03 : 隠れた心をすくうは。1
侍女リリは、歳若い宰相ルカイアの遠縁にある貴族で、しかし両親を幼いころに亡くして爵位を失い、ルカイアのところに引き取られたのだという。ルカイアの侍女としてつき従っていたが、ルカイアに連れられてきたツェイルの侍女となり、今に至る。
ルカイア・ラッセ。正式にはルカイア・ウェル・ラッセ。公爵家の次男で、皇帝陛下とは幼馴染。宰相への抜擢は、皇帝の一存であったらしい。ゆえに戸籍は独立しており、侯爵の地位にあるという。
「ルカイアさまが宰相となられたのは、五年前の、先帝さまが崩御なさったときのことです。あの頃から、ルカイアさまは変わられました」
「政変はそれほどひどくなかったと、聞きましたが」
「ええ。ですが、それは表向きです。本当はとても大変だったのですよ」
ルカイアの侍女で、それも誰よりも長くそばにいたことで、リリはルカイアの身辺を誰よりも把握し、理解している者だった。
「わたしは、先日の一件で、ルカイアさまがツェイルさまをお連れになった理由が、なんとなくわかりました」
「はあ……」
「ツェイルさまなら、陛下のおそばにいても、いいと思うのです。いえ、ツェイルさまでなければなりません」
「……それは、懐柔ですか?」
「いえ、とんでもない! わたしの素直な気持ちを、失礼ながら申し上げた次第です!」
リリは素直でいい人である。ルカイアがそばに置いて、面倒を看て、そうしてツェイルに就けた理由も頷ける。
リリは、先日のツェイルの、サリヴァンに対する「あなたは誰ですか」という失礼な発言を聞いていながらも、なぜかそれに動揺を見せない。つまりはサリヴァンやルカイアのように、なにかを知ることを許された者のひとりなのだろう。
先日、あの発言ののち、サリヴァンもルカイアも、ツェイルを叱責することなく部屋を出て行った。それから今日に至るまでなんのお咎めもなく、こうしてリリがふつうに仕えてくれているところを鑑みると、ツェイルはなにか核心めいた部分を突いてしまったが、それでいいと判断された結果かと思われる。
ツェイルはただ、サリヴァンに感じたそれを口にしただけであるから、周りの真意など知る由もない。咎めがないのはなぜだろうと、首を傾げるだけだ。
「ツェイルさま?」
「……あ、すみません。お茶でしたね」
「謝らないでください。どうぞ、セイ茶です」
ぽかぽかと暖かい日が続いているので、今日は露台に丸机と椅子を出して、そこでお茶をしている。日光浴しながらの緑の強い香りに、わけもわからないホッとした安堵感を得た。
「では、わたしは洗濯してまいりますので、しばらくここを離れますね。なにかあってはなりませんから、お部屋から出ませんように」
「本を、読んでいます。ついでに見繕ってきてもらえると、嬉しいです」
「わかりました」
ツェイルにつく侍女はリリだけなので、すべてリリがひとりでこなす。なんだか申し訳ない気もするが、手伝った日には調度品すべてを破壊しかねないツェイルの不器用さは、リリの率直な「邪魔です」という気持ちを汲むしかない。手伝わないことが侍女にとっては当たり前だが、リリにとっては邪魔でしかないのである。生粋の貴族ではないから自分のことは自分でできるが、リリの邪魔をした日には部屋の片隅で丸くなるしかなかった。
先日の一件からサリヴァンもルカイアも姿を見せないので、リリとふたりきりの毎日が続いている。
身体を動かしたいが、未だ滞在している姫たちのこともあるからせいぜい露台に出るくらいで、ツェイルとしては非常に不満である。きょうだいたちへの面会も許されていないから、寂しさや哀しさは募るばかりだ。
「兄さま……姉さま……トゥーラ、シュネイ……逢いたいよ」
本を片手に、心地よい風を頬に受けながら、きょうだいたちを想う。とくに兄と姉が心配でならない。
今こうしている間も、きょうだいたちは平和に暮らせているのだろうか。
ぼんやりと、露台に置いた椅子に座って、本を読むわけでもなく外を眺めていたときだった。
「ツェイルさま!」
と、先ほど出て行ったばかりのリリが、部屋に飛び込んできた。息せき切ってやってきたので、どうしたのかとツェイルは慌てて露台から部屋に戻る。
「リリ?」
「ツェイルさま、大変です」
「はい?」
「陛下がいらっしゃいました!」
ああ、そうですか。
「わかりました」
「えっ、それだけですか!」
なにが大変だというのか。皇帝陛下なのだから、妃候補のところへ来るのは自然である。
尤も、サリヴァンはツェイルを妃候補とすら見ていないようであるが、それでもほかの妃候補の姫たちとは違う待遇を受けているとツェイルは思っている。
ルカイアが姫たちを敬遠しているように、サリヴァンにもその節が見られた。それなのに、ツェイルのところに乗り込んだ姫を撃退し、失礼な発言をしたツェイルのところにはわざわざ足を運ぶ。おそらくはルカイアが連れてきた者だから、という理由で、サリヴァンはだいぶ骨を折ってくれていると思うのだ。
「まだいたのか」
と、部屋に入るなりサリヴァンに言われたところで、痛くも痒くもない。
「わたしはここにいますと、そう申し上げました」
「おれの言質を取って、ルカを言い含めればよかっただろう」
「……それができれば苦労はしません」
「まあ、そうだろうな。おれもルカには勝てない」
サリヴァンはずかずかと部屋に入ってくると、中央に置いている寝椅子に腰を下ろし、リリにお茶を頼んだ。
「本当に、おれの言質を取って、逃げてもよかったんだぞ」
疲れているのか、サリヴァンはリリに淹れてもらった茶をゆっくりと口に含みながら言った。
「陛下」
「……ん」
「怒っておられないのですか」
「……、なんのことだ?」
きょとん、としたサリヴァンに、違うのかとツェイルは首を傾げた。
あの失礼だったのだろう発言の咎めが、今来たのだと思ったのだが、違うのだろうか。
「先日、わたしは失礼なことを、申し上げました。咎めを受けるのは必須と思っておりましたが」
「……ああ、あのことか」
「お忘れですか?」
「いや……咎めるなんて、思いつきもしなかった」
え、と驚いたのは、言うまでもない。
心が寛大なお人なのだろうか。
「リリ、下がってくれ。姫とふたりで話がしたい」
そう言って、サリヴァンはリリを下がらせると、ツェイルを自分の隣に促した。
「……なぜ床に座る」
「わたしはただの妃候補です。陛下と同じ場所には座れません」
「おまえは誰に嫁ぐのだと言われてここに来た?」
「あなたさまです」
「なら、座れ」
椅子に、と強く勧められたが、ツェイルも断固として床から動かなかった。
ルカイアがツェイルに求めたのは、メルエイラ家の力である。けして、人間としての、女としてのツェイルではない。サリヴァンにとってツェイルの存在は本意ではないだろうが、ここにいると決めた以上、ツェイルはそれを貫くだけだ。
「強情だな……」
「お褒めいただきありがとうございます」
「褒めてない。が、まあいいか……おまえになにを言っても、たぶん、おれの言葉は通り抜けるだけだろうからね」
ふう、と息をついたサリヴァンは、お茶を一気に仰ぐとカップを卓に戻し、寝椅子に埋もれた。
ツェイルはじっと、サリヴァンを見つめた。
やはり、今でもサリヴァンには、人としての危うさと儚さと、壊れそうなものを感じる。
「ルカになにを言われたか知らないが、あいつが言ったことは忘れろ。おれはおまえになにも求めないし、求めるつもりもない。三、四日の内には帰してやる」
「え……?」
少し、予想外な言葉だった。帰れるなら嬉しいし、それに越したことはないのだが、サリヴァンのそれはルカイアが立てた計画をすべて把握したうえでの判断とは思えなかった。
「それがおれの答えだ。城を抜け出すという危険な行動を取らずにいてくれて、実のところ助かっている」
「い、いえ……」
逃げるつもりなどない。この身は帝国のために在るのだと、そう心に決めた。だから、逃げてしまおうとは考えなかった。
「おれはこの先も、妃を娶るつもりなどない。だから、おまえは家に帰れ。ツァインには、近い内におまえを帰すと伝えてある。ツァインが迎えに来るだろう」
「兄さまが……」
「ああ、ツァインのことは、そのままだから安心しろ。メルエイラ家も、侯爵位を与える。もともとは先帝の勝手な判断だし、メルエイラ家に叛旗の意思がないことなど、わかりきっていたことだからな」
あの決意はなんだったのだろうと、今日までの寂しさや悲しさはなんだったのだろうと、そう思うサリヴァンの言葉だった。
「し、しかし……わたしの、天恵のことは、すでに知られて」
「そのことだが、ルカは誰にも言っていない。おれも、な。メルエイラ家の秘密だったんだろう? 暴いて悪かったな」
「謝られることでは……」
まるですべてが嘘だったかのような、夢であったかのような展開に、ツェイルは頭が追いつかなかった。
「ルカの想いは、わからなくもないが……おれは、どうしたって、おれでしか、ないからな……」
「……陛下?」
「ん……すまない。政務から……逃げてきた、から……」
ツェイルが困惑しているのを余所に、サリヴァンは唐突に、寝椅子に転がった。どうしたのかと驚いてそばに寄ったら、寝息が聞こえてきた。
「……陛下?」
呼びかけても、反応しない。
どうやら眠ってしまったようである。
疲れているようには見えたが、安心できるところでもないだろうにこんなところで眠気に負けてしまうくらい、極端に疲弊していたのだろう。隣国との揉めごとが解決したとは聞かないので、それに振り回されながらも、ツェイルのことまで考えてくれていたのかもしれない。
サリヴァンの寝顔は、とても苦しそうだった。
なんてことだ、と思った。
ルカイアは、サリヴァンのこれを取り除いてやりたかったのではないだろうか。
「陛下……」
優しい人だ。
ルカイアにも感じたが、この人たちはどうして、こんなにも人に優しくあれるのだろう。ツェイルなどは自分のことばかりで、家族以外のことなど考えられないのに、優しい人だ。
ツェイルは失礼して寝椅子に座ると、柔らかくはないがせめて静かに眠れるようにと、サリヴァンの頭を膝に乗せる。扉の向こうに控えているだろうリリを呼ぶと、静かに上掛けを持ってきてくれるよう頼み、サリヴァンのさらさらとした淡い金糸の頭を撫でた。
こうしていると、きょうだいたちとのことを、思い出す。いつも賑やかで、笑いが絶えなくて、穏やかな毎日だった。兄や弟、妹に強請られて膝を貸したこともある。
サリヴァンはこういう穏やかさを知らないのではないかと、思った。
だから人として危うげで儚げで、今にも壊れてしまいそうなのに、無理を続けているのではないだろうか。
「ツェイルさま、ツェイルさま」
唐突に、耳元でリリの声がした。どうやらサリヴァンにつられてうとうとしてしまっていたようだ。
目を開けると、そこにはまだサリヴァンの頭があった。眠り始めたときより穏やかな寝顔に、ホッとする。
「なんですか?」
サリヴァンを起こさないよう、ツェイルは小さな声でリリに返事をする。
「あの、ルカイアさまが来られているのですが……陛下はここにおられますか、と」
「ああ……」
そういえば、眠りに入る間際、政務から逃げてきたと言っていた。サリヴァンがここに来たのは午後も中頃だったが、今はもうすっかり暗くなっている。まさかサリヴァンがここに逃げ込んだとは思わなかったのだろうルカイアは、この時刻になってツェイルのところに見当をつけたらしい。もしかしたらサリヴァンはそれを狙っていたのかもしれない。
「自然に起きるまで、眠らせてあげたいのですが……」
膝が痺れているから、随分と長くこうしていたのだと思う。それでも身じろぎ一つせずサリヴァンは眠り続けているから、かなり疲れていると診ていいだろう。
迷っているうちに、部屋の扉が静かに開かれて、ルカイアに突入されてしまった。
「……眠られているのですか」
ルカイアは驚いていた。
「はい。あの、できれば静かに。自然に起きるまで、眠らせて差し上げたいのです」
「声に反応しないところをみると、深く眠っておられるかと。そうなると、このお方は自然に目が覚めるまで、なにがあっても起きません」
「……そうなのですか?」
「ええ。滅多にそうなることはないのですが……珍しいですね」
まったく動かないサリヴァンは、それこそ人が動く気配にも、声にも反応しない。まるで死んでいるかのように深く眠っている。
「猊下がおられないところで、こんなに深く眠るなど……五年ぶりではないでしょうか」
「五年ぶり?」
その数字と言葉の意味はなんだろう。そもそも「猊下」とは誰のことだろう。この前もサリヴァンは「猊下」と口にしていたが、誰のことを言っているのかわからない。
ツェイルは首を傾げたが、ルカイアはため息をついて首を左右に振ると、扉を振り向いて誰かを呼んだ。
「ラクウィル、入りなさい」
ルカイアが呼ぶと、その人はひょっこりと扉から顔を出して、なぜかにんまりとその精悍な顔を笑わせた。
「めっずらしいもん、見ましたねえ。サリヴァンがマジ寝しちゃってますよ」
サリヴァンと同じくらい色素が薄いその人は、ととと、と部屋に入ってくると、ツェイルとサリヴァンの前に屈んだ。
「やっと眠ってくれましたねえ、サリヴァン」
誰もがサリヴァンを陛下と呼ぶのに、その人は呼び捨てだった。
「あの……?」
「あ、失礼。おれは侍従長のラクウィルです。こんな体勢から失礼しますね、ツェイル姫」
「それはかまいませんが……侍従長?」
「そうですよ」
騎士っぽく見えるのだが、むしろ騎士だろうと疑いたいのだが、ラクウィルと名乗ったその人は、侍従長らしい。
「ラクウィル、それは本当にツェイルさまに失礼ですよ」
「いいじゃないですか。ツェイル姫はかまわないとおっしゃってくれているわけですから」
「なりません」
「意地悪ですねえ」
不貞腐れた言い方をしていても、ラクウィルの表情は変わらない。なぜか楽しそうに笑っている。
変な人だ。
ツェイルのラクウィルに対する印象は、それに収まった。
「しっかし、サリヴァンがこんなところで眠るとはねぇ……どうしましょう」
「あの」
「はい、なんでしょう」
「よろしければ、わたしの寝室へ。この体勢のままでは、おつらいでしょうから」
なにをしても起きないというのは、ラクウィルが声を潜めずにいてもやはり身じろがないサリヴァンを見てわかった。それなら、このまま運んでも問題はないだろう。
「いいんですか?」
「はい。わたしはこちらで眠ってもかまいませんから」
「それじゃあ風邪を召されます。どうせだから、サリヴァンと一緒に眠っちゃってくださいよ」
「……さすがに、それは」
寝室を貸すのはいいが、さすがに共寝はどうかと思う。しかし、ルカイアはなにも言わず、ラクウィルは能天気に笑った。
「だいじょうぶですって。サリヴァン、本気で眠ると、絶対に起きませんから。こーんなことしても、ね」
と、ラクウィルはサリヴァンの頬を引っ張ってみせた。さすがにこれは起きるのではないかとツェイルは慌てたが、予想に反してサリヴァンは眠り続けている。
「……すごいですね」
「でしょ? こんなの久しぶりですから、もしかしたら朝になっても起きないかもしれませんねえ」
「だいぶ、お疲れなのでは」
「まあそれもあるでしょうが、この城はサリヴァンにとって、敵以外のなにものでもありませんからね。そう易々と眠れないんですよ」
「敵……?」
国主で、皇帝陛下であるはずなのに、城の中が敵だとはどういう意味だろう。
ツェイルがどういうことか問う前に、ラクウィルはツェイルの膝からひょいと、サリヴァンを抱き上げた。
「やっぱり痩せましたねえ……ツェイル姫、それでは寝室をお借りしますよ。私室までお連れするには、人目もあり過ぎますからね」
「え、ええ……どうぞ」
膝が痺れていたのでツェイルは立ち上がれず、寝室へはリリに案内してもらった。
「ツェイルさま」
「はい」
ルカイアに呼ばれて、ハッと顔をそちらに向ける。ルカイアは苦笑していた。
「申し訳ありませんが、しばし陛下をお頼みします。ゆっくり眠らせてあげてください」
「……はい、承りました」
ルカイアの優しげな眼差しに、これは本当に珍しいことで、できることなら好きなだけ眠らせてあげたいという、心が見えた。
だからツェイルは引き受けた。疲れたときくらい、ゆっくりとさせてあげたいと思うのは、当然のことだ。
それはツェイルの本心で、ここに来た理由など、関係ないことだった。