兄上という単語に驚きを隠せない。
「というか、兄上……寝間着のままいらっしゃらなくても」
「…………、うわ!」
「ああ、気づいておられなかったのですね」
「き、着替えてくる! そこを動くなよ、サリエ!」
「いえ、状況はもうだいたい把握しましたので、大老にお逢いしたら帰ります。もともと大老に逢うために参りましたので」
「爺にはつき合うのにわたしにはつき合えんと言うか!」
「夜更けですし」
「ナサニエル! サリエを捕まえて、館の客間に放り込め!」
後ろからナサニエルの「え、はっ、御意っ」という焦った声が聞こえたあと、サリヴァン似のその人は踵を返して走り去った。
いったいなんの嵐だ、と思ったのは、当然だがツェイルだけだ。
「サリヴァンさま……あのお方は」
「兄だ」
やはり兄上という単語は聞き違いではないようだ。
「とりあえず……ナナ」
「うっ」
サリヴァンが顔だけ振り向かせて、与えられた命令に従うべく近づいてきていたナサニエルに微笑みかける。
「ツェイに触るなよ?」
サリヴァンの笑みになにを感じたのか、ナサニエルはそろそろと身を引くと、ビシッと姿勢を正した。
「塔へご案内いたします、サリエ・ヴァラディンさま!」
「サリヴァンだ。その長ったらしい名で呼ぶな」
「はっ、サリヴァンさま!」
嵐は、まだ続いているのだろうか。
そう思いながら、とにかくサリヴァンの説明を待とうと、ツェイルは決めた。