40 : 痛みを知らないから。1
「また修繕費は自腹か……」
「それがあるじたる者の取るべき責任かと」
「この窓、ついこの間直したばかりだというのに……」
「仕方ありません。壊れてしまったのですから」
「ツァインの暴挙のせいでなっ」
綺麗に片づけられ整えられた執務室で、サリヴァンはがっくりとうなだれていた。どうやらつい最近にも、修繕費を取られる事態が発生していたようだ。
「ツェイ、あの怪力はどこで養われたんだ」
「は……兄の、ですか?」
さて、とツェイルは考えてみる。
「……母の遺伝でしょうか」
「母?」
「よく、父を投げ飛ばしておられましたし……わたしたちきょうだいも、よく投げ飛ばされましたから」
「投げ飛ば……っ?」
久しぶりに父と母を思い出してみると、もういないのか、と少し切なくなる。
よく喧嘩をしていた両親だが、それでも傍から見れば恥ずかしいくらい仲睦まじい夫婦であったので、死ぬときも一緒だったのは、悲しいけれどもよかったとも思う。
「ツァインのものを投げる癖は、母君から譲られたもののようですね」
「……そのようだな」
ルカイアが納得したように言い、サリヴァンはげんなりとしながら頷いた。
「ツェイをここに呼んだ目的を果たす気力が失せてきた……」
「え……あ、兄の無礼はわたしがお詫びします。申し訳ありません、サリヴァンさま。ですから……」
そうだ、ここにはサリヴァンに呼ばれて来たのだ。ツェイルがこれまで一度も踏み込むことがなかった、サリヴァンの国主としての領域だ。知って欲しいことがあると言われたのに、それは踏み込むことを許されたということなのに、ここで終わりだなんていやだった。
「……またいつかでいいか?」
「サリヴァンさまっ」
「冗談だ」
にこ、とサリヴァンは笑う。人が悪い。
「これ以上先延ばしにしたところで、いいことはないからな。ツェイとの結婚も遠のく」
それはいただけない、と言ったサリヴァンはツェイルの肩を抱くと、笑顔のままルカイアに振り向く。
「おまえも行くか?」
「わたしまで出たら、いざというときにいかがなさるおつもりです。老宰相たちに、その采配がおできになるとでも?」
今もこの場におられないのに、とルカイアは不機嫌に言う。
「あのふたりはおまえと違って、優柔不断だからな」
「ええ。ですから、ナサニエルあたりを連れてお行きください」
「要らないぞ?」
「あの場所であなたが最強であることは承知しておりますが、形だけでも」
「……仕方ないな」
ふむ、と唸ったサリヴァンは、ふたりの会話に追いつけず首を傾げていたツェイルをさらに引き寄せると、パチン、と指を鳴らした。
「ラク、呼べ」
ここにラクウィルはいないが、と思った瞬間のことだった。
「んー? ナナがいないですねえ……お、いたいた」
どこからともなくラクウィルの声がし、続いて「んぎゃ」という短い悲鳴と「がしゃん」という金属が擦れる音がした。
「ひ、ひど……まだ、着替えの途中だったのに」
「うわぁ、ナナかっこわるぅ」
「ナサニエルだっ! 妙な渾名をつけるな、変人が!」
「ラクウィルですよぅ。ナナこそ、おれのことそんなふうに呼ばないでくれますぅ?」
「きもっ……て、ここどこだよ!」
ツェイルは、ラクウィルと言い合っている騎士と同じく、視界に入るその光景に驚いていた。
「……、え?」
なにが起こったのか。
「え?」
周りを見渡すと、そこは執務室ではなくて。
「うわっ、ツェイルさまっ? な、なな、なんでここにっ?」
「……あ」
その騎士は、よくツェイルの剣の稽古につき合ってくれる近衛騎士だ。名をナサニエル・ナドニクス、ナナと呼ばれていた大柄な騎士だ。
「アウニの森ですよー」
ラクウィルが絶妙な頃合いで、ツェイルやナサニエルが驚いているこの場所について答えた。
次いでサリヴァンも、
「さすがにふたりも運ぶと、疲れるな……」
そう言いながら、なぜか疲れていた。
「あ、あの、サリヴァンさま……いったい、なにが、どうなって」
「はーい、おれの天恵でーす」
「ラクウィルさま?」
「はい。召喚はサリヴァン限定で、座標を設定したのち空間移動することができるんですよー」
にこにこと笑ったラクウィルが、その説明をしてくれる。
「ただし、ふつうはおれがサリヴァンのところに転送されるので、負荷はおれにくるんですけど、今回はサリヴァンを転送させたので、サリヴァンに負荷がかかったんですよ」
「……これも、天恵なのですか?」
「三つめの無属性天恵です。言い方を変えると、古の恩寵、サリヴァンの恩寵と同系種のものですねえ」
「恩寵……」
「だからおれに《天地の騎士》なんて称号があるわけですが」
「でぃ……ディバインっ?」
「はいー」
あはははは、と笑うラクウィルには、その緊張感のなさからか、まったく威厳が感じられない。
《天地の騎士》というものがどんなものであるか、ラクウィルはわかっているのだろうかとツェイルは顔を引き攣らせる。まさかラクウィルがその称号を継承しているとは思わなかったが、そういえばツェイルはラクウィルの名を最後まで聞いたことがなかった。
「あ、あの、ラクウィルさま、お名前は……」
「ほ? ああ、そういえばラクウィルってしか名乗ってませんでしたね」
「はい」
「ラクウィル・ディバイン・ダンガードって言います」
どうしてこの人は侍従長なのだろう。
なぜもっと早くに、気づかなかったのだろう。
《天地の騎士》の称号を継承した者は、血に拘らずディバインという銘を引き継ぐ。この世界にある三大国にその力を認められ、世界共通にして三大国に最低でも一人ずつは存在する、最強の騎士だ。そして、《天地の騎士》は必ず皇帝のそばにいる。皇帝ひとりにつき、ひとりの《天地の騎士》がいるものだ。
貴族ならば知っている常識に、ツェイルはひどく落ち込んだ。
「あれ? なんで凹んでるんですか、姫」
「申し訳ありません……今の今まで、気づきませんでした……」
ラクウィルの能天気な性格が邪魔をしていた、と言ってしまえばそれまでだが、どうりで騎士っぽいはずだ、とも思う。
「おれ、名乗りませんでしたからねぇ。説明が面倒だったので」
「説明もなにも……貴族の端くれならば、知っていなければならないことです」
「そうでもないですよ?」
ねえサリヴァン、とラクウィルは疲れているサリヴァンに賛同を求める。いくらか回復したらしいサリヴァンは「まあな」と答えた。
「ラクは、特殊だから」
「……特殊、ですか」
どの辺が、とラクウィルに視線を戻すと、にこりと微笑まれる。この辺だろうか。
「まあおれのことはどうでもいいですから、先を急ぎましょうよ。なんのためにここで足を止めていたのか、意味がなくなっちゃいますからね」
そういえばここは、アウニの森だという。
足を踏み入れたことがない土地なので、ここがアウニの森のどの辺りなのかはわからないが、見渡す限り木々が生い茂り、まったく地理の予測が立たない。
「ナナ、着替えられましたぁ?」
「ナサニエルだっ。というか、ちょっと待て。鎧をまだつけてない」
「仕方ないですねえ。手伝ってあげますよ」
「変人の手など要らん!」
「ラクウィルですってぇ。ナナちゃん、不器用なんだから手伝いは素直に受けなさいよ」
「きぃもぉいぃーっ! 近寄るな、変人が!」
なぜかナサニエルに激しく嫌われているラクウィルだが、本人は至って気にした様子もない。
「仕方ないですねぇ……ルーフェさん、手伝ってあげてくれます?」
拒絶が激しいので、精霊を出してナサニエルの着替えを手伝ってやっていた。
そもそも、なぜナサニエルは着替え途中なのか。
疑問である。
「それはですねえ、ナナが女のところに」
「違うっ! 夜番の交代時間だったんだ!」
ツェイルの心情を上手く読み取って説明をしようとしたラクウィルを遮り、着替え終えてからナサニエルは全力で否定すると「ツェイルさまっ」と駆け寄ってきて、ツェイルの前に膝をついて頭を下げた。
「変人の言葉など、ぜぇったいに、聞かないように。奴の言動は信ずるに値しません」
「え……いえ、あの」
それは知っている、ような気がする。
「それから、サリヴァンさま」
「ん?」
「ご無理をなさいませんように。変人の天恵は、サリヴァンさまに大きな負荷をかけると聞き及んでいます。わたしを連れて来てくださったことには感謝いたしますが、今後はこのような無茶はなさらないでください。どんな急ぎであれ、ご自身が飛ぶなどということは控え、われわれ騎士を呼んでくださいますよう、お願い申し上げます」
「痛い言葉だな……」
「……賭けの約束、忘れていませんから」
「げ……」
忠実な騎士は、まるでサリヴァンの弱みでも握っているかのようにその行動を牽制した。
「ルカがナナを連れて行けって、言ったんだがな……」
「ナサニエルです」
「仕方ない……約束は約束だ。ラクは前を、ナナは後ろを任せる」
「ナサニエルです」
「ツェイ、ナナのことは空気と思え。むしろ空気だ」
「ナサニエルですっ」
「うるさい、ナナ」
「なっ……ナサニエルですってばぁ……」
大柄な身体が、小さく萎れた。
ちょっと面白かった。
「元気だしなよ、ナナちゃん」
「うるさい、変人!」
「ほら行くよー、ナナちゃん」
「ナサニエルだ!」
どうしても「ナナ」と呼ばれたくないらしいナサニエルに、ふっと笑いが込み上げるのも仕方ない。
こらえていたら、素直に笑えとサリヴァンに言われた。